マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

野遊び年度初めに下見会

2011年05月21日 06時43分53秒 | 自然観察会
野遊びサポの新年度が始まりました。

ホーホケキョとウグイスが囀り穏やかな気候でサクラの花も満開です。

来週の本番を前に13人のスタッフが集まりました。

Yさんのお友達が新しく加入されて自然観察の会も増強です。

ボランテイア活動保険加入兼会費は安い。

後日に会長が市社協へ出向いて追加登録される予定です。

それにしても会費の追加徴収は未だに発生していない。

これは年度末に一部の返戻金があるからです。

ありがたい制度におんぶして今年も積極的に活動していくことになります。

保護者会も10家族で40数名の参加者になるそうです。

また、具体的な依頼はまだありませんが、その登録している市社協を通して少年自然の家の活動にも支援することでしょう。

年度計画の確認をして下見へ出発です。

例年のとおり民博公園からスタート。

頭上で飛び交うニュウナイスズメ。

まだ葉っぱがでていない樹木をあっちこっちへと。

シジュウカラも小枝にとまりました。

林の下ではフラサバソウ、ヒメオドリコソウ、ハコベ、タンポポなどが咲いています。

フランスのフランチェさんとサバチェ(?)さんが見つけたから二人の名をとったフラサバソウだそうです。

ソメイヨシノはまっ盛り。

ときおりヤマザクラやカスミザクラも見られます。

葉の柄に毛がないのがヤマザクラ。

あるのがカスミザクラ。

手で触るとその違いが判ります。

また、カスミザクラはソメイヨシノが咲く頃と同じだそうです。

サクラモチの葉っぱはオオシマザクラが用いられることが多いと聞きました。

アリアケスミレ、ミメスミレなどは無茎種。その見分けは難しい。

ズイキは茎でなくて柄なのですと教わります。

柄ということは葉柄、つまり葉っぱなんだわ。

そう、ズイキは葉っぱを食べていたんですね。

ヤエモグラは生えている毛でくっつく。

わき芽の反対側にあるのが本来の葉っぱ。

残りはタクヨウなんですって。

素人にはその違いが頭に入らない。

くっつくとは違いますがツル植物は巻き方によってまきつき、まきひげ、よりかかり、よじのぼりの4種に分けられているそうです。

キュウリグサの花の中央は黄色。

下から花が咲いていきます。

よく似た花がハナイバナ。

節ふしに花が咲きます。

充てる漢字は葉内花です。



コゲラが樹木を盛んに登っていきます。

ツバキの花にはミツがたっぷり。

これほど美味しいものはない。

甘味料としてはほんまに自然の味っていう感じです。

トノサマガエルに似た柄のカエル。

足はくっつくのでそれはアマガエルでした。

柄で判断してはあきません。



オオタカとおぼしき鳥が大空を旋回している。

翼がふくらみ、尾が長くみえるような飛翔姿。

ハイタカか、ノスリか、ミサゴか、チョウゲンボウか。

いずれも違うようだが・・。

ツバメが飛んできました。

ツグミもまだいます。

キジは泣き声だけで姿を見せません。

カワラヒワが何羽も飛んでいきます。

ヤマガラもアオジも鳴いた。

春の矢田丘陵はせかしく動いています。



道端にはムラサキサギゴケ、ホトケノザ、コオニタビラコ、ミツバツチグチ、やレンゲたちの春の色彩が田園キャンバスを染めていきます。



山のツツジ色が美しく、ショウジョウバカマ、シハイスミレ、ゼンマイ、キランソウ、ワラビ、リンゴの花なども。

爽やかな風が流れています。



下見を終えてからは民博公園に立ち寄って古民家を撮影してきた。

驚いたのは車の台数だ。

駐車場からはみ出した車は道路に縦列駐車。

その数は数え切れないぐらいで少年自然の家まで繋がっている。



春を待っていた人たちが一斉にくりだしたかのように大勢が訪れる穏やかな春の日。

のんびりと寛げる民博公園だが翌週にはまばらになっていた。

桜の花はまだまだ咲いているのに惜しいことをされたのではと思った。

(H23. 4.10 EOS40D撮影)

町内の親睦会

2011年05月20日 06時47分35秒 | 民俗を語る
平成6年に植栽された桜堤。

それは外川町を流れる富雄川沿いにある。

あれから17年経った桜は幹も太くなって潤いを与えてくれる場となった。

ここへやってきた地域町内会。

うん十年ぶりに親睦会が開催された。

集まったのは20数名。

アルコール飲料はたっぷりある。

以前は焼肉だったがささやかにということでアピタのお弁当。

一人一人の座席でよばれる。

昨日から降っていた雨も今朝には霧雨に。昼には止むだろうと決行した。

堤のアズマヤは恰好の場所だが地面は濡れている。

シートを広げてアウトドア用の座布団を敷く。

テーブルはといえば幹事さんが今日のために作っておいた手作り机。

組み立て式になっている。

始めるころには他所でも同じように集まっているグループが3組。若者や家族連れだ。

冷たい風が吹いているから熱燗ショーチュウが身体に暖かい。

地域の話題で盛り上がって3時間後にはお開きにした。

翌日の桜堤にはその十倍にもなる花見客が訪れていた。

春を待ちかねていた人たちがわんさかと訪れた。

その状況は民博公園でも見られた。

駐車場が溢れかえり少年自然の家まで使われていた。

それでも足らない駐車場。その間の路上に連なっている。

自粛の呪縛から解き放たれたのではないだろうか。

その日のことだ。

自治会長から町内会の写真展を頼まれた。

昨年に建て直された地区の集会所でしてほしいという。

市の広報誌のつながりに連載したこともある。

数か月前には県立民俗博物館で地元大和郡山の行事と祭り展をしていた。

住民も見に行ってくださった。

その勢いですることになった。

自治会のお茶飲み会でおしゃべりもしてほしいという。

地元に貢献する。これは大切なことだと承諾した。

展示資料はある程度整理している。

並べる数もあるが再整理をした。

当時使ったパネルや資料なども一緒に展示したい。

会長には事前にそれを見てもらった。

開催日は5月8日から10日までの短期間。

お茶飲み会ではプロジェクターまで用意してくださるそうだ。

さあて、何を伝えてあげようか。

(H23. 4. 9 SB932SH撮影)

田中町光明寺花祭り

2011年05月19日 06時42分47秒 | 奈良市へ
仏教を開いたお釈迦さんの生誕を祝う行事は、灌仏会(かんぶつえ)とか仏生会(ぶっしょうえ)と呼ばれる仏教行事で、各地の寺院では4月8日に営まれている。

民間信仰の高まりで、明治のころから花まつりと呼称されるようになった。

その日はウヅキヨウカ(卯月8日)とかオツキヨウカとも呼ばれる日でお釈迦さまの誕生日。

お寺に行って甘茶を誕生仏にかけてそれを飲む風習だ。

その釈迦像は、一方の手で天、もう一方で地を指すお姿。

お釈迦さんが誕生したときに、七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」と言った姿だという。

生きとし生けるものはみな尊い命をもっているという意だそうだ。

広大寺池の西に位置する奈良市田中町の光明寺でもその花祭りが行われている。

元禄十四年(1701)四月十四日の大火でそれまでの記録などほとんどを失ってしまった田中村。

尼寺円照寺の尼宮さんの慈悲で庵室古材を提供、再建に尽くされたとされる光明寺。

それから300年という永い年月に風雪で傷んでしまったお寺は平成13年に建て替えられた。

同寺には正徳三年(1713)三月十五日に和州添上之郡田中村の施主念仏講中が寄進したと刻印がある双盤鉦がある。

同地付近には六斎念仏講が多くあった。

田中村にもそれがあったという物証であるがそれ語るものは他にないが葬儀のときに呼び出し鉦として今でも使われている。

正徳三年と言えば八王子神社の座入名簿が記されている時期と同じだ。

頭家行事は遅滞なく連綿と行われてきた。

大火から復興した村中はそのころには盛大になってきたのであろう。

昼過ぎ、お堂に集まってきたのは尼講と呼ばれているご婦人たちと檀家総代。

今市の僧侶が花御堂の祭壇前に座られて念仏を唱えられた。

花御堂の屋根には近くで採ってきたレンゲの花で飾られている。

その中にはお釈迦さんの誕生仏。

アマチャヅルで煎じられた甘茶の湯に浸かっている。

この日はつきもののヨモギダンゴも供えられた。

木魚を叩いて三巻の般若心経を唱える間はお焼香。



手を合わせて拝んだあとはその甘茶を仏さんにかける。

産ぶ湯に見立てた甘茶の湯だ。

一人一人は祭壇前に進み出てお参りをしていく。

(H23. 4. 8 EOS40D撮影)

かつては天道花を立てていた伊与戸のおつきようか

2011年05月18日 07時59分08秒 | 田原本町へ
村屋神社から100メートルほどの北に鎮座する伊与戸(いよど)の八幡神社。

ひっそりと佇む。

その隣が公民館だ。

不定期だがそこで毎月お勤めをされている大師講の婦人たち。

10人ほどだそうだ。

かつては4月8日にその場で花まつりが行われていた。

昭和59年に発刊された田原本町の年中行事でそれが紹介されている。

おつきようか(5月8日)とも呼ばれていた日だった。

どうやらその日は天道花(てんとばな)を庭に立てていたようだ。

数メートルもある長い竹竿の先には山に咲くツツジの枝葉を葉を天頂に括りつけ、1足の草履を入れた竹カゴをぶら下げていた。

そのカゴには何か良いモノをが入る、或いは3本足のカエルが入ると言われていたようだ。

天理市の二階堂辺りでもその風習があったそうだ。

その写真が掲載されている年中行事の本。

川上村高原や都祁藺生などで聞き取った春の季節の古い風習の姿は県内から消えてしまったが記録映像として残されている。

花御堂の屋根に春の草花を飾って誕生仏であるお釈迦様さまに甘茶をかけて営む灌仏会。

一般的には花まつりと称されている。

それはいつしか日程が変わったようだ。

大師講の婦人の話では付近の田んぼなどから集めたタンポポを屋根に飾っているという。

以前は近くの幼稚園児にも来てもらっていたが何かあったら責任がとれんということで志のある地区の人の参拝を待つことにしたそうだ。

今年は21日にお勤めされる大師講の日に合わせたという。

午前中は花まつり。

昼に会食を食べてからは数珠繰りしてお念仏を唱える。

3月には涅槃の掛け図を掛けてお勤めをしたようだ。

(H23. 4. 8 SB932SH撮影)

還暦兎の干支桜

2011年05月17日 06時31分00秒 | 桜井市へ
毎年恒例になっている安部文殊院の干支桜。

この年の干支で形作られている花壇の姿はウサギだ。

干支の兎は私にとっての干支でもある。

1月に還暦を迎えた齢はまさしくそれを祝うかのようである。

ありがたいことだと花絵のウサギに手を合わせる。

干支桜を拝観していた二人のご婦人。

三輪の高宮に住むという80歳の女性。大神神社を明神さんと呼んでいる。

高宮には観音講があって毎月その講のお勤めがあるそうだ。

60歳のときに入講を勧められたが入っていない。

近所のことだからそれは知っているという。

二人はここまで自転車でやってきた。

一人の婦人は単車だったが高齢になったので事故でも起こしたらあかんし倒れたら怪我するからといって免許を返上したそうだ。

話しは盛り上がってその高宮の会所で行われているメンメンコウを教えてもらった。

5月5日、地蔵さんを祀っている集会所でお供えをしたころに地域の人がお参りにやってくる。

めいめいにやってくるからメンメンコウ。

めいめいが訛ってメンメンと呼ぶんやと笑って話す。



別れたあとにやってきたのは授産士を目指している王寺町の専門学校の女性たち。

20人以上も来られた。

文殊院の干支桜に感動して安部清明さんにもお参りをしている。

持参したデジカメやケータイ画像を交替しながらめいめいが撮っている。

手を合わせた清明さんへの願いはひとつ。

縁結びである。

干支桜の拝観日はまさしく縁結びであった。

(H23. 4. 8 EOS40D撮影)
(H23. 4. 8 SB932SH撮影)

気分が滅入る

2011年05月16日 08時27分35秒 | ぽつりと
深夜11時32分、震度6強(マグニチュ-ド7.2)の地震が再び襲った東北地方。

震源地は宮城だった。

送別会を終えたその夜は寝床のなかだった。

翌朝、起きてみれば実弟から着信履歴が残っていた。

発生から1時間後の時間帯だ。

返信したら上ずった声が聞こえてきた。

突きあげられるような揺れに家具やテレビが倒れた。

タンスの下敷きにならんでよかったけど、コワイから車のなかにいてた。

電気も止まった。

やっと回復した矢先の揺れが強い余震にたまらんという。

再びローソク生活なんで気分が滅入って精神的にまいっていやになってしまうと話す。

プロパンはそろそろ尽きてしまう。

カセットコンロは使い果たした。

朝のテレビでは避難所の映像が出ているものの、そんな実弟の様子は放送されていない。

ネットもそうだ。

励ましの言葉は見つからない。

援助できるのはなにだと考えてそのカセットコンロのボンベを買ってきた。

宅配便で送ることにしたが・・・。それは送れない。

「火種」は送ることができないちゅうわけだ。

どうしたら届くのであろうか手段は見つからない。

弟家族が住む青葉地区。

都市ガスは数日前に繋がってようやくお風呂に入れたその晩に再び止まった様子を夕方のニュースで伝えていた。

かわいそうやけど怪我なくてよかったとおふくろがいう。

そのおふくろは通じた電話で状況を聞いていた。

それから一晩中地震のニュースを見ていたそうだ。

前日には従姉の旦那のFさんが家にやってきて義援金を送ってほしいと伝えられた。

その前の日には従妹のHちゃんから送られた梅干しを食べていた。

それはたいそう美味しかったから仙台に送ったら喜ぶやろなと思って送り主に電話をした。

震災にあっていることは知らなかったそうだ。

そんなんやったらすぐに送ってあげると・・・。

従妹も弟に電話したそうだ。

子供のときから一緒に遊んでいた従妹たち。

長電話になったそうだ。

義援金を現金書留で送った。

最大の余震が発生したのはその夜のことだった。

余震の痕跡がタテ200km、ヨコ500kmの広範囲に亘って相当数が発生している。

印は真っ赤だ。

遠く離れた私はそれを見てさらに滅入っていく。

それから2日後の朝。

宅配便が不可ならネット通販はどうだろうかと思って試しに探ってみた。

楽天ショップのメガカスタマイズの「コン郎」の在庫はまだあるようだ。

送り先を実弟宅に指定して注文した。

受付は完了メッセージを出力した。

無事に着いてくれればいいのだが・・・。

11日の17時16分には福島県内で震度6弱(マグニチュード7.1)が発生。

宮城は4弱だった。

その10分後には5弱が・・・。

心が安らむ日がまた遠のくその2時間後には無事にガスボンベが届いたと電話があった。

都市ガスだけがまだ復活していない。

近くまで工事が進んでいるのだが管に水が溜まっておおじょうしているらしい。

それまでは送ったガスボンベが役立つので助かると喜んでいた。

<写真は送別会の花束>

(H23. 4. 7 記)
(H23. 4. 8 SB932SH撮影)

お手上げHP

2011年05月15日 08時22分08秒 | つうしん
ホームページは破綻の方向に向かういっぽうだ。

平成22年5月にはFC2WEBでアップしていた行事関係の月別ページがおかしくなっていた。

それはアップができてもしばらくするとnot foundになるのだ。

画像は多いが容量が満杯になったわけではない。

サポートに確認をとってみればアップロードされていないというのだ。

旧のホームページでは予期せぬ不具合があるらしく改めて新のホームページに移行してもらいたいと返ってきた。

それならばということで新規に申請をしなおした。

そして数十時間をかけてアップした。

それから半年後の平成23年2月のことだ。

知人からその行事一覧のページが出てこないと指摘を受けた。

事象は再び発生したのだ。

思いつく原因を探ってみた。

考えられるにはそのページはリンク数が多いということだ。

12カ月分の年中行事を1ページにしていたが負荷分散をするために仕方なく3カ月ごとの季別にした。

多少時間がかかったものの分離作業を終えた。

それから数カ月、なにごともなく稼働している。

私のホームページは三つを組み合わせている。

行事のほうは特に問題なくアップができている。

出版や新聞掲載などでとても忙しかった。

ブログのアップは毎日しているものの本ページのならグルグル散歩はまったく手がつけられる状態ではなかった。

毎日が休日になりようやくアップできる体制になってきた。

カンを取り戻すためにも前もって手がけていかねばと2月から少しずつ公開してきた。

ホームページにはそれらがすぐに判るようにリンクをしている。

それは「更新の記録」と「撮影データ」だ。

公開すればそこにリンクを貼る。

その数は数えきれないくらいに多い。

そのページは骨格となるジオシティーズだ。

いずれもホームページビルダーでアップしている。

こちらはいうほど画像もページ数も極端に少ない。

多いのはそのリンク数だ。

昨年末辺りからその撮影データの更新時間が増えていく傾向にあった。

3月半ばにはたった1ページのアップが10分もかかるようになってきた。

しかもだ、そのページを開くだけで30分もかかるようになったのだ。

この状況は4月に入ってからは顕著になってきた。

調べていくとビルダーの特長らしい。

対応はどうするか。

すべてのリンクを外さざるを得ない。

数日間かけて外した。

が、今年の撮影データは開かない。

なにかがおかしい。

削除するしかない。

昨年の撮影データも怪しい状況にある。

触らなければアップしたままで閲覧者は意識することなくみることができる。

不便なのは私だ。

撮影データは私も閲覧している。

どこへ何時いったのかそれを知る一覧でもあるのだ。

これがなければ手元でわかる一覧を作らねばならない。

エクセル表で代替した。

それはpdf化してアップしたいのだがソフトもなく仕方も判らない。

いずれはFC2WEBも破綻することになるだろう。

画像だけでも3865枚ある。

なんという量だ。

ブログのほうでは7171枚にもなる。

作り替えをするには相当な時間を要することになり不可能に近い。

無理はあるが、引き続き年中行事は公開していく所存である。

いつ破たんするのか・・・突然やってきたときに「ならグルグル散歩」は幕を閉じる。

<写真は九条光傳寺の枝垂れ桜>

(H23. 4. 7 SB932SH撮影)

うなぎで活力・うなぎの大門

2011年05月14日 08時45分39秒 | 食事が主な周辺をお散歩
個人的に送別会をしたいと申しでられたHさん。

2年間に亘り施設で受付を担当してきた相方だ。

一度はうなぎの大門(だいもん)のうなぎを食べたいということでお店に行った。

うなぎが大好きなHさん。口が肥えていてあちこちのお店に行っているそうだ。

二人ともうなぎの大門のご主人の家族はよく知っている。

施設利用の常連さんでかれこれ7年にもなる。

そのころは連れてきた子供たちも小さかった。

下の子は幼稚園だった。今では中学生になった。

上の子は今年高校生。

もうひとつ上のお譲ちゃんはそろそろ卒業。

3人ともすくすくと良い子に育っている。

親のしつけが良かったのであろう。

お店に応援しにきた奥さんとそんな話で盛り上がった。

頼んだうなぎはうな重定食の上(1600円)。

昨年にかーさんが頼んだものだ。

その後も知人たちと食べに行った大門。

連れて行った人たちはいずれも美味いと称賛していた。

ビールも飲んでやと言われて生ビールもよばれた。

アテには白焼きのうなぎ一尾(1400円)。

キムチ(300円)も頼んだ。

注文を受けてからさばくご主人。

巧みな包丁さばきで調理をする。

キモ焼きもほしいと頼んだHさん。

うなぎ一尾に一つしかとれないキモ。

定食にはキモ吸いが一杯ついている。

キモだけの量を集めるにはそれだけのうなぎをさばかなければならない。

いつでもキモ焼きが出るお店は冷凍ものなのだろう。

それも海外から仕入れたものらしい。

当店はかば焼きの残りだけに品切れのときもままある。

残りとはいいにくいがそれはハンスケと呼ばれている一品がある。

子供のときにはそれがうなぎのかば焼きだと思っていた。

大阪難波の有名なお店。

ばあちゃんやおふくろが歌舞伎座に行ったときにはいつも買ってくれた。

竹の舟に盛られたハンスケ。

それをうな丼もどきのだし汁。

頭をしこしこ食べてちょびっとしかなかったミを食べていた。

貧困だっただけにそれがごちそうだった。

今月からは毎日が休日。

日々を送る活力をつけるにはうなぎが一番だ。

ちなみにじゃんじゃんラーメン(900円)と同額のミニうな丼付きスタミナラーメンもある。

今度はこれにするか。

(H23. 4. 6 SB932SH撮影)

藤岡家住宅の長兵衛古梅

2011年05月13日 08時22分34秒 | 五條市へ
JR和歌山線の北宇智駅から金剛山山麓に向けて西へ歩めば、その道中に平成20年11月に開館された登録有形文化財の藤岡家住宅がある。

40年ほど前に金剛山登山をしたことがある。

そのとき、下山する方向を誤って北宇智駅に辿りついたことを今でも鮮明に思い出す。

平成19年(2007)に廃止されたスイッチバックの電車に揺られて王寺駅から大阪に戻ったのだ。

それはともかく元庄屋住宅の佇まいは驚くことばかりだ。

ここを訪れたのはひと月遅れに行われているヒナアラシを探してみることにあった。

在地は近内町。

近所に住む子供たちが雛飾りをしているお家を巡ってお菓子をもらいに行く風習がある。

かつて奈良県内では数多く見られた風習だが現存している個所は少ないという。

当時の子供たちは家々を回ってヒナダンゴやヒナアラレを貰っていたらしい。

その風習は二日前だった。

早朝から団体ではなくめいめいがそれぞれ目指す雛飾りをまつる家を巡る。

母親がついていくのは親ごころ。

昔は子供だけで回っていた。

あっちの筋からこっちの筋へと回っていく。

その中心地にあるのが藤岡家住宅だ。

同施設では4月3日まで当家に残されていたお雛さんを飾っている。

そこへもやってくる子供たちにお菓子をあげるのに用意していたそうだ。

たくさん用意していたので残り物があった。



そうして2日経ったこの日の展示は傍らにかつてなんらかの祭りに使われていたと思われる太鼓を置く武者人形になっていた。

季節に応じて展示物を替えているそうだ。



藤岡家住宅は約3年間の工事を経て拝観できる施設になった。

最後の当主は佐賀、和歌山、熊本県の知事を勤めてきた藤岡長和氏。

俳壇雅号の藤岡玉骨(ぎょっこつ)をもつ人で石川啄木、森鴎外、高浜虚子、北原白秋、与謝野鉄幹・晶子夫妻らと親交があった。

復元工事の際に蔵から出てきた交友の書簡がおっとろしいほど発見されたと施設館のボランテイガイドが話す。

昭和41年に亡くなられた当主。

その後の昭和53年、92歳で亡くなられた奥さまが住んでおられた。

無住になった藤岡家は朽ちる一方だったそうだ。

五條市へ寄贈するにあたり、地域で活用されることならと所有者だった茨城県に住むお孫さんが私費で修復費用をなげだした。

復元された住宅施設は民間委託されてNPO法人うちのの館が運営をしている。

この日は平日。そんな日であっても訪れる人は多い。

次から次へとやってくる。

できれば数人集まったところでスタートしたい施設側の要請に待つ人も・・・。

建物は寛政九年(1797)の内蔵が一番古く、天保三年(1832)の母屋、嘉永六年(1853)の茶房が続く。

貴賓の間は江戸末期で大広間、書斎、米蔵、薬医門などは明治時代だ。

駐車場になった地にも蔵があったそうだ。

修復なかったが、そこには長持などが積み上げられていた。

保管されていたものにはお宝がザクザク。

そうして発見された所有品は内蔵などに期間展示されている。

井戸があった休憩所の壁には出てきたお札を飾っている。



吉祥や家内安全を願った祈祷札だ。

古くは文政八年(1825)からで作州国分寺道場と記されているから岡山県。

文政十年の河州野中邑満願寺もある。これは大阪の河内だ。

天保十三年(1842)、弘化三年(1846)、嘉永五年(1852)、安政二年(1855)、三年、五年を示すものは金剛山で受けたであろう護摩供だ。

これらのお札がどのような交友を経ていたのか、調べるには相当な時間がかかると学芸員は話す。

貴賓室などの建物造りや装飾品などへ見入る人は多くいるがそのお札に興味を示す人はいない。



お札といえば神棚にあった「御祈祷之札」の屋形がある。

鴨神大西で見られた同型のモノを思い起こす。

そこでは一年間祀ったお札を入れておき、とんどの日に燃やすという習慣だ。

ほぼ同じ地域にあるのでそれかもしれないがそのことを語る人はいない。

二頭のトラの絵が描かれている襖絵。

丸山派画家の作であろうかふっくらした面相だ。



その間から母屋を見通せばそこは樹齢250年とされる長兵衛古梅が咲いている。

まるで借景のようだ。

その梅は書斉を通る廊下の丸窓からも眺められる。

発掘調査のように蔵などから出てくる掘り出し物に学芸員は生涯をかけるぐらい。

各方面の専門家に調べてもらうしかないと話す施設は一度見たからそれでえーというものではないぐらい学芸ネタが増えていく。

そうこうしているうちに茶房梅が枝で食事をとられていたお客さんは拝観し始めた。

昼食もとることができなかった学芸員は解説に追われる。

(H23. 4. 5 EOS40D撮影)

天秤に掛けた給付はどっち

2011年05月12日 09時04分23秒 | ぽつりと
3月末をもって長年勤めてきた施設を定年満了で終えた。

途中で指定管理者制度によって運営を移管された事業所に転換された期間も含めると通算で7年8カ月だった。

最初にお声をかけてくださった自治体の人事課長。

その人のおかげだと思っている。

お礼に定年満了の挨拶をしたのはいうまでもない。

その間にお世話になった担当者へも挨拶をしておいた。

「なんでやの」と言われてもそれが制度だからと返答せざるを得ない臨時職員の定年制だ。

事業所からは離職票が発行された。

移管後からの事業所では3年間。

自治体を入れれば7年8カ月。

その期間によっては失業給付の期間が異なる。

前者であれば5カ月間で後者を含めれば6カ月だ。

1カ月の差は大きい。

その離職票を持参してハローワークに失業給付の申請に行った。

ロビーには待ち人が多くいる。

月曜日でもあるからだろう。

1時間越えたときに呼び出された。

アンケートを見られた担当者から失業給付期間は180日だと伝えられた。

フルの期間が適用される。

嬉しいことだがそれを選択すれば年金支給が停止される。

すでに証書が送られて支給額は判明している。

で、失業給付額はいくらになるのかと尋ねてみれば、その年金額より少ない。

えっ、なんでとつっこむ。

離職票2に記載されている月々の賃金額から計算されていたのだ。

直勤した半年間の賃金額なら年金よりは多いはずだが・・・。

横におられた男性担当者が言った。

60歳から64歳まではその額から75%ほどに減額されるというのだ。

それは私の思っていたことより計算外のことだった。

直近の賃金額は人様々。

臨時職員だった賃金はとても低い。

9年前にサラリーマンを早期定年したときの失業給付額は伝えられた額よりも多く上限額だった。

2.5倍ほどであった。

少ないうえに減額される。

支給される年金よりも8178円少ない。

僅かな額だが差額は大きく生活するには支障がでる。

辛いのぉ。

その答えをもらってハローワークをあとにした。

失業給付は税金がかからないが年金はそれがかかる。

税金はいったいどれぐらいか。

それは社会保険事務所に問い合わせるしかない。

帰宅してから相談窓口に電話した。

65歳までであれば支給額が108万円以上には税金がかかるという。

ただ、扶養家族がある場合は控徐計算をしなくてはならない。

仮に10万円として、それに0.25%を掛けて65000円。扶養家族1人については372500円が控除され2カ月で21万ほど・・・よく判らん。

その結果は・・・。

年金は雑所得ですが貴方には税金はかかりませんと返ってきた。

失業給付の道を選ぶか年金の道か。

天秤をかけた結果ははっきりした。

ちなみに年金手続きしてから2カ月間勤めた。

その月数は事業所より送られてくる資格喪失が届いてから再計算され通知されるそうだ。

5円ぐらいの増額が見込まれるであろう年金生活に入った。

2月、3月分の年金振込通知書が11日に届いた。

正式な通知の第一報だ。

それによると2カ月で20万円ちょっと越える程度。

その通知には個人住民税は0円だが、所得税はある。

前職では所得税がなかった。

所得が少なかったのに年金にはなんで引かれるのだろうか。

それはともかく月額にすると失業給付よりも827円も安い。

だがだ、確定申告の際に扶養控除や生命保険、損外保険などの一般保険控除ができる。

医療に掛った費用も控除できる。

そうなれば引かれた所得税からいくらか控除で戻ってくるはずだ。

来年の申告はそうであってほしい。

(H23. 4. 4 SB932SH撮影)