奈良市の東山間部、南田原をはじめとする田原の里には如意輪観音菩薩像石仏が誓多林、矢田原、横田、比瀬にも見られる。
これらは文化五年から十一年(1808~1814)にかけて奉されたようで、当地を含め天理、月ヶ瀬、山添、室生と年代も多岐に亘って広く流布している。
南田原の石仏は文化十一年(1814)8月19日に供養十九夜講されたと銘文が残されている。
それは南福寺薬師堂境内にある。
毎月19日には講の当番の人がお花を挿してお参りするらしい。
話しによればその日の朝ではなく先日の日曜日だったようだ。
奇麗に掃除をして、檜の細木を削って作ったウレツキ塔婆に十輪寺の住職に経文を書いてもらった塔婆を置いている。
その日の夜、お寺の会所となる公民館にやってきた講中の婦人たち。
当番の人が点けたローソクの明かりが風に揺らいでいる。
ときおり突風が吹き、雨が降り続けた一日だった。
夜になっても自然の脅威はすさまじい。
そんな日であっても傘をさしてお参りをする。

地面は雨で浸かっている。
履物が脱げてしまうこともあるぐらいだ。
一人、一人がお参りを済ませると会所にあがった。
座った席は小広間。小部屋に一同が座れば今夜のお勤めが始まった。
手元にはいつも使っている十九夜和讃本。
姑さんから引き継いできたという昭和3年(1928)3月や昭和10年(1935)3月の年代ものもみられる。
手書きで写されたものはかれこれ80年以上もなる。
代々に亘って姑さんが使ってきたものだけにありがたさが伝わる。
「きめやう ちようらへ 十九夜の ゆらへをくわしく たづぬれば によいりんぼさつの せいぐわんに・・・」と唱和される。

ゆったりとしたリズムで唱えられた十九夜和讃はおよそ7分半。
その調子は隣村の大野町でおばあちゃん講が唱えられた時間とほぼ同じだ。
ただ、節回しが少し異なるように聞こえる。
和讃は供要の月だという4月だけになった。
数年前までは毎月のお勤めにそれが唱えられていたそうだ。
「なにもないけどよばれてください」と当番の人が配る夜会食のお寿司。
お茶とともに会食する歓談の場に移った。
そのお寿司は和讃を唱えている間に当番の人が如意輪菩薩の石物に供えたものだ。
本人は食べずに家族の食事を用意してくる人も、夕食を済ませてくる人もお供えしたお寿司をよばれる会場は地区の情報交換の場でもあるようだ。
ちなみに朝のお参りは当番の人だけでない。
用事を済ませてくるからまちまちで、寒い日は遅くなるし暑ければ早くなる。
8時、9時、10時とさまざまだという。
<昭和3年3月の十九夜和讃本>
「きめやう ちよらへ 十九夜の
ゆらへを くわしく たづぬれば
によいりんぼさつのせいくわんに
あめのふるよも ふらぬよも
いかなる志んの くらきよも
いとはずたがはず けらいなし
十九夜おどへいるひとよ
なむあみだぶつ なむあみだ
とらの二月の十九日
十九夜ねんぶつ はじまりて
十九夜ねんぶつ もうすなり
ずいぶん あらため しよじんし
おうじよ 志よじの ふだをうき
なむあみだぶつ
志して志¨うどへ 申く人わ
めようほうれんげのはなさきて
ふきくるかぜも おだやかに
志¨つぼう はるかなしづまりて
てんよりによいりんくわんぜおん
たまのてんがいさしあげて
はちまんよじよ そのふちは
によいりんぼさつのおんぜし
あまねくすじよを すくわんと
六どうすじよう をたちあり
かなしきによにんのあわれさわ
けさまですみしがはやにごる
ばんぜがしたのいけのみず
すすいでこぼす たつときわ
てんもじしんもすいじんも 申るさせまい
くわんぜおん 十九やおどへまいるなり
ながくさんずの くをのがれ
ごくらくじようどへ いちらいす
まんだがいけの なきじよご
いつかこころがうつりけり
きやう十九やとし志きくとくは
にわかめいどもありがた○
志¨しんのおや多ちありありと
すくわせたまへ くわんぜおん
そくしんじよぶつ なむあみだ
なむあみだぶつ なむあみだ 南無如意輪観世音菩薩」
<昭和10年3月の十九夜和讃本>
「きみやう ちよらい 十九夜の
ゆらへを くわしく たづぬれば
によいりんぼさつの せいくわんに
あめのふるよも ふらぬよも
いかなるしんの くらきも
いとわずたがわず けたいなし
十九夜おどへ いるひとわ
なむあみだぶつ なむあみだ
とらの二月の十九日
十九夜ねんぶつ はじまりて
十九やねんぶつ もうすなら
ずいぶんあらため しよじんせ
おふしよじの ふだをうき
なむあみだぶつ なむじゃみだ
しして志¨よどへゆく人わ
めほれんげのはなさきて
ふきくるかぜも おだやかに
志¨つほはるかにしづまりて
てんよりによいりん くわんぜおん
たまのてんがいさしあげて
はちまんよしじよの ちのいけや
かるさのいけとみてとほる
ろく○おん おふ志¨よの そのうちに
によいりんぼさつのおんぜしん
あまねくすじよを すくわんと
ろくどうすじよを をたちあり
かなしきによにんのあはれさは
けさまですみしはやにごる
ばんぜのしたのいけのみづ
すすいでこほす たつときは
てんもぢしんもすいじんも
ゆるさせたまへや くわんぜおん
十九やおどへまいるなら
ながくさんずの くをのがれ
ごくらくじよどへ いちらいす
まんたがいけの なきじよご
いつかこころあがうつりけり
けよ十九もしきくとくに
にわかめいどもありがたや
志¨しんのおやたちありありと
すくわせたまへ くわんぜおん
そくしんじぶつ なむあみだ
なむあみだぶつ なむあみだ 南無如意輪観世音菩薩」
(H23. 4.19 EOS40D撮影)
これらは文化五年から十一年(1808~1814)にかけて奉されたようで、当地を含め天理、月ヶ瀬、山添、室生と年代も多岐に亘って広く流布している。
南田原の石仏は文化十一年(1814)8月19日に供養十九夜講されたと銘文が残されている。
それは南福寺薬師堂境内にある。
毎月19日には講の当番の人がお花を挿してお参りするらしい。
話しによればその日の朝ではなく先日の日曜日だったようだ。
奇麗に掃除をして、檜の細木を削って作ったウレツキ塔婆に十輪寺の住職に経文を書いてもらった塔婆を置いている。
その日の夜、お寺の会所となる公民館にやってきた講中の婦人たち。
当番の人が点けたローソクの明かりが風に揺らいでいる。
ときおり突風が吹き、雨が降り続けた一日だった。
夜になっても自然の脅威はすさまじい。
そんな日であっても傘をさしてお参りをする。

地面は雨で浸かっている。
履物が脱げてしまうこともあるぐらいだ。
一人、一人がお参りを済ませると会所にあがった。
座った席は小広間。小部屋に一同が座れば今夜のお勤めが始まった。
手元にはいつも使っている十九夜和讃本。
姑さんから引き継いできたという昭和3年(1928)3月や昭和10年(1935)3月の年代ものもみられる。
手書きで写されたものはかれこれ80年以上もなる。
代々に亘って姑さんが使ってきたものだけにありがたさが伝わる。
「きめやう ちようらへ 十九夜の ゆらへをくわしく たづぬれば によいりんぼさつの せいぐわんに・・・」と唱和される。

ゆったりとしたリズムで唱えられた十九夜和讃はおよそ7分半。
その調子は隣村の大野町でおばあちゃん講が唱えられた時間とほぼ同じだ。
ただ、節回しが少し異なるように聞こえる。
和讃は供要の月だという4月だけになった。
数年前までは毎月のお勤めにそれが唱えられていたそうだ。
「なにもないけどよばれてください」と当番の人が配る夜会食のお寿司。
お茶とともに会食する歓談の場に移った。
そのお寿司は和讃を唱えている間に当番の人が如意輪菩薩の石物に供えたものだ。
本人は食べずに家族の食事を用意してくる人も、夕食を済ませてくる人もお供えしたお寿司をよばれる会場は地区の情報交換の場でもあるようだ。
ちなみに朝のお参りは当番の人だけでない。
用事を済ませてくるからまちまちで、寒い日は遅くなるし暑ければ早くなる。
8時、9時、10時とさまざまだという。
<昭和3年3月の十九夜和讃本>
「きめやう ちよらへ 十九夜の
ゆらへを くわしく たづぬれば
によいりんぼさつのせいくわんに
あめのふるよも ふらぬよも
いかなる志んの くらきよも
いとはずたがはず けらいなし
十九夜おどへいるひとよ
なむあみだぶつ なむあみだ
とらの二月の十九日
十九夜ねんぶつ はじまりて
十九夜ねんぶつ もうすなり
ずいぶん あらため しよじんし
おうじよ 志よじの ふだをうき
なむあみだぶつ
志して志¨うどへ 申く人わ
めようほうれんげのはなさきて
ふきくるかぜも おだやかに
志¨つぼう はるかなしづまりて
てんよりによいりんくわんぜおん
たまのてんがいさしあげて
はちまんよじよ そのふちは
によいりんぼさつのおんぜし
あまねくすじよを すくわんと
六どうすじよう をたちあり
かなしきによにんのあわれさわ
けさまですみしがはやにごる
ばんぜがしたのいけのみず
すすいでこぼす たつときわ
てんもじしんもすいじんも 申るさせまい
くわんぜおん 十九やおどへまいるなり
ながくさんずの くをのがれ
ごくらくじようどへ いちらいす
まんだがいけの なきじよご
いつかこころがうつりけり
きやう十九やとし志きくとくは
にわかめいどもありがた○
志¨しんのおや多ちありありと
すくわせたまへ くわんぜおん
そくしんじよぶつ なむあみだ
なむあみだぶつ なむあみだ 南無如意輪観世音菩薩」
<昭和10年3月の十九夜和讃本>
「きみやう ちよらい 十九夜の
ゆらへを くわしく たづぬれば
によいりんぼさつの せいくわんに
あめのふるよも ふらぬよも
いかなるしんの くらきも
いとわずたがわず けたいなし
十九夜おどへ いるひとわ
なむあみだぶつ なむあみだ
とらの二月の十九日
十九夜ねんぶつ はじまりて
十九やねんぶつ もうすなら
ずいぶんあらため しよじんせ
おふしよじの ふだをうき
なむあみだぶつ なむじゃみだ
しして志¨よどへゆく人わ
めほれんげのはなさきて
ふきくるかぜも おだやかに
志¨つほはるかにしづまりて
てんよりによいりん くわんぜおん
たまのてんがいさしあげて
はちまんよしじよの ちのいけや
かるさのいけとみてとほる
ろく○おん おふ志¨よの そのうちに
によいりんぼさつのおんぜしん
あまねくすじよを すくわんと
ろくどうすじよを をたちあり
かなしきによにんのあはれさは
けさまですみしはやにごる
ばんぜのしたのいけのみづ
すすいでこほす たつときは
てんもぢしんもすいじんも
ゆるさせたまへや くわんぜおん
十九やおどへまいるなら
ながくさんずの くをのがれ
ごくらくじよどへ いちらいす
まんたがいけの なきじよご
いつかこころあがうつりけり
けよ十九もしきくとくに
にわかめいどもありがたや
志¨しんのおやたちありありと
すくわせたまへ くわんぜおん
そくしんじぶつ なむあみだ
なむあみだぶつ なむあみだ 南無如意輪観世音菩薩」
(H23. 4.19 EOS40D撮影)