毎年4月1日は大和神社の春の例祭。奈良に春いちばんの訪れを告げるちゃんちゃん祭りとして知られている。
不思議な名称のちゃんちゃん祭りはお渡りの際に鉦鼓(京都で製作され昭和4年3月郷中の銘記があり昭和56年3月に修理)を打ち鳴らす音から名付けられたそうだ。
その音色が聞こえてくればちゃんちゃんがやって来るのを一目見ようと沿道で待ち受けるのだ。
ちゃんちゃん祭は大和神社を中心とする郷村の祭り。
昼過ぎには各大字の一行がやってきた。
今年は三昧田、萱生、中山、兵庫、岸田、新泉、名柄、成願寺、佐保庄の9カ大字だ。
2月か3月の総代会に大字が集まる宮総代会のアミダクジで決定された順で、宮入、宵宮とも参拝順が毎年入れ替わる。
奈良では郷村が集まって祭典をされるとこころがある。
同市の石上神宮や奈良市の都祁水分神社、生駒市の往馬大社や高山八幡宮、山添村の神波多神社などがあるがいずれも秋祭り。
宇陀市菟田野区の宇太水分神社もそうである。
春祭りで郷村が集合するのはおそらく大和神社だけであろうか。
「商売繁盛」と言いながら反時計回りに露店を訪れる新泉。
太鼓をドン、ドンを叩くと店の人から商品や金銭をもらい受ける。
それは太鼓の天秤棒に括りつけた風呂敷の中に納める。
集められた品々は太鼓持ちが山分け(お菓子やおもちゃは子供に分け、金銭は神社に寄進する)する。
そのとき龍頭を抱える兵庫と接近遭遇した。
ここでも子供たちが露店を巡って同じように商品や金銭を受けとっていく。
龍頭の口をぱかぱかと開閉させつつ新泉と同様に露天を巡って「賽銭」の商品をもらっていく。
このような光景は他大字では見られない。
両大字の特権であろうか。
そうしているうちにお渡り行列の順が読み上げられた。
年預(総務役)の先駆を先頭に鉄棒、鉦鼓担ぎ、新泉の梅幹と小幣持ち、産子幣、新泉の太鼓担ぎ、猿田彦、長柄の錦旗、乗馬、産子幣が続く。一行の列はまだまだ続く。根超榊(ネゴシノサカキ)、神饌唐櫃担ぎ、大幣、産子幣、兵庫の千代山鉾、清祓、風流傘、兵庫の龍頭、産子幣、甲冑乗馬、岸田・中山・成願寺・新泉が担ぐ増御子(ますみこ)社神輿、禰宜、盾、矛、鞨鼓(かっこ)樂人、成願寺の樂太鼓、長柄の樂鉦鼓、伶人(れいじん)樂奏者、随身(ずいじん)、長柄・兵庫・萱生・三昧田・佐保之庄が担ぐ本社神輿、菅翳(すげのさしは)、紫翳(むらさきのさしは)、年預の剱(つるぎ)、長柄の矛、神馬(しんめ)、乗馬宮司、(長岳寺山主、長岳寺鉦鼓)、産子幣が後連し神職である。
14時、チャンチャンの鉦を鳴らして参道を抜けて行った。
後方にはドンドンと新泉の太鼓打ちの音がする。
その音色は鉦鼓と太鼓が同期をとっているようでチャンチャン、ドンドン(少し間があく)と聞こえてくる。
鉦の音から祭りの名がついたとされるが当時の村人たちは鉦の音しか聞こえなかったのであろうか。
一の鳥居を出た一行は上ツ街道を南下する。
岸田市場に鎮座する休み場に到着すると、本社神輿は三周半回って神輿石と称される石の上に置かれる。
すると兵庫の龍の口舞が行われる。
龍頭を持って同じように反時計回りに回る。
それは三周だった。
その間、お渡り一行はしばし休息の時間になる。
昔は釜の口の長岳寺(かつては神社の神宮寺)の僧侶がここまで迎えに来て鉦を鳴らしながら神幸の隊列に従ったとされるが、現在は神社に参拝されて会食をすることになっているようである。
それに行き返りする僧侶の姿を見かけた。
それはともかく行列は再び動き出した。
目指すは東方の中山のお旅所。
県道を横切って、なだらかな丘陵地を渡御していく。
長く連なる行列は数100メートルにも達する。
国道を越えなければならないし数か所においてやむなく止まる。
お旅所に到着するには1時間20分もかかった。
各大字はシートを広げて風車(かざぐるま)の会食。
旗を立ててカラフルな風車や鏡餅が置かれる。
中山だけは歯定神社の拝殿が座となる。
それぞれの大字から献供されるものをしきたりにそって受け取り、その代わりに粽やお神酒を賜っていく。
お旅所の境内では本社神輿と増御子社神輿が安置された。
一段高い境内。
そこは瓦を縦にして土中に埋め込まれている。
いわゆる芝舞台ではないだろうか。
宮司、神職、宮総代が参列して9カ大字ごとにそれぞれ順を追って神事が行われていく。
最後に各大字から寄せられた神饌とともに大明神さまの粽を供えて中山の人とともに若宮社に参拝した。
神事をひと通り終えれば歯定神社拝殿前から中山大字の人たちはチンマキ(粽)を参拝者に配る。
配る行為はといえば重いほうを先にして飛ばすように投げる作法だ。
そのころは会食を済ませた座もお開きで、一般参拝者も混じるチンマキの争奪戦。
手にした人は笑みがこぼれる。
それが終わるころには袴姿の頭屋と頭人児が神輿の前に参り出て参拝された。
頭人児はおよそ小学生までのようである。
そのあとに兵庫と新泉の奉納所作が行われた。
2基の神輿の周りを三周半回る龍の口舞い。
休み場で行われた所作と同じで龍の口をパカパカと音をさせて奉納する。
そして始まった新泉の所作。
翁の舞の際に進み出る人(かつては翁面を被っていた)は竹の皮で作られた円形の笠を左手に持って頭にかざし、右手の鋤で田を耕す。
スジを切るような鋤の作法。
それは水はけをよくする溝を掘っているようである。
2スジ掘って鋤を振り上げて肩のほうに上げる。
2回ある所作、それは麦作と稲作の2毛作をあらわすようだが・・・。
その所作を終えたら半切り桶(コシキとも)に入れられた樫の葉を参列者に配る。
円陣を組んで一握りずつ樫の葉を手に持って一斉に頭上に放り投げる。
その際に「オオミタラシ(大御手洗)ノカミー ワー」と唱和して放り投げる。
翁の舞と称される奉納所作であるが、この葉は雨を現わしているという。
農作に必要な雨乞いだともいうから豊作予祝の作法であろう。
そういえば兵庫の龍の口舞いの龍は「水」を呼ぶ。
成願寺では宵宮参拝する際に吉野御供と呼ばれるモチを氏神さんの素素盞嗚神社に供えて吉野方向に向かって拝む。
その方角は水の神さんを崇める丹生川上神社中社(天平宝字七年降雨を願う朝廷が黒馬を奉納した雨師神社)のようだ。
また、中山は歯定神社で会食する献立のなかにソーメンがある。
それは雨が降るようにという願いのソーメンだそうだ。
四つの「水」がここに集結した。
ちゃんちゃん祭りは祈雨の雨乞いを示唆する行事と考えられる。
また、「官国幣社特殊神事調(1941年刊)」によれば「オオミタラシ(大御手洗)ノカミ」はもともと「オオミタラシノミズ」と唱えていたようだった。
現在は翁の舞とされているものは、大字新泉宮座の者が之を奏すといって所作は同じで、それを「田の実之舞」と称していた。
明治以前では神職の者がそれを奏して次に翁の舞をしていたが何らかの事由で途絶えてしまった。
ただ、翁の舞も龍の口舞も猿楽系統の舞であったらしい。
長禄三年(1459)の大乗院寺社雑事記によれば「今日 大和社神事也 宇治猿楽与大和猿楽立会所成」という。
要は翁の舞といわれる猿楽があり、それは新泉の者が奏していたというのだ。
それが絶えて田之実の舞の所作を新泉が引き継がれて翁の舞の名称が冠として残っていった。
そうであれば実に納得がいく翁の舞の所作である。
中山のお旅所から戻ってきたお渡り行列は鳥居を潜って大和神社に戻ってきた。
17時ころに出た一行が着いたのは17時40分。
休み所の休息はなかったこともあり還幸時間は短かった。
本社の神輿を拝殿に置かれて神遷しが斉行された。
その間、黒馬と白馬の2頭の神馬は反時計回りに三回周回する。
これは還幸祭の儀式の一つにあたる。
神馬には2頭とも白幣と麻が尻尾に付けられている。
黒馬は雨乞いの祈雨、白馬は長雨の際に願う止雨を現わしていると考えられる。
ここにも「水」に関係するモノがある。
乗馬クラブのインストラクターに引かれた馬はその作法で納める。
その後、頭屋と頭人児は拝殿に登って還幸祭が行われ産子幣と麻緒を神社から賜る。
さらに岸田と兵庫は牛の舌餅と呼ばれる餅を賜る。
祭典はこれで終わるわけではない。
兵庫と新泉が最後に奉納される所作が待っている。
そのころは既に日がとっぷりと暮れている時間帯の18時半。
この日3回目となる兵庫の龍の口舞いが行われた。
水神が舞う祈雨だとされている。
そして始まった新泉の翁の舞。
お旅所で所作された笠を被るような格好で鋤の所作と樫の葉を放り投げる作法だ。
雨とされる葉が舞い落ちるのは雨乞いの所作とされる。
ドン、ドンと祭りの終わりの合図を告げる太鼓が打たれて全ての行事を終えた人たちはそれぞれ大字へ戻っていく。
長い一日だったちゃんちゃん祭りの神幸祭。
翌朝は三役(年預総代、会計役、総務役)と宮総代によって後宴祭が行われる。
50年ほど前は青年団による奉納相撲が行われていたそうだ。
それにしても感服するのが2人の随身。
宵宮、本祭とも神社やお旅所でただひたすら座り続ける。
動かざること山のごとしであった2人に拍手をおくりたい。
(H23. 4. 1 EOS40D撮影)
不思議な名称のちゃんちゃん祭りはお渡りの際に鉦鼓(京都で製作され昭和4年3月郷中の銘記があり昭和56年3月に修理)を打ち鳴らす音から名付けられたそうだ。
その音色が聞こえてくればちゃんちゃんがやって来るのを一目見ようと沿道で待ち受けるのだ。
ちゃんちゃん祭は大和神社を中心とする郷村の祭り。
昼過ぎには各大字の一行がやってきた。
今年は三昧田、萱生、中山、兵庫、岸田、新泉、名柄、成願寺、佐保庄の9カ大字だ。
2月か3月の総代会に大字が集まる宮総代会のアミダクジで決定された順で、宮入、宵宮とも参拝順が毎年入れ替わる。
奈良では郷村が集まって祭典をされるとこころがある。
同市の石上神宮や奈良市の都祁水分神社、生駒市の往馬大社や高山八幡宮、山添村の神波多神社などがあるがいずれも秋祭り。
宇陀市菟田野区の宇太水分神社もそうである。
春祭りで郷村が集合するのはおそらく大和神社だけであろうか。
「商売繁盛」と言いながら反時計回りに露店を訪れる新泉。
太鼓をドン、ドンを叩くと店の人から商品や金銭をもらい受ける。
それは太鼓の天秤棒に括りつけた風呂敷の中に納める。
集められた品々は太鼓持ちが山分け(お菓子やおもちゃは子供に分け、金銭は神社に寄進する)する。
そのとき龍頭を抱える兵庫と接近遭遇した。
ここでも子供たちが露店を巡って同じように商品や金銭を受けとっていく。
龍頭の口をぱかぱかと開閉させつつ新泉と同様に露天を巡って「賽銭」の商品をもらっていく。
このような光景は他大字では見られない。
両大字の特権であろうか。
そうしているうちにお渡り行列の順が読み上げられた。
年預(総務役)の先駆を先頭に鉄棒、鉦鼓担ぎ、新泉の梅幹と小幣持ち、産子幣、新泉の太鼓担ぎ、猿田彦、長柄の錦旗、乗馬、産子幣が続く。一行の列はまだまだ続く。根超榊(ネゴシノサカキ)、神饌唐櫃担ぎ、大幣、産子幣、兵庫の千代山鉾、清祓、風流傘、兵庫の龍頭、産子幣、甲冑乗馬、岸田・中山・成願寺・新泉が担ぐ増御子(ますみこ)社神輿、禰宜、盾、矛、鞨鼓(かっこ)樂人、成願寺の樂太鼓、長柄の樂鉦鼓、伶人(れいじん)樂奏者、随身(ずいじん)、長柄・兵庫・萱生・三昧田・佐保之庄が担ぐ本社神輿、菅翳(すげのさしは)、紫翳(むらさきのさしは)、年預の剱(つるぎ)、長柄の矛、神馬(しんめ)、乗馬宮司、(長岳寺山主、長岳寺鉦鼓)、産子幣が後連し神職である。
14時、チャンチャンの鉦を鳴らして参道を抜けて行った。
後方にはドンドンと新泉の太鼓打ちの音がする。
その音色は鉦鼓と太鼓が同期をとっているようでチャンチャン、ドンドン(少し間があく)と聞こえてくる。
鉦の音から祭りの名がついたとされるが当時の村人たちは鉦の音しか聞こえなかったのであろうか。
一の鳥居を出た一行は上ツ街道を南下する。
岸田市場に鎮座する休み場に到着すると、本社神輿は三周半回って神輿石と称される石の上に置かれる。
すると兵庫の龍の口舞が行われる。
龍頭を持って同じように反時計回りに回る。
それは三周だった。
その間、お渡り一行はしばし休息の時間になる。
昔は釜の口の長岳寺(かつては神社の神宮寺)の僧侶がここまで迎えに来て鉦を鳴らしながら神幸の隊列に従ったとされるが、現在は神社に参拝されて会食をすることになっているようである。
それに行き返りする僧侶の姿を見かけた。
それはともかく行列は再び動き出した。
目指すは東方の中山のお旅所。
県道を横切って、なだらかな丘陵地を渡御していく。
長く連なる行列は数100メートルにも達する。
国道を越えなければならないし数か所においてやむなく止まる。
お旅所に到着するには1時間20分もかかった。
各大字はシートを広げて風車(かざぐるま)の会食。
旗を立ててカラフルな風車や鏡餅が置かれる。
中山だけは歯定神社の拝殿が座となる。
それぞれの大字から献供されるものをしきたりにそって受け取り、その代わりに粽やお神酒を賜っていく。
お旅所の境内では本社神輿と増御子社神輿が安置された。
一段高い境内。
そこは瓦を縦にして土中に埋め込まれている。
いわゆる芝舞台ではないだろうか。
宮司、神職、宮総代が参列して9カ大字ごとにそれぞれ順を追って神事が行われていく。
最後に各大字から寄せられた神饌とともに大明神さまの粽を供えて中山の人とともに若宮社に参拝した。
神事をひと通り終えれば歯定神社拝殿前から中山大字の人たちはチンマキ(粽)を参拝者に配る。
配る行為はといえば重いほうを先にして飛ばすように投げる作法だ。
そのころは会食を済ませた座もお開きで、一般参拝者も混じるチンマキの争奪戦。
手にした人は笑みがこぼれる。
それが終わるころには袴姿の頭屋と頭人児が神輿の前に参り出て参拝された。
頭人児はおよそ小学生までのようである。
そのあとに兵庫と新泉の奉納所作が行われた。
2基の神輿の周りを三周半回る龍の口舞い。
休み場で行われた所作と同じで龍の口をパカパカと音をさせて奉納する。
そして始まった新泉の所作。
翁の舞の際に進み出る人(かつては翁面を被っていた)は竹の皮で作られた円形の笠を左手に持って頭にかざし、右手の鋤で田を耕す。
スジを切るような鋤の作法。
それは水はけをよくする溝を掘っているようである。
2スジ掘って鋤を振り上げて肩のほうに上げる。
2回ある所作、それは麦作と稲作の2毛作をあらわすようだが・・・。
その所作を終えたら半切り桶(コシキとも)に入れられた樫の葉を参列者に配る。
円陣を組んで一握りずつ樫の葉を手に持って一斉に頭上に放り投げる。
その際に「オオミタラシ(大御手洗)ノカミー ワー」と唱和して放り投げる。
翁の舞と称される奉納所作であるが、この葉は雨を現わしているという。
農作に必要な雨乞いだともいうから豊作予祝の作法であろう。
そういえば兵庫の龍の口舞いの龍は「水」を呼ぶ。
成願寺では宵宮参拝する際に吉野御供と呼ばれるモチを氏神さんの素素盞嗚神社に供えて吉野方向に向かって拝む。
その方角は水の神さんを崇める丹生川上神社中社(天平宝字七年降雨を願う朝廷が黒馬を奉納した雨師神社)のようだ。
また、中山は歯定神社で会食する献立のなかにソーメンがある。
それは雨が降るようにという願いのソーメンだそうだ。
四つの「水」がここに集結した。
ちゃんちゃん祭りは祈雨の雨乞いを示唆する行事と考えられる。
また、「官国幣社特殊神事調(1941年刊)」によれば「オオミタラシ(大御手洗)ノカミ」はもともと「オオミタラシノミズ」と唱えていたようだった。
現在は翁の舞とされているものは、大字新泉宮座の者が之を奏すといって所作は同じで、それを「田の実之舞」と称していた。
明治以前では神職の者がそれを奏して次に翁の舞をしていたが何らかの事由で途絶えてしまった。
ただ、翁の舞も龍の口舞も猿楽系統の舞であったらしい。
長禄三年(1459)の大乗院寺社雑事記によれば「今日 大和社神事也 宇治猿楽与大和猿楽立会所成」という。
要は翁の舞といわれる猿楽があり、それは新泉の者が奏していたというのだ。
それが絶えて田之実の舞の所作を新泉が引き継がれて翁の舞の名称が冠として残っていった。
そうであれば実に納得がいく翁の舞の所作である。
中山のお旅所から戻ってきたお渡り行列は鳥居を潜って大和神社に戻ってきた。
17時ころに出た一行が着いたのは17時40分。
休み所の休息はなかったこともあり還幸時間は短かった。
本社の神輿を拝殿に置かれて神遷しが斉行された。
その間、黒馬と白馬の2頭の神馬は反時計回りに三回周回する。
これは還幸祭の儀式の一つにあたる。
神馬には2頭とも白幣と麻が尻尾に付けられている。
黒馬は雨乞いの祈雨、白馬は長雨の際に願う止雨を現わしていると考えられる。
ここにも「水」に関係するモノがある。
乗馬クラブのインストラクターに引かれた馬はその作法で納める。
その後、頭屋と頭人児は拝殿に登って還幸祭が行われ産子幣と麻緒を神社から賜る。
さらに岸田と兵庫は牛の舌餅と呼ばれる餅を賜る。
祭典はこれで終わるわけではない。
兵庫と新泉が最後に奉納される所作が待っている。
そのころは既に日がとっぷりと暮れている時間帯の18時半。
この日3回目となる兵庫の龍の口舞いが行われた。
水神が舞う祈雨だとされている。
そして始まった新泉の翁の舞。
お旅所で所作された笠を被るような格好で鋤の所作と樫の葉を放り投げる作法だ。
雨とされる葉が舞い落ちるのは雨乞いの所作とされる。
ドン、ドンと祭りの終わりの合図を告げる太鼓が打たれて全ての行事を終えた人たちはそれぞれ大字へ戻っていく。
長い一日だったちゃんちゃん祭りの神幸祭。
翌朝は三役(年預総代、会計役、総務役)と宮総代によって後宴祭が行われる。
50年ほど前は青年団による奉納相撲が行われていたそうだ。
それにしても感服するのが2人の随身。
宵宮、本祭とも神社やお旅所でただひたすら座り続ける。
動かざること山のごとしであった2人に拍手をおくりたい。
(H23. 4. 1 EOS40D撮影)