JR和歌山線の北宇智駅から金剛山山麓に向けて西へ歩めば、その道中に平成20年11月に開館された登録有形文化財の藤岡家住宅がある。
40年ほど前に金剛山登山をしたことがある。
そのとき、下山する方向を誤って北宇智駅に辿りついたことを今でも鮮明に思い出す。
平成19年(2007)に廃止されたスイッチバックの電車に揺られて王寺駅から大阪に戻ったのだ。
それはともかく元庄屋住宅の佇まいは驚くことばかりだ。
ここを訪れたのはひと月遅れに行われているヒナアラシを探してみることにあった。
在地は近内町。
近所に住む子供たちが雛飾りをしているお家を巡ってお菓子をもらいに行く風習がある。
かつて奈良県内では数多く見られた風習だが現存している個所は少ないという。
当時の子供たちは家々を回ってヒナダンゴやヒナアラレを貰っていたらしい。
その風習は二日前だった。
早朝から団体ではなくめいめいがそれぞれ目指す雛飾りをまつる家を巡る。
母親がついていくのは親ごころ。
昔は子供だけで回っていた。
あっちの筋からこっちの筋へと回っていく。
その中心地にあるのが藤岡家住宅だ。
同施設では4月3日まで当家に残されていたお雛さんを飾っている。
そこへもやってくる子供たちにお菓子をあげるのに用意していたそうだ。
たくさん用意していたので残り物があった。
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そうして2日経ったこの日の展示は傍らにかつてなんらかの祭りに使われていたと思われる太鼓を置く武者人形になっていた。
季節に応じて展示物を替えているそうだ。
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藤岡家住宅は約3年間の工事を経て拝観できる施設になった。
最後の当主は佐賀、和歌山、熊本県の知事を勤めてきた藤岡長和氏。
俳壇雅号の藤岡玉骨(ぎょっこつ)をもつ人で石川啄木、森鴎外、高浜虚子、北原白秋、与謝野鉄幹・晶子夫妻らと親交があった。
復元工事の際に蔵から出てきた交友の書簡がおっとろしいほど発見されたと施設館のボランテイガイドが話す。
昭和41年に亡くなられた当主。
その後の昭和53年、92歳で亡くなられた奥さまが住んでおられた。
無住になった藤岡家は朽ちる一方だったそうだ。
五條市へ寄贈するにあたり、地域で活用されることならと所有者だった茨城県に住むお孫さんが私費で修復費用をなげだした。
復元された住宅施設は民間委託されてNPO法人うちのの館が運営をしている。
この日は平日。そんな日であっても訪れる人は多い。
次から次へとやってくる。
できれば数人集まったところでスタートしたい施設側の要請に待つ人も・・・。
建物は寛政九年(1797)の内蔵が一番古く、天保三年(1832)の母屋、嘉永六年(1853)の茶房が続く。
貴賓の間は江戸末期で大広間、書斎、米蔵、薬医門などは明治時代だ。
駐車場になった地にも蔵があったそうだ。
修復なかったが、そこには長持などが積み上げられていた。
保管されていたものにはお宝がザクザク。
そうして発見された所有品は内蔵などに期間展示されている。
井戸があった休憩所の壁には出てきたお札を飾っている。
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吉祥や家内安全を願った祈祷札だ。
古くは文政八年(1825)からで作州国分寺道場と記されているから岡山県。
文政十年の河州野中邑満願寺もある。これは大阪の河内だ。
天保十三年(1842)、弘化三年(1846)、嘉永五年(1852)、安政二年(1855)、三年、五年を示すものは金剛山で受けたであろう護摩供だ。
これらのお札がどのような交友を経ていたのか、調べるには相当な時間がかかると学芸員は話す。
貴賓室などの建物造りや装飾品などへ見入る人は多くいるがそのお札に興味を示す人はいない。
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お札といえば神棚にあった「御祈祷之札」の屋形がある。
鴨神大西で見られた同型のモノを思い起こす。
そこでは一年間祀ったお札を入れておき、とんどの日に燃やすという習慣だ。
ほぼ同じ地域にあるのでそれかもしれないがそのことを語る人はいない。
二頭のトラの絵が描かれている襖絵。
丸山派画家の作であろうかふっくらした面相だ。
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その間から母屋を見通せばそこは樹齢250年とされる長兵衛古梅が咲いている。
まるで借景のようだ。
その梅は書斉を通る廊下の丸窓からも眺められる。
発掘調査のように蔵などから出てくる掘り出し物に学芸員は生涯をかけるぐらい。
各方面の専門家に調べてもらうしかないと話す施設は一度見たからそれでえーというものではないぐらい学芸ネタが増えていく。
そうこうしているうちに茶房梅が枝で食事をとられていたお客さんは拝観し始めた。
昼食もとることができなかった学芸員は解説に追われる。
(H23. 4. 5 EOS40D撮影)
40年ほど前に金剛山登山をしたことがある。
そのとき、下山する方向を誤って北宇智駅に辿りついたことを今でも鮮明に思い出す。
平成19年(2007)に廃止されたスイッチバックの電車に揺られて王寺駅から大阪に戻ったのだ。
それはともかく元庄屋住宅の佇まいは驚くことばかりだ。
ここを訪れたのはひと月遅れに行われているヒナアラシを探してみることにあった。
在地は近内町。
近所に住む子供たちが雛飾りをしているお家を巡ってお菓子をもらいに行く風習がある。
かつて奈良県内では数多く見られた風習だが現存している個所は少ないという。
当時の子供たちは家々を回ってヒナダンゴやヒナアラレを貰っていたらしい。
その風習は二日前だった。
早朝から団体ではなくめいめいがそれぞれ目指す雛飾りをまつる家を巡る。
母親がついていくのは親ごころ。
昔は子供だけで回っていた。
あっちの筋からこっちの筋へと回っていく。
その中心地にあるのが藤岡家住宅だ。
同施設では4月3日まで当家に残されていたお雛さんを飾っている。
そこへもやってくる子供たちにお菓子をあげるのに用意していたそうだ。
たくさん用意していたので残り物があった。
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そうして2日経ったこの日の展示は傍らにかつてなんらかの祭りに使われていたと思われる太鼓を置く武者人形になっていた。
季節に応じて展示物を替えているそうだ。
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藤岡家住宅は約3年間の工事を経て拝観できる施設になった。
最後の当主は佐賀、和歌山、熊本県の知事を勤めてきた藤岡長和氏。
俳壇雅号の藤岡玉骨(ぎょっこつ)をもつ人で石川啄木、森鴎外、高浜虚子、北原白秋、与謝野鉄幹・晶子夫妻らと親交があった。
復元工事の際に蔵から出てきた交友の書簡がおっとろしいほど発見されたと施設館のボランテイガイドが話す。
昭和41年に亡くなられた当主。
その後の昭和53年、92歳で亡くなられた奥さまが住んでおられた。
無住になった藤岡家は朽ちる一方だったそうだ。
五條市へ寄贈するにあたり、地域で活用されることならと所有者だった茨城県に住むお孫さんが私費で修復費用をなげだした。
復元された住宅施設は民間委託されてNPO法人うちのの館が運営をしている。
この日は平日。そんな日であっても訪れる人は多い。
次から次へとやってくる。
できれば数人集まったところでスタートしたい施設側の要請に待つ人も・・・。
建物は寛政九年(1797)の内蔵が一番古く、天保三年(1832)の母屋、嘉永六年(1853)の茶房が続く。
貴賓の間は江戸末期で大広間、書斎、米蔵、薬医門などは明治時代だ。
駐車場になった地にも蔵があったそうだ。
修復なかったが、そこには長持などが積み上げられていた。
保管されていたものにはお宝がザクザク。
そうして発見された所有品は内蔵などに期間展示されている。
井戸があった休憩所の壁には出てきたお札を飾っている。
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吉祥や家内安全を願った祈祷札だ。
古くは文政八年(1825)からで作州国分寺道場と記されているから岡山県。
文政十年の河州野中邑満願寺もある。これは大阪の河内だ。
天保十三年(1842)、弘化三年(1846)、嘉永五年(1852)、安政二年(1855)、三年、五年を示すものは金剛山で受けたであろう護摩供だ。
これらのお札がどのような交友を経ていたのか、調べるには相当な時間がかかると学芸員は話す。
貴賓室などの建物造りや装飾品などへ見入る人は多くいるがそのお札に興味を示す人はいない。
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お札といえば神棚にあった「御祈祷之札」の屋形がある。
鴨神大西で見られた同型のモノを思い起こす。
そこでは一年間祀ったお札を入れておき、とんどの日に燃やすという習慣だ。
ほぼ同じ地域にあるのでそれかもしれないがそのことを語る人はいない。
二頭のトラの絵が描かれている襖絵。
丸山派画家の作であろうかふっくらした面相だ。
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その間から母屋を見通せばそこは樹齢250年とされる長兵衛古梅が咲いている。
まるで借景のようだ。
その梅は書斉を通る廊下の丸窓からも眺められる。
発掘調査のように蔵などから出てくる掘り出し物に学芸員は生涯をかけるぐらい。
各方面の専門家に調べてもらうしかないと話す施設は一度見たからそれでえーというものではないぐらい学芸ネタが増えていく。
そうこうしているうちに茶房梅が枝で食事をとられていたお客さんは拝観し始めた。
昼食もとることができなかった学芸員は解説に追われる。
(H23. 4. 5 EOS40D撮影)