マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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伊与戸日待ちの初集会

2012年03月21日 06時46分18秒 | 田原本町へ
かつては伊勢講もあった伊与戸の年度初めは2月。

2月と言えばニの正月の1日であったと思われる地区の新年初集会は公民館で行われる。

その公民館は今でも「オドウ」と呼ばれている。

大師講に出向く際には家人に「ドウへ行ってくる」と言って集まる大師講。

尼講とも呼ぶ婦人たちはそういう。

「ドウ」はおそらく「堂」であろう。

毎月の営みに百万偏数珠繰りをしている。

昨今はどこともそうだが、集まりやすい第一日曜に移った伊与戸の初集会。

東、西、中垣内の住民たちが集まってくる。

伊与戸は40数軒。

8軒ずつの組みで年当番が回っている。

当番は地蔵盆をも含み、東、西垣内からとなるため2、3年に一度の回りだ。

「天照皇大神」の書が掛軸。床の間に掲げられる。

掛け軸の前には斎壇が組まれてお供えを置いた。



三方の手前は大きなカワラケが2枚。

洗い米と塩だ。

その後方にはダイコン、ゴボウ、ニンジン、サトイモ、シイタケにコーヤドーフを串に挿して立てる。

そのお供えは2セットを並べられた。

村の人数が減った戦時中はできなくなったようだが、それは子供の頃の記憶。

曖昧だが、と前置きされて語る長老。

12時には集まることになっているからと始められた儀式。

膳が配られた席についたまま、掛け軸に向かって2礼2拍手、1礼と神事に則って拝礼する。

一昨年までは掛軸とお供えをするだけであった。

ただ飾るだけでは・・と意見が出て昨年から拝むようにしたという。

掛け軸は「天照皇大神」であることからお日待ちの行事であることには違いない。

かつては総代の家で務めていたようだ。

お神酒が注がれてパック詰めの膳をよばれる初集会は村の会計報告などが行われる。

(H24. 2. 5 EOS40D撮影)

矢田来光寺跡墓葬送の六地蔵

2012年03月20日 08時19分22秒 | 大和郡山市へ
矢田の村でとんど焼きの取材をしているときだった。

草むらに落ちていたナワを見た地区の人は「これはミチナワや。出棺して墓地に行く辻角にこれを置いて、そこへは行かないという印しや」と話す。

墓地まで向う分岐路に置いて仏さんが迷わないようにしているのがミチナワなのであった。

その件を隣垣内の人に伝えたところ、「墓地にはゾーリ(草履)がある。それを作って六地蔵に置いているのだ」と言う。

前月の18日に地区の人が亡くなった。

その際に行われた葬送の儀礼、いわゆる野辺送りの一例である。

民俗事例における葬送儀礼を調査する機会が与えられたのだと考えて墓地に出向いた。

民俗行事の多くはハレの祭礼。

その多くを取材させていただいているが、中には弔い、供養などもある。

盆の行事で見られる念仏もそれにあたる。

場合によっては新仏の斎壇も拝見することがある。

遺影に手を合わせて取材したこともある。

民俗は日常生活における暮らしの文化。

歳時、風俗、風習、冠婚葬祭、民間信仰、娯楽、演戯、生業、伝統食など古くから伝えられてきたすべてが民俗の対象であろう。

小学生だったか、中学生のときであったか覚えていない本家母屋の葬式は今でも目の中に焼きついている。

50年も前の大阪南河内郡でのことだ。

お棺は丸い樽のような桶だった。

その中に納められた大祖母は座っていた。

座棺であろう桶から覗いたことを覚えている。

棺桶は大学生だった従兄の兄ちゃんが白装束姿になって墓地まで(輿を)担いでいった。

墓地は土葬だった。

そんな大阪南河内の葬送の光景を思い出し、矢田の墓地を目指した。

そこは来光寺と呼ばれる寺があったという。

寺はなくなったが村の墓地。

今でもそこに墓石が並ぶ。

近年にそれぞれの墓を寄せられ整備されたそうだ。

その墓地の入り口にあたる地にローソクを挿した竹が6本立てられている。

それが六地蔵であった。

一本の竹の先にローソクを立てる。

その下には環が見られる。

シワシワになっているがダイコンである。

燭台の替りであろうか。



ローソク立ての下を見れば、それぞれにゾーリ(藁草履)が置かれている。

白い紙で巻かれているのが鼻緒。

草履部分は平たいものではなく一本の縄ぬいをした形は実にシンプルである。

それぞれ2足ずつ置かれている竹ローソクの六地蔵。

中央の一本にはシカバナがある。

半切りにしたダイコンを土台に紙垂れを付けた幣とも思われるものが挿されている。

その右横には一本の串があった。

六地蔵のローソクを教えてくださった村の人によればみたらし団子だったそうだ。

2週間ほどの間に獣か虫に食べられてしまったのだろう。

シカバナを充てる漢字は死花。

冬はダイコンだが夏にはサツマイモかジャガイモにするという。

六地蔵のローソクは墓の仲間入りを願うもので仏さんを土中に納骨する際に拝むそうだ。

そのときに燈す六地蔵のローソク。

かつてはそうだったと話すハカマツリの責任者でもある村の人。

みたらし団子を挿したシカバナは仏さんの前にも供える。

葬儀前日にローソク立て、草履、シカバナを作るのは隣近所の人たち。

葬儀のお手伝いである。

かつては墓の穴も掘った。

納める寝棺は村の大工が作っていたという。



ちなみに墓地までの行程で分岐路ごとに置かれるミチナワは道中によって本数は異なる。

墓地までの道を予め歩いて数えたそうだ。

そのミチナワは左縄で結う。

先のほうはひと丈ほど藁を一本だすという。

葬送の日。

朝6時に1番鉦を打つ。

出棺する1時間前に2番鉦を打つ。

そして出棺のときに3番鉦を打つという。

現在は火葬。

土葬だった時代は寝棺を2本のオーコに跨がせ担いでいった。

それを「コシ(充てる漢字は輿であろう)」と呼んでいた。

オーコは手で持つが、その場所には編んだ堅い縄を括りつけた。

それを両肩にあてがうように担いだ。

前方、後方に2人。

合計4人で担いでいった。

畑の道を通ってアタゴ山の方に向かっていった野辺送り。

その昔は縦形の座棺だったそうだ。

三途の川を渡るときの草履なのか、仏さんが戻って来ないように鼻緒を切るという地域があるが、その風習については聞きそびれた。

(H24. 2. 4 EOS40D撮影)

馬見丘陵公園の野鳥観察会

2012年03月19日 07時31分39秒 | 自然観察会
8日後に開催される野遊び野鳥観察会に備えて馬見(うまみ)丘陵公園の探鳥会に参加した。

馬見丘陵公園は奈良県の施設。

広陵町から河合町にかけて広がる大きな公園だ。

丘陵にある馬見古墳群の保全と活用するために県土木が開発事業を昭和59年から進めてきた公園整備。

すべての開発工事はまだ終わっていない拓けた公園である。

我が家では子供が小学生のころに遊園目的にやってきたことがある。

近くの竹取公園も遊びに来たことがある。

入園無料だけに桜や菖蒲が咲き誇るころは弁当を広げる家族連れで賑わう公園だ。

平成22年には当園で全国都市緑化ならフェアが開催された。

開拓されてから28年。

植林された森には野鳥も訪れる。

下池、上池には水鳥たちもやってくる。

食べ物があるからやってくるようになった野鳥たち。

そのような野鳥を撮りにくるトリミストも多い。

一年間に亘って毎月開催されている公園の探鳥会は目撃情報も収集し公開されている。

その探鳥会は事前に募集をされる。

定員は50名だが応募者は倍以上の129人。

それだけ人気があるということだ。

運よく当選したAさんとともに初参加した。

選ばれた人の半数以上が初参加。

観察も初めてであって双眼鏡の使い方から講義を受ける研修室。

日本野鳥の会奈良支部や河合野鳥の会の人たちが講師にあたる。

探鳥会は今年で9年目になるそうだ。

公園整備はほぼ完成近くになってきたことから整備から利用促進に移していると話される。

双眼鏡は接眼レンズの設定がいる。

その人の目にあった調節をしなければならない。

ほとんどの人は双眼鏡で鳥を追いかけてしまう。

それでは探しっこない。

裸眼で鳥を見つけてその方向に向けて双眼鏡を構えるのである。

慣れるまではその扱いをされずに双眼鏡で鳥を探し回る。

そうすれば酔った感じになってしまう。

何人かの人はやはりそうなった。

ビデオカメラを初めて撮る人もそういう傾向になる。

そうすると写しだす映像がグラグラ画面。

大きな画面でそれを見た人は船酔いになる。

経験してはじめて判る動画なのだ。

さて、馬見丘陵で見られる野鳥は120種ほど。

奈良県内で見つかった半分になるという。

今日はどれだけの野鳥を見つけることができるのか。

120種といっても一年間を通して発見された鳥だけに季節によってはまったく様相が違う。

漂鳥、夏鳥、冬鳥、旅鳥、迷い鳥などなど。

旅の途中で見られるのは春と秋の旅鳥だ。

講師は話す野鳥観察の楽しみ。

カワセミのような美しい鳥。奇麗、鮮やか、色文様の出あいに感動をする。

求愛活動のさえずり、観る鳥、撮って見せる鳥、バードカービングのように造る鳥など楽しみ方はいろいろある。

鳥を探すには耳を澄ます、動く物体を見つける、いそうな処を探す。

空高く舞う鳥、小枝に留まる鳥、池を泳ぐ鳥、茂み、草むらや藪にいる鳥などと話されるが、それらが判るまでは何度も探鳥会に参加することが大切だ。

鳥の大きさは基本となるモノサシドリを覚えておく。

そうすれば他の人にもこれぐらいの大きさだったと言える。

基本の28種は一年間の観察会で覚えられると話す講師。

1回の観察で3種類ずつ覚えておくと12回の観察会で36種にもなるのだ。

野鳥がどこにいるか、姿、形が判ればどんな鳥かをさらに知ることだ。

尾の振り方、冠、嘴、留まる姿勢、飛び方、歩き方、鳴き声などさまざまだ。

付け加えて講師が述べられたのは観察への心掛だ。

鳥のありのままの姿を観察する。

生き物が暮らしている場所に立ち寄って脅えさせない。

鳥ストーカーなる者が増えているという。

生存する周りに気を配ることが大切だと講義を終えた。

およそ30分の講義は初心者や経験者にとってもありがたい話である。

公園館前で3班に分かれて観察する人たちは<山野の鳥、水辺の鳥>のポケット図鑑(各冊550円のカラーイラスト図版)を貸与してもらい園内をそろそろと歩きだす。

公園館を出て真っ直ぐ下池に向かう。

ウッドデッキから池を泳ぐ水鳥たちを観察する。

下池からは上池へ回る。

東へ抜けて上池の裏。

ぐるりと回って再び下池と上池の間道へ。



そして、菖蒲園の横を通って公園館に戻った観察会の結果は順にヒヨドリ、キジバト、ハシブトガラス、カワウ、マガモ、アオサギ、カルガモ、カワラヒワ、カイツブリ、ダイサギ、シジュウカラ、ビンズイ、コガモ、オカヨシガモ、カワアイサ、キンクロハジロ、ジョウビタキ、エナガ、コゲラ、チョウゲンボウ、メジロ、ハクセキレイ、ホシハジロの23種。

他の班ではルリビタキも見られたそうで25種もあったようだ。

(H24. 2. 4 SB932SH撮影)

額田部推古神社年越し

2012年03月18日 08時41分35秒 | 大和郡山市へ
節分行事を額田部の推古神社では「年越し」と呼んでいる。

古くは立春を正月新年としていた。

節分の日から翌日の立春は新たな年。

年を越す日である節分の日につきものの大豆が推古神社祭壇に出現する。

とは言っても鬼が現れるわけでもなく、豆撒きにする豆でもない。

四人の当家が予め供えておいたオヒネリの年越し豆。

そこには参拝を済ませた人たちの豆ヒネリも並ぶ。

持ち寄った参拝者は豆ヒネリを供える。

そして既に供えられていた豆ヒネリを持ち帰る。



まさに豆の交換である。

神社には神官は登場しない。

神事はないが神饌は神前に供えられる。

そのころから徐々にやってくる参拝者を待つ当家たち。

参拝を済ませた人にお神酒を注ぐ。

参拝者が灯したローソクの灯りが美しく照らす。

たばった豆は炒り豆。

歳の数に一つを足して食べるという。

家に替えれば「豆撒きもしたいが中学生になったからやってくるるかな」と話す人もいる。

M家の婦人はたくさんのオヒネリを持ってきた。

なんでも家族の人数分だという。

中に入っているのは家人の年齢数。

それぞれに名前を書いている。

「おばあちゃんは80歳だから80個だ」という。

それゆえ豆を交換することなくお供えをした後は持ってきた豆を持って帰り神棚に供える。

嫁に来てからずっとしているという。

それぞれの家の風習が額田部に見られる節分の行事であった。

(H24. 2. 3 EOS40D撮影)

新木町新城神社節分祭

2012年03月17日 07時47分09秒 | 大和郡山市へ
かつては1月15日の朝に大とんどをされていた大和郡山市の新木町。

新城神社が鎮座する地域だ。

そのとんどの火を矢田口まで持っていって移していたとんどの日。

いつかは復活したいと話すNさん。

この日の節分祭に際してお供えの豆を大きな器に盛った。

神社の幕を張ったころは池ノ内の宮司さんがやってきた。

参拝者はごく数人。



節分の祝詞を捧げまつる新城神社の節分祭を終えれば持ってきた豆を左の器に入れる。

そうして神社側が用意した右の豆をたばって帰る。

豆の交換である。

持ち帰った豆はホウラクで炒って歳の数だけを食べる。

一年間の無病息災を願う風習である。

孫がおれば豆撒きもするのだと話す。

福豆と呼んでいる節分の豆は除災招福を願う豆である。

(H24. 2. 3 EOS40D撮影)

佐紀の節分

2012年03月16日 08時04分03秒 | 奈良市へ
節分の日は豆を持って氏神さんやお寺へお参りをする。

その際には既に参られた人が供えた豆を持ち帰る。

そのようにして豆を交換する風習が地域で行われているが、必ずしもすべてではない。

平成19年の秋祭りの布団太鼓台のお練りを取材させていただいたおりに聞いていた奈良市佐紀の門外(もんがい)釣殿(つりどの)神社の節分。

その日は朝から清掃をされる年番さんが境内を奇麗にされていた。



その前には立御膳と呼ばれるお供えを神前に供えられていた。

お神酒、洗い米とともに供えられる立御膳はニンジン、ダイコン、ゴボウを立てて器に盛る。

他にメザシやフ(麩)も供える。

年中行事でお決まりの節分のお供えである。

祭典は大和郡山の柳澤神社の宮司を迎えて行われる。

その日の夕方、地域の人たちが豆を持ってきてお参りをされる。

何人の人が来られるのかそのときにならないと判らないという年番のFさん。

夜遅くまで参拝者を待つというだけに節分の日は一日仕事になるそうだ。

小字西畑の釣殿神社から僅か数十メートル東に鎮座するのが小字亀畑にある佐紀神社である。

御前池の西と東側にある両神社。

平安時代のころ、亀畑の佐紀神社から分霊を祀ったのが釣殿神社であると門外氏子青年団のFさんが話していたことを思い出す。

佐紀神社でも年番さんが清掃をされていた。

二条町に住む氏子さんである。

町内は30軒ほどであるが、年番を務められるのはそれぞれの事情もあって回りは8年ぐらいになるという。

年番を務めるのはこの月から翌年の1月まで。

一年間の祭祀を務める。



久しぶりに回ってきたのですっかり忘れているが、毎回の行事にはシトギを供えると話すYさん。

当番の家で米を挽いて粉にする。

水に浸して塗りの椀に盛って供える。

神事を済ませて座小屋でそれを取り分けバランに乗せる。

座の人はそのシトギを食べるという。

シトギ(粢)を食される行事はそれほど多くない。

これまでにも奈良市池田町の熊野神社、大和郡山市満願寺町の古田神社で拝見したことがある。

神社ではないが天理市杣之内町木堂の彼岸講や奈良市柳生町の山脇の山の神でも供えている貴重な様式。

本来のコメの味がするシトギを供える形式は古い時代を現しているだけにいずれは再訪したい神社行事に砂撒きもあるという。

大晦日に年番が調える注連縄は簾型。

正月行事も見逃せない神社の節分は夕方に春日系の神官が来られて神事が行われるそうだ。

神事が終わるころに氏子らが持参する豆御供。

当地でも同じように豆を交換して持ち帰る。

(H24. 2. 3 EOS40D撮影)

豊浦町のとんど

2012年03月15日 06時44分40秒 | 大和郡山市へ
「重ね正月という詞があるそうだ。

それは2月1日のことで、1月の正月の後の最初の朔日(ついたち)であることから2度目の正月ととらえられているという。

厄年にあたる人は一つ歳を繰りあがり、いち早く厄年を乗り切るという。

この日に回礼する「二月礼者」という風習もあると産経新聞に紹介されていた。

その記事にはひと月遅れの年始回りをする人を迎えるために注連縄を2月1日まで玄関に飾る家もあるという。

2月までは正月であるというのだ。

旧暦のことを言っているのかどうか判らないが、まだまだ寒い季節は新春の間。

立春を迎えるまでは正月ととらえていたのであろう。

トーヤが立てたとんどが畑の中にあった。

マツリのトーヤであるのかとんどのトーヤであるのか判らないという男性は犬を散歩に連れていた。

とんどの内部には既に神社で飾られた注連縄や家の〆飾りもあった。

とんどは何時されるのか。

隣町の杉町では2月1日の朝だった。

八幡神社の傍前の畑でしていたがそれは戦前までのことだと89歳のMさんが話す。

豊浦町もそうであるかといえば違った。

2月に入った日曜か月曜の朝らしい。

(H24. 2. 1 EOS40D撮影)

丹治を訪ねて

2012年03月14日 06時49分03秒 | 吉野町へ
この日はいつも雪が降って寒いのだと話す丹治の男性。

道も積もっていれば数十か所にあるお地蔵さんにもモチを供えるには足元が堪えるという。

この日というのは2月1日のことだ。

男の人が42歳の厄年になればそれぞれのお地蔵さんに42個(一升で搗く)ものモチを供えて巡拝する

それは前厄、本厄、後厄の3年間もしなければならない。

お参りに行くのは男性ではなく婦人というから奥さんだ。

未婚の男性の家ではどうするかといえば母親になる。

家の男性の厄除け祈願、健康を祈る行事は女性が務めるといった一風かわった風習が残されている吉野町の丹治。

上や下の地区それぞれに数人がかたまってお参りに行けば、ところどころで出あうらしい。

朝の7時ぐらいに出発してすべてのお地蔵さんにモチを供えるには1時間もかかるという。

お地蔵さんは上地区だけで12か所もある。

道路を隔てた小高い丘にも数か所あるそうだ。

地区を守っているかのような配置である。

供えられたモチといえば数時間後にはすべてが消えている。

そのモチは町内の人たちがご利益を頂戴するかのようにたばっていくのであった。

その日の午後に訪れたときには実際まったくなかった。

丹治地区ではこの月の26日には祈年祭が行われるという。

その案内を自治会の掲示板に貼りだされていた。

その場所をお聞きすれば下の地区に真っすぐ下っていったところに神社があるという。

神社名を聞くことを失念していたことを後悔した。

ネットなどで調べたところ大森神社であろうと思われる。

そうこうしているうちに雪が降り出した。

鹿路の峠ではうっすらと積もりだした。

(H24. 2. 1 SB932SH撮影)

丹後庄のとんど

2012年03月13日 08時39分07秒 | 大和郡山市へ
八雲神社東側の小原池の中でとんどを行っている大和郡山の丹後庄(たごんしょ)町。

以前は池ではなく池堤や付近の田んぼで行われていた。

小原池の水を抜くのは稲刈りを終えたあとだ。

金魚を養殖している池の水はすべてを浚えるのではなく岸辺が見える程度を残す。

その砂地の幅は6mほど。

そこでとんど焼きをするのだ。

水があるから何時でも消火できる。

延焼することなく安心してとんどができると話す村人たち。

丹後庄のとんどの竹櫓は組まれない。

神社清掃や農業で伐採したシバ(雑木)などを集めて山のように盛りあげる。

そこには氏神さんの八雲神社で飾っていた簾型の注連縄も燃やされる。

歳神さんは村を守ったあとはとんどの火とともに天に昇っていくのだ。

砂地の幅に合わせて盛ったとんどの火点けは吹く風の反対側から。

そうしないとまんべんなく焼くことができないと話す。

風が吹く勢いで西に燃えていく。

そのころ南北を縦貫する藺町線を走り抜ける消防車がサイレンを鳴らしていく。

とんどの火を火事と勘違いした人が通報したのだろうかと思ったがそうではなかった。

火事は遠く離れた南の方だった。

ちなみにたとえ安全な池でしようとも消防署には届けをしていると村人は話す。



大きなとんどが燃え尽きるには相当な時間を要する。

火が鎮まるころを見計らってサツマイモを焼く。

新聞紙を池水に浸けてサツメイモを包む。

その上からアルミホイルを巻いていく。

それを火に投入してイモ焼き。

アルミホイルだけなら焼け焦げてしまうからそうしているというイモ焼き。

ホクホクして美味いあんばいに焼けた。

かつてはリヤカーを引いて藁や伐り出した竹を貰いに行った。

それは上級生の役目。

とんどの火点けは長老がしていた。

その当時はモチを焼いていた、と翌月にSさんが丹後庄のとんどを語ってくれた。

子供たちが刈る、集める、貰いに行って組み立てる。

その頃は子供たちも村落の一員として役目を担っていた。

そういった話は旧村行事の取材のときによく聞く話だ。

村落共同体は今や聞くことがないほどで、ごくごく一部の限られた地域でしか見ることができない。

昭和の何時の時代までが、村のお役目子供の全盛期であったのだろうか。

(H24. 1.31 EOS40D撮影)

矢田町垣内のとんど

2012年03月12日 06時48分04秒 | 大和郡山市へ
西垣内のとんどが燃え盛る頃、垣内ではとんどがようやく組みあがった。

そんな様子を見守る婦人たち。

モチ焼きの網を用意して村を語らっている。



座った場近くに小さな縄が落ちていた。

話によれば「ミチナワ」だという。

2週間ほど前に垣内の一軒が葬儀を行われた。

家から墓地まで行く道筋にそれを置くという。

置く地は墓地まで向う道で辻にあたるところだ。

三叉路、四つ辻、いずれもどの道を行くのか分かれ道。

仏さんが迷わないようにする道案内の目印だという。

その家はとんどに参加することはできない。

ブク(服忌)にあたる家はとんどの場から少し離れたところでひっそりと小さなとんどに火を点けるのだ。

そういう風習は隣村の寺村や明日香の越でもされていた。

この日はとんどを終えてから人目につかないようにされるという。

そのような服忌話題を話す垣内は4軒で行われている。

それぞれが藁束を持ち寄って組んだ竹櫓の周りに立て掛けた。

とんどの火点けは恵方のアキの方角から四人が火を点ける。

四人が一斉にというわけにはいかないので、めいめいが火を点けた藁を手にしてぐるぐる回りながら点けていく。



火はまたたく間に広がって竹櫓が燃えあがった。

かつては習字も燃やしていたという。

学校を終えた小学生たちはとんどの光景を見ながら帰っていく。

(H24. 1.31 EOS40D撮影)