マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

矢田町西垣内のとんど

2012年03月11日 08時17分26秒 | 大和郡山市へ
「この日やからしている」と言って始まった大和郡山の矢田町垣内のとんどは昔から1月31日と決まっているという。

垣内は西垣内と垣内の2か所。

ほぼ同一時間帯に行われている。

とんどの櫓を組むのは始まる直前。

それまでに準備しておいた竹で櫓を組む。

柏木町のとんどを拝見して戻ってみれば既に火を点けていた西垣内。

とんどの周りに村人が群がっている。

ポン、ポンと竹がはぜる音が響き渡る。

そのとんどの火には習字の書がくべられた。

いつもそうしているという習字焼き。

火は熱いからと言って竹に挿した習字の書。

熱風で飛んで行った。



それを拾い上げて竹に挿す。

またたくまに燃える習字の書は燃えて天に昇っていく。

そうすれば字が上手くなるという。

(H24. 1.31 EOS40D撮影)

柏木町のとんど

2012年03月10日 08時57分17秒 | 大和郡山市へ
1月14日の夕方から翌朝にかけて行われている小正月のとんど。

とんどといえばその日が最も多く全国的に行われている風物詩的な行事である。

ところがとんどはその時期ではなく1月31日から2月初めにかけて行われている地域も少なくない。

大和郡山市内でどれほどの分布があるのか、民俗行事にある調査対象一つとして地域を巡ってきた。

その一つにあったのが柏木町だった。

砂撒きが見つかった素盞嗚神社の東側は田んぼが広がる。

その向こうが佐保川である。

青空の下、一面に広がる田園。

この時期の作物は見かけない。

さて、とんどはと言えば畑地の空き地に設営されていた。

前日の午後には既に立てられていた大きなとんど組み。

おそらく当日の朝に設えたものだと思われるが付近には人を見かけない。

そんなことからこの日も訪れたのだ。

とんどの傍らには太鼓台が置かれてあった。

何をするものであるのか、そのことを知る村人を尋ねればならないと思い地区を巡ろうとしたときだ。

車から降りようとしていた婦人を発見して声を掛けた。

婦人の話によればかつてマツリで担いでいた太鼓台だという。

古くなったことからとんどで燃やすかも知れないと話す。

その太鼓台の脚にはなにやら文字が見える。

「昭和10年10月17日新調 一金参拾六圓」と墨書されている。

台は四脚。

それぞれに寄進されたと思われる人物の名が見られた。

四人の名があるがいずれもご婦人の名である。

柏木町は旧村農家。昨今は新興住宅が増えているが、旧村20軒ほどだという。

おそらくその名は住民の名前であろう。

マツリ太鼓台を女性が寄進するのは珍しいのではないだろうか。

話を伺ったD女史によれば大とんどの火点けは2月1日の早朝だそうだ。

子供たちが学校に行く前に火を点けるらしい。

1月31日にとんどが行われている大和郡山の地域では矢田の垣内、小南、丹後庄、額田部がある。

翌日の2月1日に行われているのは筒井、柏木だ。

2日には番条、井戸野、美濃庄がある。

村人らの話ではニノ正月のとんどとか2月の旧正月のとんどだという。

矢田の寺村や清水では立春辺り。

横山では9日だがニノ正月だという。

2月1日は正月過ぎた最初の朔日(ついたちび)。

二度目の正月としてとらえて、厄年にあたる人に一つ、年齢を取らせて早く厄年をやり過ごそうとしたそうだ。

数え年は正月に齢をいく。

その日を一夜正月とか重ね正月と呼ぶと産経新聞で紹介されていた。

市内宮堂では正月を飾った注連縄は2月になってようやく取り外すという。

白土も同じだ。

こうした二度目の正月である2月正月のとらえた方は地域によってさまざま。

それだけにとんどの風習は小正月、或いは2月正月であったりして、行われる日が違っているのだろう。

ところで、天理市の嘉幡町が実家のFさんの奥さん。

大とんどは1月14日だが2月1日には菅田神社境内で小とんども行われているようだと話す。

また、大和郡山市白土町に住むK婦人の話では4日の朝は各家がそれぞれのとんど場で正月を飾った〆飾りを燃やす。

だが、白坂神社の鳥居に飾られた簾型の注連縄は2月1日にとんどをするのだ。

地区によっては2回もあるということだ。

(H24. 1.31 EOS40D撮影)

大宇陀松山上新のセンギョ

2012年03月09日 08時07分56秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
大宇陀の旧松山街道の大字は南から万六(まんろく)、拾生(ひろう)、出新(いでしん)、上新(かみしん)、中新、上町、上中、上本、上茶と呼ぶ上町通り。

その街道から西へ行けばもう一つの街道がある。

南から下出口、下中、下本、下茶、西山大字の下町通りだ。

かつては織田家四代が治めた宇陀松山藩の城下町として栄えた。

現在も江戸時代の面影を残す歴史的な街並みであり、伊勢本街道に通じる交通の要所、宿場町でもあった。

その町並みは重要性から平成18年に「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。

城下町として発展しただけに商人の町屋が建ち並ぶのだ。

薬屋、油屋、醤油屋、宇陀紙屋、造り酒屋、料理旅館に吉野葛本舗で名高い森野旧薬園や宮内庁御用達の老舗黒川本家など商家の町はうだつ(卯建)に虫籠(むしこ)窓や格子窓が目にはいる。

その数、200軒もあるそうだ。

時代を経て商売替えされた家も見られる町屋の商人たちはそれぞれの大字でセンギョをしていたという。

カンセンギョは寒施行と呼ばれる民間信仰の風習で、寒の入りになれば山に住む動物たちに施しをする主に稲荷講の行事である。

が、松山地区では講の存在はない。

商売の神様であるお稲荷さんを祀る商人たち。

何軒かが集まって町の周辺にあるお稲荷さんにセンギョをしているという。

商いをする家では屋内に社を祀る処は少なくないと中新大字のT婦人は話す。

その中新ではおにぎりにしたアズキゴハンにアブラアゲやお頭付きの魚(ジャコ魚)を供えに行っていたという。

大寒に入ってからだ。

2月の立春までに日を決めて参っていたというセンギョは6年ほど前に止めたそうだ。

今でもセンギョをしている大字があるとTさんから教えていただき上新大字にやってきた。

訪ねた家はU道具屋店。

婦人が話すには今日だという。

「あんたはラッキーな人やで、みんなに声かけたるわ」と笑って応える。

そろそろ参る人たちが集まってくるという。

中新、上新に辿りつく直前は出新に立ち寄っていた。

真新しい愛宕神社に提灯が取り付けられている。

祭典があるのだろうと清掃されていた老婦人にセンギョのことを尋ねた。

「カンセンギョならちょうろうじという寺やと思う。檀家さんと思われる人がしてはるようやけど、もう終わったんちゃうか」と答える。

ちょうろうじと聞こえたその寺は長隆寺(ちょうろうじ)であって道具屋店のまん前だったのだ。

急なことだが取材許可を得て商人たちが行っているセンギョに同行することになった。

上新大字で行われていた商人たちのセンギョは一旦廃れたそうだが、声を掛け合って復活しようと同志が集まった。

それは数年前のこと。

松山地区の民俗文化を継承する町内会(親睦会)の催しとして20年ほど前に再出発されたのだ。



これまでは暗くなるのを待って出発していた。

すべての個所にお供えするには2時間もかかる。

終える時間も考慮して今年は出発時間を1時間早められた。

センギョをするお供えは中新で聞いていたアブラゲオニギリ、三角形のアブラゲ、雑魚、お神酒と同じであった。

お供えをする個所は12個所もある。

お供えを持ってお参りをするのは男性たちだけだ。

町内会の婦人たちはお供えをするアブラゲオニギリを作る役目。

120個ものおにぎりを作られたのだ。

それは桶に入れて風呂敷に包む。

肩から担いでいく男性にアブラゲ、雑魚、お神酒など分担してセンギョをしにいく。



はじめに供えた個所は長隆寺の墓地外れの雑木下。

狐が出そうな処にお供えを置いてお神酒を注ぐ。

Uターンして向った先は同寺にある稲荷社。

そこでも同じようにお供えをしていく。



次に向ったのは同寺の北側に鎮座する神楽岡神社だ。

階段を登り鳥居を潜る。

そして境内の奥の壁際の地に置かれたお供え。

この頃は徐々に日が落ちていく。

この季節の夕暮れ時の時間は早い。

松山街道に下りてきて一列になった。

「センギョヤ センギョヤ オイナリサンノセンギョヤ」と掛け声を掛けながら地区を巡り歩く。

森野葛本舗・旧薬園の門を潜って葛作りの作業場を通り抜ける。



自生する葛根を掘り出して寒の水で何度も水洗いして沈下精製する沈殿槽である。

その作業は「吉野晒し」と呼んでいる。

旧薬園は森野家の裏山田にある。

急な坂道を登りつめた処だ。

10代目の森野藤助が享保年間に自宅の裏山に開いた「小石川植物園」と並ぶ日本最古の薬草園は十年ぶりにひょんなことから採訪となったわけだ。

当時は家族で訪れた。

その際にお話をしてくださった婦人。

熱い葛湯をいただいた。

懐かしい景観は今も変わりないが既に陽は落ちて真っ暗である。

その暗闇に浮かび上がる碑の前に供えられたセンギョの施し。

ここからは山道に入る。



急な道を下ったり登ったりする。

先日に降った雨が山道歩きを阻む。

ズック靴では何度も滑りそうになる。

懐中電灯やヘッドライトで足元を照らす光りがなければ道を踏み外す。

親と一緒について来た子供は難なく歩いていく。

我が家の山道は歩き慣れているのだろう。

後方をついていく私の足元を照らしてくれる。

真っ暗な山道を歩くとは予想もしていなかったことに感謝申しあげる次第だ。

そうして着いたのが長山(ながやま)の頂上にある稲荷社だ。

朱塗りの鳥居の向こうに社がある。

お供えをする間にひと休憩するがほんの束の間。

再び山道を歩いていく。

ここからは下りである。

ヌルヌルの山道は滑るばかりだ。

町内会の人たちは長靴を履いているので山道もなんのそら、である。

始めて体験する森野親子は実に逞しい。

山を降りてくれば国道166号線笹峠辺りにでる。

ここからは西に向かって国道を歩く。

「センギョヤ センギョヤ オイナリサンノセンギョヤ」の掛け声は往来する車に消えていく。

再び松山街道に出て出新大字・万六大字からは東の方角にある山に向かう。

石の階段を登りつめた処に稲荷社(佐多神社朝日大神であろう)があった。

既に供えられている三つのお供えが目に入った。

「万六大字か出新大字の人らで、昨日か今日に参ったんとちゃうか」と言う。

それらのお供えに並べて上新大字のセンギョを供えた。



その傍らにある小さな祠にもセンギョをされた。

そこにも先着のお供えがある。

雨にうたれたのであろうか半紙は崩れている。

前日の雨降りでそうなったとすればお供えは雨降りの前だ。

その地は地車大明神の名が刻まれている石にも供えられていたが上新大字は供えない。

社から降りて三度目の街道に戻る。

それを越えて新道を跨ぎる。

大宇陀の道の駅の南側を抜けて西の大願寺裏に向かう。



そこでは何らかの社と傍らにあるお堂の前にも供える。

これで9か所をセンギョしてきたのだ。

「あとはもう少しだ」と言って再び国道166号線に下る。

そこから数百mほど北に向かって歩けば民家の上の山となる。

またもや山道だが距離はそれほどでもない。



登った処にあるのは稲荷大明神。

かつては武家屋敷があったという。

再び国道166号線を跨って万葉公園外れにある社地に向かった。

阿紀神社が一時遷座される旧社地だという。

ここには「パワースポット 高天原」を表示する看板があがっている。

現実に戻ったかのように思える看板に興ざめする現代的な標識は古来の社地を標べする。



そのことと関係はなく上新大字のセンギョは社地に厳かに供えられる。

下り路にあった小さな祠にもセンギョをされて一同は帰路についた。

このようにしてセンギョでお参りした社はすべて高台にある。

その数12か所。

松山地区を見守っているかのように地区外れで佇んでいる。

中新大字で聞いた箇所より多く倍以上もあったのだ。

万歩計が示した歩数は1万歩。

距離にすれば6kmぐらいだと思われるセンギョの道程だった。

こうしてセンギョを終えた一行は万葉公園内にある「あきの茶屋」にあがった。

この夜は慰労会。



会食の一つにきつねうどんが配膳される。

大きなイナリアゲにうどんが光る。

センギョは狐さんの施し。

町内会の人たちもセンギョにあやかって美味しいうどんで身体を温めた。

その松山地区には街道沿いに愛宕神社が数か所に亘って祀られている。

最初に見た出新大字では提灯を掲げていた。

慶恩寺の南側であるから下茶大字であろう。

そこも愛宕神社がある。

テーブルを置いてあったので祭典の準備をしていたと思われる。

南に戻って万六(拾生かも)大字にも愛宕神社がある。

ここでは祭典の様子が見られなかったが、上町通りの北南部に祀られた愛宕さんは防火の神さん。

下町通りにも数か所ある。

商家の町屋だけに火を怖れたうだつ(卯建)があるのも頷けるのである松山地区。

重要伝統的建造物群保存地区に選定された城下町を守ってきた。

大和郡山市伊豆七条町に住むY婦人の話によると、先代のおばあさんは大寒入りになればダイコ・サトイモ・アブラゲを入れた煮しめを炊いていた。

アブラゲを細かく切って入れたゴハンを三角オニギリ、三角のアブラゲを神棚や外のお稲荷さんに供えた。

初午のときはコーヤ・カンピョウ・三つ葉・細かくしたカマボコ入れた巻き寿司を作りおかずもこしらえて稲荷さんに供えた。

5本の白い旗を立てていたが亡くなってから止めたと話す。

こうした民間信仰をも寒施行の一例にあげられるであろう。

(H24. 1.22 EOS40D撮影)

レンジで簡単醤油ラーメン

2012年03月08日 06時44分36秒 | あれこれインスタント
インスタントラーメンにはカップラーメンや袋入りラーメンがある。

誰でも知っている国民的ラーメンであるが麺は物足らない。

シワシワのカスカスのコシがないラーメンも好きな部類だがたまに食べたくなるのが袋入りの生麺。

安価なものではふた玉が入ってたったの100円ラーメンも売られている。

モヤシは下味にシオ・コショウをパラパラ振りかけて炒める。

メンマも入れると味が深まりたいそう美味しくなる。

こういった袋入りの生麺はコクがあって麺もシコシコ。

稀には水っぽいのもあるが当たりが多い。

ところがそいつは賞味期限がある。

食べようと思って買いおきしているのだが、ふと忘れてしまって期限切れ。

それを解消したと思われるのが冷凍の生麺だ。

コンビニ7&11で売っているのを見かけたことがある。

チャーシュー、メンマに青ネギが食欲をそそる袋の姿。

なぜかナルトが添えてある。

関西のラーメンにナルトはあるのか、ないのか知らないが食べてみたくなるような映像パック。

電子レンジでチンの出来上がりだと思って買ってみた。

作り方は裏面に書いてある。

よくよく読めば、チンは冷凍されているので柔らかくするだけだった。

なんのことはない麺も出し汁も熱湯につっこまいないと・・・。

それじゃあ袋入り生麺と同じではないか。

チャーシュー、メンマ、青ネギ、ナルトは袋の中にない。

入ってないのだ。

これまたよくよく見れば調理例とあるではないか。

冷蔵庫にはそれに値する残り物は見当たらない。

仕方なく麺と出しスープだけを器に盛った。

彩りにアオネギもと思ったが、これもないから実にシンプルな姿になった「レンジで簡単醤油ラーメン」は100円だ。

味、美味さ・・・袋入り生麺のほうが断然に美味いと思った。

(H24. 1.18 SB932SH撮影)

満願寺町のお札

2012年03月07日 06時43分32秒 | 民俗あれこれ(護符編)
奈良県立民俗博物館の玄関ホールでミニ・モノまんだら展「十二月十二日のお札」を展示されている。

泥棒除けのまじないだとされる十二月十二日の文字を書いたお札を玄関にはっておく。

民間における風習が各地で見られるが家の風習だけにその存在を見つけることはとても困難である。

額田部町に住むY婦人はそのお札のことは知っていたが貼ってはいないという。

同町に住むS婦人は以前に住まいしていた母屋で行っていたという。

いずれもかつてのことだ。

そんな話題をした行きつけの歯医者さん。

先生が生まれ育った実家に残っているかも知れないという。

あれば、と撮影願いをしていたのであった。

そうして出かけた先は満願寺町のI家。

父親がお住まいだ。

玄関を開けてここだと指さす先にあったお札。

まぎれもない十二月十二日のお札であるが逆さではない。

お札の横には「立春大吉」のお札もある。

疫鬼を家外に追い払って「福」を招き入れるのであろう。

これもまたまじないのお札である。

十二月十二日のお札は24時に貼るのが良いとされる。

豊臣秀長の菩提寺として知られる大和郡山の春岳院。

かつては午前0時に訶利(梨)帝母(かりていも)=鬼子母神の尊前で祈祷した水を用いて墨を摺った。

梵字に頭を添えて「十二月十二日」と墨書した。

そのお札は檀家に配っていたと、ミニモノまんだら「十二月十二日のお札」の解説にある。

立春大吉も同じように2月3日の24時に墨を摺って墨書したお札を貼っておく。

そうしておけば鬼は入ってこずに福を招いて一年間が無病息災で過ごせるというまじない。

どちらも家内安全を願う護符に違いないが、貼った人(母親)は此の世に居ない。

話を聞いておけばルーツの一つが判ったかも知れないが、先生も父親も聞かずじまいだった。

あの世で聞くしかないと話された。

ところで、700年前(1309年・宮廷絵師高階隆兼作)の鎌倉時代後期の暮らしぶりを描いた絵巻「春日権現験記絵」には屋根に登った赤鬼が見られる。

屋根から室内を覗き込む鬼の姿だ。

疫病神、異国の或いは怨霊の姿の鬼は病に伏す家人を伺う。

それを見て思い起こすのが「十二月十二日のお札」だ。

釜ゆでの刑に屈した盗賊頭の石川五右衛門が屋根から泥棒に入ろうとするのを阻害すると信じられたお札。

それゆえに文字を逆さにして貼るのだと・・・伝えがある。

「立春大吉」のお札の文字は左右対称。

表から見ても裏からでも同じ文字である。

ゆえに玄関に入らずとも鬼が見えるのは立春大吉の文字。

鬼は振り返り戻っていくという。

上下、裏表に違いはあるものの逆さに貼る十二月十二日のお札はもしかとすれば邪鬼除けだったのではないだろうか。

(H24. 1.17 EOS40D撮影)

富雄川沿いのとんど

2012年03月06日 08時42分11秒 | 大和郡山市へ
満願寺町界隈を走っていた。

昼過ぎだろうか。大きなとんどが目に入った富雄川堤。

その傍で小さな火が見えたのだ。

走っている車窓からでははっきりと判らない。

おおきなとんどに火がなく小さな火なのである。

そのことで思い出したのが矢田の寺村のとんど。

そこでは服忌の家は傍らで小さなとんどに火を点ける。

不浄だから大とんどは避けなければならないというのだ。

服忌であるのか・・・いずれは確かめてみたいものだ。

燃え尽きた思われる大火痕が目に入った夕方5時。

再びこの辺りを走行していたのだ。

後日に満願寺町で生まれ育ったI先生の話によれば、そこは矢田の新村だという。

満願寺町は集落の南の方にある枯れ木の下辺りだそうだ。

先生の父親に確認すれば公園に移ったという。

富雄川沿いにはもう一つの大火痕が目に入った。



探していた外川町のとんどだ。

それは郡山西中学校の向い側の川堤。

小さくなったとんどの火の前では女性が二人おられた。

持参したモチを焼いていたのだ。

「大勢の人がおったと思うのだが」と話してくれた親子。

モチやサツマイモを焼いていたようだという。

さらに富雄川を遡っていった。



川沿いの国道、外川の信号からでも見える大きなとんどは火を点けたばかりの主水山(もんどやま)。

我が家が属する地域のとんどである。

今年は4か所から火を点けたそうだ。

Kさんの話では西城のほうでもしているという。



丁度その頃だ。

大和田から南のほうで火の手があがった。

遠くからでも目に入る大きなとんどのようだ。

なんでも3垣内それぞれで行われているという。

地域周辺ではいずれも日曜日に行われている。

かつては旧暦小正月は2月1日。

前日の大晦(おおつごもり)になる1月31日に行われていた主水山のとんど。

矢田の新村、満願寺町、外川町、西城地区、それぞれの地域を詳しく聞き取りしなければならない。

(H24. 1.15 EOS40D撮影)

岩屋興隆寺ガンジョウエ

2012年03月05日 07時50分42秒 | 山添村へ
正月6日の修正会に続いて15日は修二会が行われる山添村岩屋の興隆寺。

6日は宮さんの修正会であるが、この日はお寺の正月始めに行われる修二会法要のご祈祷である。

この日も会式を下支えするのはドーゲ(堂下)であるが当番の二人は前回の人と交替する。

岩屋の当番は行事によって担当が入れ替わるのだ。

氏神さんの八柱神社で毎月1日に参られるときには一日のサヘ当番、直会に差し出されるダシマメを担うダシマメ当番もあるという。

修二会に集まったのは21人。

総代や区長に村人たちが揃って住職は内陣に座った。

その傍らにはススダケ31本とホウの葉で包んだ24個の御供が置かれている。

宮さんの修正会の残りだというがお札は異なる。

今回はお寺の修二会となるだけに墨書は「牛王 米尾山 宝印」とか「~ 興隆寺 ~」に替るのだ。

宮さんの修正では本尊の扉を開けることはないが、この日は寺会式であることから本尊はご開帳される。

香を手にとって揉んでお経を唱えられる住職。

一年の始まりに過去の穢れを祓い新年の村の安全や豊作を祈願する念仏は悔過法会であろうか。

堂内を鎮めるかのように静かに読経される。

どれぐらいの時間が経ったときだろうか。

突如として「ダンジョー」と発した住職。

それを聞きとどけたドーゲは急いで回廊に据えた太鼓に走っていった。



「ダンジョー ダンジョー」と大きな声で叫びながら太鼓を叩く。

その数は30回だと総代はいう。

堂内は再び静けさを取り戻した。

それから10分経ったときだ。

再び「ダンジョー」と発した。

またもや駆けつけるドーゲは勢い強く太鼓を打つ。

外気は冷たく寒風が吹き抜ける。

そんな情景も関係なく村から疫神を追い払う。

それがダンジョーの作法なのだ。

かつてはその際に子供たちも混ざって廊下の床を叩いていた。

叩く木はフジの木だったという寺行事の修二会はガンジョウエとも呼ばれている。

充てる漢字は「願正会」だというらしい。



安穏の村を祈願した法会を終えれば直会。

いつものようにダシマメをいただきながらお酒を飲む。



ドーゲが村人の前に向かって湯とうの酒を朱塗りの椀に注ぐ。

めいめいが桶に入れられたダシマメを皿に盛って回していく。

岩屋の人たちは大いに酒を飲む。

およそ一時間半が経ったころだ。

総代から「ぼちぼちや」とドーゲに指示が下った。

村人が並ぶ前に進み出て湯とうを逆さにして頭の上にあげた。

「残酒もあんので、なろう方はよばれて帰ってください」とドーゲは口上された。

逆さにするのは注ぐお酒は空っぽになったという意思表示である中締めの作法だ。

こうしてお酒からお茶に替った直会は三々五々に散会する。



オカホ(陸稲)の豊作を祈祷されたゴーサンのお札を貰って帰る。

宮さんの修正会でたばったお札は水田の苗代豊作を願う水の神さん。

この日にたばるのは畑の豊作を願ったお札だ。

「水田で栽培される稲と畑で栽培される陸稲は違うものだ」と住職は語る。

岩屋の地は山間部。畑で栽培される原始的な陸稲が重要視されたのではないかと思われる。

尤もJAで苗を購入されるようになり、二つの札は合わせて畑に祀られる。

(H24. 1.15 EOS40D撮影)

下平田のどんど

2012年03月04日 09時07分59秒 | 明日香村へ
下平田のどんどはおよそ5mの高さ。

中央には心棒のような太い一本の松の木が見える。

手に入れるのは難しいと話す。

「ドウシン」と呼ぶ心棒は、天に通じることから「道神」の字を充てるという。

どんどの回りを囲むように設えた注連縄。

四方に竹を組んで注連縄を張っている。

場所はと言えば畑の一角だ。

かつてはこの場ではなく南側の檜隈を上流とする川の土手辺りだったそうだ。

川にはシバがたくさんあった。

初集会の日を過ぎたころ、シバ刈りに行くのは子供たちだった。

そういう話は大和郡山市の丹後庄でも聞いたことがある。

刈ってくるのは竹だが、組むのも子供だったと話していたことを思い出す。

下平田に生まれ育った婦人の話では北側の川向こうと南側の川向こう。

それぞれが競いあってどんどを組んでいたという。

南の川にはたくさんのシバがあった。

護岸工事でシバが生えなくなった。

そんなことで子供のシバ集めもどんど組みも自然と消えていった。

語る婦人が子供のときだというから60年前のこと。

懐かしい風景を思い出すように話された。

集会所ができる前はその傍らの田んぼだった。

川の土手もできなくなりハウスでイチゴ栽培をされている農家の方に土地を借りてどんどを設えた。

かつてはどんどの櫓も子供が組んでいた。

いつしか大人がすべての段取りをするようになった。

八坂神社で授かったオヒカリがやってくるのを待っているどんどの場の村人たち。

ライトをあてたどんどが田んぼにそそり立っている。

そこに火を点けるのは総代の役目。

点けるのはアキの方向だと言う。

この年のアキの方向は北北西。

そこには藁が置かれている。

火を移せばまたたくまに燃えあがる。

風が起こり火は巻くように舞いあがる。

南側から風が吹いて火の粉は北へ飛んでいく。

「いつもこの方向だからハウスに穴が空いてしまうのだ」とこぼす田んぼの持ち主。

ポン、ポンと竹がはぜる音が下平田に響きわたる。

天空高くどんどの火が舞いあがる。

火の粉を避けて村人たちはどんどから後ずさりする。



下平田のどんどは火打ち石で遷された神さんの火。

燃え盛って心棒の「ドウシン」から天空に向けて上がっていく道しるべということらしい。

どんどで燃やされたのは正月を飾った〆飾り。

歳神さんを迎えた注連縄である。

それはどんどで燃やされて天へあがっていく歳神さんなのであろう。

およそ30分。

どんどの火が鎮まって下火になった。

四方の竹は外されてどんどで燃やされる。

そのころには焼けた炭火が程良い加減。

用意しておいたスコップで炭火を掬う。

どんどの火は鎮まっても熱い。

スコップには長い竹を据えて長くした。

それでも熱いからなかなか掬えない。

焼けた炭火はスコップや懐かしい火起こしで持ち帰る人もいれば提灯に移す人もいる。

その火は種火。

家の神棚のオヒカリに移すのだ。



翌日の朝は神棚の火でアズキガユを炊く。

粥はビワの葉やツバキの葉(裏面)に載せて神棚に供える。

それは門や蔵、玄関口などの両脇にも供えるという。

それからアズキガユを朝食によばれると話す村人たち。

家によっては食事の後に墓参りをする人もいるそうだ。

その際は供えてあった松竹梅をビシャコに替えるという。

(H24. 1.14 EOS40D撮影)

平田のどんど火遷し

2012年03月03日 10時03分53秒 | 明日香村へ
明日香村平田のどんどは神さんからオヒカリを授かり、その火を松明や提灯に移してどんどに点ける。

陽が暮れる前に集まった上平田と下平田の総代たち。

拝殿に登って飛鳥坐神社の宮司を待つ。

境内では古い釜に湯を沸かしておかれた。

薪やシバを焚いて湯を沸かす。

そのころは既に陽も落ちて境内は真っ暗になった。

ここは上平田に鎮座する八坂神社だ。

二本の笹束と幣を神前に置かれた。



そうして始まったどんどの火遷しの神事。

祝詞を奏上したあと宮司は釜の前に立つ。

先に湯に浸けた幣を小脇に挟み笹の葉を釜湯に浸ける。

厳粛な御湯(おみゆ)の作法。

それを持って参拝者に向かって振る祓い清めの儀式である。

宮司は再び祝詞を奏上する。

おそらく始めの祝詞は神さんを呼び出し、笹葉に遷す神事と思われる。

それを以って参拝者に祓う。

ありがたい御湯の作法なのである。

こうしてオヒカリの儀式に移った。

火打ち石を持つ宮司。

カチ、カチと打つ石の音がする。

祭壇に置かれた白い皿に向かって火を起こしていく。



宮司は息を吹きかけて風を起こす。

何度か繰り返されたそのときだ。

火打ち石から発火された火はお皿に遷った。

神さんの火が点いたのだ。



風で飛ばないように白紙を添えたオヒカリの火は拝殿前に設えた枯れ松に遷された。

勢いよく燃えだした火。



松葉の松明を翳して火を移す上平田の人たち。

2本の松明に赤々と火が点いた。

とたんに走り出した二人。

松明の火は神社近くに設えたどんどに移されたのだ。

またたくまに燃え上がるどんど。



そのころ、下平田の人たちは持参した提灯に移している。

子供会の代表者は総代とともに大急ぎで下平田へ下っていった。

道中では中平田のどんどが燃えている。

ポン、ポンと竹のはぜる音が聞こえてくる。

(H24. 1.14 EOS40D撮影)

推古神社初宮参り

2012年03月02日 07時59分23秒 | 大和郡山市へ
『お宮参りはひと月目~・・・♪』の唄をついつい口ずさむ。

生後一か月の誕生を祝い成長を願う行事は我が家でもしていた。

長男が誕生した27年前は春日大社にお参りした。

次男のときは地元の氏神さんになる柳澤神社だった。

先代宮司に抱えられたことを覚えている。

二人とも和服姿のおふくろに抱かれてお参りをしたものだ。

そのときに付けていたのがヒモセン。

漢字で書けば紐銭だ。

ヒモセンの中にはお金が入っている。

初めて体験するかーさんは「なんでこんなものをぶら下げるのか。たくさんあって恥ずかしい」と、当時は思ったようだ。

子供たちのそんな姿を撮ったことは覚えているがネガフィルムが未だに行方不明。

どこへ行ってしまったのだろうか。

そんなことを思い出すお宮参りが額田部町の推古神社で行われた。

とは言っても我が家ではなく、地区に住んでおられるY家である。

推古神社の年中行事を担っている四人当家に聞いて訪れたのである。

参拝者を待つ当家たち。

昨年の一年間は四組のお宮参りがあったという。

随時行われるお宮参りも年中行事にあたる。

稗田町の賣太神社の宮司さんを迎えて初宮参りの祭典を執り行われた。

ご家族の許可を得てヒモセン姿を撮らせていただいた。



額田部のお宮参りでは男の子が30日目で女の子は31日目に参るという。

お孫さんを抱く婦人は和服姿。

初々しいお孫さんを大事そうに抱えている。

赤ちゃんの額には口紅で書いた「小」の文字は消えている。

「大」と印すのは男の子。

女の子は「小」の文字だ。

和服婦人の後ろ側には水引で括ったヒモセンが取りつけられている。

赤ちゃんへのお小遣い、或いは子供の成長を願い親戚やご近所からお祝いされたヒモセンである。

ヒモセンは祝儀袋。

気持ちやからと言って紙幣でなく小銭を入れるのだというヒモセンは、子供がお金に不自由しないようにという願いの袋である。

婦人の背中には犬の人形もある。

犬は安産の印し。匂い袋や扇とともに付けられた。



お参りする際に近くに居た子供たちが寄ってきた。

そうすると家族は持っていた袋を差し上げた。

なんでも生まれた子供が仲間入りに加えてもらうために配るそうだ。



額田部だけの風習なのか判らないが近くに住むMさんも貰いにきた。

87歳であっても嬉しそうな顔は童(わらわ)の姿である。

「あんたこないに大きなって、いつの間に嫁はんもらはったん」と成年になった男の子と談笑する。

お宮参りをする風習は全国各地で見られるが一ヶ月目と決まっているわけでもない。

白土町に住むKさんは初めて子供ができたときにお宮参りが11日目だったことにとても驚いたと言う。

ヒモセンや赤ちゃんの額に書くのは大、小とも額田部町と同じであったがその日は隣近所に搗いたモチを2個ずつ配る風習があったという。

白土町は正月明けの4日に〆飾りをとんどで燃やすというから特殊なのではとKさんは話す。

(H24. 1.14 EOS40D撮影)