大宇陀の旧松山街道の大字は南から万六(まんろく)、拾生(ひろう)、出新(いでしん)、上新(かみしん)、中新、上町、上中、上本、上茶と呼ぶ上町通り。
その街道から西へ行けばもう一つの街道がある。
南から下出口、下中、下本、下茶、西山大字の下町通りだ。
かつては織田家四代が治めた宇陀松山藩の城下町として栄えた。
現在も江戸時代の面影を残す歴史的な街並みであり、伊勢本街道に通じる交通の要所、宿場町でもあった。
その町並みは重要性から平成18年に「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。
城下町として発展しただけに商人の町屋が建ち並ぶのだ。
薬屋、油屋、醤油屋、宇陀紙屋、造り酒屋、料理旅館に吉野葛本舗で名高い森野旧薬園や宮内庁御用達の老舗黒川本家など商家の町はうだつ(卯建)に虫籠(むしこ)窓や格子窓が目にはいる。
その数、200軒もあるそうだ。
時代を経て商売替えされた家も見られる町屋の商人たちはそれぞれの大字でセンギョをしていたという。
カンセンギョは寒施行と呼ばれる民間信仰の風習で、寒の入りになれば山に住む動物たちに施しをする主に稲荷講の行事である。
が、松山地区では講の存在はない。
商売の神様であるお稲荷さんを祀る商人たち。
何軒かが集まって町の周辺にあるお稲荷さんにセンギョをしているという。
商いをする家では屋内に社を祀る処は少なくないと中新大字のT婦人は話す。
その中新ではおにぎりにしたアズキゴハンにアブラアゲやお頭付きの魚(ジャコ魚)を供えに行っていたという。
大寒に入ってからだ。
2月の立春までに日を決めて参っていたというセンギョは6年ほど前に止めたそうだ。
今でもセンギョをしている大字があるとTさんから教えていただき上新大字にやってきた。
訪ねた家はU道具屋店。
婦人が話すには今日だという。
「あんたはラッキーな人やで、みんなに声かけたるわ」と笑って応える。
そろそろ参る人たちが集まってくるという。
中新、上新に辿りつく直前は出新に立ち寄っていた。
真新しい愛宕神社に提灯が取り付けられている。
祭典があるのだろうと清掃されていた老婦人にセンギョのことを尋ねた。
「カンセンギョならちょうろうじという寺やと思う。檀家さんと思われる人がしてはるようやけど、もう終わったんちゃうか」と答える。
ちょうろうじと聞こえたその寺は長隆寺(ちょうろうじ)であって道具屋店のまん前だったのだ。
急なことだが取材許可を得て商人たちが行っているセンギョに同行することになった。
上新大字で行われていた商人たちのセンギョは一旦廃れたそうだが、声を掛け合って復活しようと同志が集まった。
それは数年前のこと。
松山地区の民俗文化を継承する町内会(親睦会)の催しとして20年ほど前に再出発されたのだ。
これまでは暗くなるのを待って出発していた。
すべての個所にお供えするには2時間もかかる。
終える時間も考慮して今年は出発時間を1時間早められた。
センギョをするお供えは中新で聞いていたアブラゲオニギリ、三角形のアブラゲ、雑魚、お神酒と同じであった。
お供えをする個所は12個所もある。
お供えを持ってお参りをするのは男性たちだけだ。
町内会の婦人たちはお供えをするアブラゲオニギリを作る役目。
120個ものおにぎりを作られたのだ。
それは桶に入れて風呂敷に包む。
肩から担いでいく男性にアブラゲ、雑魚、お神酒など分担してセンギョをしにいく。
はじめに供えた個所は長隆寺の墓地外れの雑木下。
狐が出そうな処にお供えを置いてお神酒を注ぐ。
Uターンして向った先は同寺にある稲荷社。
そこでも同じようにお供えをしていく。
次に向ったのは同寺の北側に鎮座する神楽岡神社だ。
階段を登り鳥居を潜る。
そして境内の奥の壁際の地に置かれたお供え。
この頃は徐々に日が落ちていく。
この季節の夕暮れ時の時間は早い。
松山街道に下りてきて一列になった。
「センギョヤ センギョヤ オイナリサンノセンギョヤ」と掛け声を掛けながら地区を巡り歩く。
森野葛本舗・旧薬園の門を潜って葛作りの作業場を通り抜ける。
自生する葛根を掘り出して寒の水で何度も水洗いして沈下精製する沈殿槽である。
その作業は「吉野晒し」と呼んでいる。
旧薬園は森野家の裏山田にある。
急な坂道を登りつめた処だ。
10代目の森野藤助が享保年間に自宅の裏山に開いた「小石川植物園」と並ぶ日本最古の薬草園は十年ぶりにひょんなことから採訪となったわけだ。
当時は家族で訪れた。
その際にお話をしてくださった婦人。
熱い葛湯をいただいた。
懐かしい景観は今も変わりないが既に陽は落ちて真っ暗である。
その暗闇に浮かび上がる碑の前に供えられたセンギョの施し。
ここからは山道に入る。
急な道を下ったり登ったりする。
先日に降った雨が山道歩きを阻む。
ズック靴では何度も滑りそうになる。
懐中電灯やヘッドライトで足元を照らす光りがなければ道を踏み外す。
親と一緒について来た子供は難なく歩いていく。
我が家の山道は歩き慣れているのだろう。
後方をついていく私の足元を照らしてくれる。
真っ暗な山道を歩くとは予想もしていなかったことに感謝申しあげる次第だ。
そうして着いたのが長山(ながやま)の頂上にある稲荷社だ。
朱塗りの鳥居の向こうに社がある。
お供えをする間にひと休憩するがほんの束の間。
再び山道を歩いていく。
ここからは下りである。
ヌルヌルの山道は滑るばかりだ。
町内会の人たちは長靴を履いているので山道もなんのそら、である。
始めて体験する森野親子は実に逞しい。
山を降りてくれば国道166号線笹峠辺りにでる。
ここからは西に向かって国道を歩く。
「センギョヤ センギョヤ オイナリサンノセンギョヤ」の掛け声は往来する車に消えていく。
再び松山街道に出て出新大字・万六大字からは東の方角にある山に向かう。
石の階段を登りつめた処に稲荷社(佐多神社朝日大神であろう)があった。
既に供えられている三つのお供えが目に入った。
「万六大字か出新大字の人らで、昨日か今日に参ったんとちゃうか」と言う。
それらのお供えに並べて上新大字のセンギョを供えた。
その傍らにある小さな祠にもセンギョをされた。
そこにも先着のお供えがある。
雨にうたれたのであろうか半紙は崩れている。
前日の雨降りでそうなったとすればお供えは雨降りの前だ。
その地は地車大明神の名が刻まれている石にも供えられていたが上新大字は供えない。
社から降りて三度目の街道に戻る。
それを越えて新道を跨ぎる。
大宇陀の道の駅の南側を抜けて西の大願寺裏に向かう。
そこでは何らかの社と傍らにあるお堂の前にも供える。
これで9か所をセンギョしてきたのだ。
「あとはもう少しだ」と言って再び国道166号線に下る。
そこから数百mほど北に向かって歩けば民家の上の山となる。
またもや山道だが距離はそれほどでもない。
登った処にあるのは稲荷大明神。
かつては武家屋敷があったという。
再び国道166号線を跨って万葉公園外れにある社地に向かった。
阿紀神社が一時遷座される旧社地だという。
ここには「パワースポット 高天原」を表示する看板があがっている。
現実に戻ったかのように思える看板に興ざめする現代的な標識は古来の社地を標べする。
そのことと関係はなく上新大字のセンギョは社地に厳かに供えられる。
下り路にあった小さな祠にもセンギョをされて一同は帰路についた。
このようにしてセンギョでお参りした社はすべて高台にある。
その数12か所。
松山地区を見守っているかのように地区外れで佇んでいる。
中新大字で聞いた箇所より多く倍以上もあったのだ。
万歩計が示した歩数は1万歩。
距離にすれば6kmぐらいだと思われるセンギョの道程だった。
こうしてセンギョを終えた一行は万葉公園内にある「あきの茶屋」にあがった。
この夜は慰労会。
会食の一つにきつねうどんが配膳される。
大きなイナリアゲにうどんが光る。
センギョは狐さんの施し。
町内会の人たちもセンギョにあやかって美味しいうどんで身体を温めた。
その松山地区には街道沿いに愛宕神社が数か所に亘って祀られている。
最初に見た出新大字では提灯を掲げていた。
慶恩寺の南側であるから下茶大字であろう。
そこも愛宕神社がある。
テーブルを置いてあったので祭典の準備をしていたと思われる。
南に戻って万六(拾生かも)大字にも愛宕神社がある。
ここでは祭典の様子が見られなかったが、上町通りの北南部に祀られた愛宕さんは防火の神さん。
下町通りにも数か所ある。
商家の町屋だけに火を怖れたうだつ(卯建)があるのも頷けるのである松山地区。
重要伝統的建造物群保存地区に選定された城下町を守ってきた。
大和郡山市伊豆七条町に住むY婦人の話によると、先代のおばあさんは大寒入りになればダイコ・サトイモ・アブラゲを入れた煮しめを炊いていた。
アブラゲを細かく切って入れたゴハンを三角オニギリ、三角のアブラゲを神棚や外のお稲荷さんに供えた。
初午のときはコーヤ・カンピョウ・三つ葉・細かくしたカマボコ入れた巻き寿司を作りおかずもこしらえて稲荷さんに供えた。
5本の白い旗を立てていたが亡くなってから止めたと話す。
こうした民間信仰をも寒施行の一例にあげられるであろう。
(H24. 1.22 EOS40D撮影)