マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

下笠間のおんぼさん

2013年04月20日 08時36分43秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
甘くて美味しいカキモチをよばれた室生下笠間のⅠ家。

11日は耕作初めの日だそうだ。

出里の隣村である山添村の毛原でもそう呼ぶ。

下笠間ではする家は見当たらないが毛原で行われていた「なるかならんか」。

家のカキの木にアズキのおかいさんを供えた。

父親が「なるかならんかよ」と云うので出かけた。

カキの木にナタをあてるような格好で「なるかあー ならんかー」と声を掛けた。

それに対して婦人が「なります なります」と応える。

「大きな声で言えよ」と父親に云われてしていた「なるかならんか」は小学校にいく前の幼少の頃。

ずいぶんと前のことである。

カキの切り口にはアズキガユを供えていたと云う。

そんな記憶話をしてくれたⅠ家の前庭にあった砂盛りの痕跡。

中央には穴が開いている。

そこに立てたのは葉付きのカシの木。

男の人数分の砂盛りは「おんぼさん」と呼ぶ。

大晦日に立てる家の門松だそうだ。

各家庭によってはクリ、ホウソ、フクラキが用いられると云う。

(H25. 1.11 SB932SH撮影)

下笠間のカキモチ

2013年04月19日 08時34分52秒 | 大和の郷土料理
寒の入りになってからカンノモチを搗くという室生下笠間のⅠ婦人。

この日訪れたのは美味しくいただいたイノコのクルミモチのお礼である。

寒中に搗くカンノモチは2升。

コジュウタに伸ばして柔らかいうちに押し切りで切る。

薄く2枚に切っては座敷に広げる。

切るたびに広げる繰り返し。

大量にこしらえたモチは屋内で干す。

そのうちにそり返ってくるので裏返しする。

それを繰り返す数カ月。

5月まで作業が続くと云う。

できあがったモチはカキモチ。

米蔵で貯蔵する。

食べたくなった都度に蔵から出したカキモチは天ぷらを揚げるようにして作る。

揚げるフライパンは2枚。

たっぷりの油を投入したフライパン。

一つはトロトロ火。

ホタル火のような火で揚げる。

もう一つはそれより高温の天ぷら揚げ。

カキモチは高い温度で揚げれば焦げてしまう。

しかも膨らまない。

じっくりことことではないが「始めは弱火で揚げないとあかん」と云う。

一旦はトロ火で揚げて取り出すカキモチ。

少し強めの火にしたフライパンに移す。

二度揚げである。

そうすればぱぁーっと大きくなってカリっと揚がる。

こうしてできあがったカキモチは数種類。

なかでも特に美味しかったのはムラサキイモのカキモチ。

他にもサトイモのカキモチも。

それらはモチ米を蒸すときに潰したイモを入れて混ぜる。

杵搗きでなくモチ搗きの器械で搗く。

親戚中に配るほど作るので必需品の器械だ。

甘くて美味しいカキモチに何度も手が伸びる。

砂糖を入れたような甘さと思えばそうではなかった。

味はイモ本来の甘さなのである。

(H25. 1.11 SB932SH撮影)

家の風習3

2013年04月18日 06時51分39秒 | 山添村へ
大晦日の夕方である。

前庭に門松を立てて松と注連縄を張る。

それからマメギの松明を持ってきて火を点ける。

予め小石を入れておいた松明にはジンがある。

それによってよく燃えると云う。

マメギは火を点けるとパチパチ弾ける。

その場で「フクマール コッコッイ」を3回唱えながら屋内に入る、「フク」を家に呼び込む作法である。

「フク」と共に家に入れば火ばちに火を移す。

火ばちはもうもうとして煙まみれになるそうだ。

そのときに使われたマメギを拝見した。

クワ初めをされた男性は数日後に「なるかならんか」をしているという。

「生る」は植物が実を結ぶことだと『石井庄司編 国語辞典』に記されている。

「成るか 成らんか」の表記があるのは『広辞苑』。

どちらも正しいのではと二人揃って納得した辞書の解説にあった「なるかならんか」。

「なるかならんか」と云って、家の畑にあるカキの木の幹にナタを切り口に入れる格好をする。

カキの木の皮を剥ぐ。

そうすれば口が空く。

そこにアズキガユを供える。

アズキガユは若水に浸かったモチを粥に入れる。

当日に行われる村垣内のとんどの灰を持って帰って肥やし代わりに田一枚一枚に撒く。

その行為は大人でも子どもでも構わなかった。

かつては1月9日にしていたと語る。

本来は小正月だったというから15日であるが日程が移り替ってとんどの日。

家の風習を今でも継承してきた男性の話を聞いていた14日の成人の日は大雪のために到達することができなかった。

(H25. 1.11 EOS40D撮影)

山添のクワ初め

2013年04月17日 06時43分38秒 | 山添村へ
山添村のとある大字住民は今でも正月初めにクワ初めの儀式をしている。

祖母は「打ちどめ」と云っていた「クワ初め」は農耕初めに行う作法である。

クワ初めは田打ちの儀式であって、田んぼにクワを入れる真似ごとをするウチゾメ(打ち初め)或いはクワハジメ(クワ初め)である。

名称はそれぞれであるが行為は同じであろう。

亡くなった祖母のあとを継いだ男性。

クワ初めは「今でも1月11日にしている」と云う。

田んぼに正月のモチと同様に半紙にウロジロを敷いて2枚のモチを重ねて葉付きのコウジミカン、ツルシガキ、髭があるトコロイモを供える。

その横にはもう一つのお供えもある。

同じように半紙に乗せた洗い米とアズキである。

それをおまして東に向かって拝む。

その場でミクワ(三鍬)打つという作法は荒起こしするような感じでクワを3回入れる。



親戚筋にあたる室生下笠間の婦人のⅠさんが話すには、出里の隣村である山添村の毛原で11日にしていたそうだ。

「今はどうやろか」と云っていた。

「田打ち」の儀式を拝見して思い出したのは宇陀市平尾の水分神社で行われるおんだ祭だ。

「鍬初之事」の台詞に「えんやっと打越して候えば・・・」がある。

また、奈良市都祁の小山戸の都祁山口神社の御田祭がある。

そこでは「春田のよそおい うつてのこづち しゃんしゃんしゃん」の台詞とともにクワで田を打つ所作をする。

奈良市都祁の吐山の下部神社で行われる御田子がある。

そこでは宮守さんが「伊勢の山の御田打つ男 しがらみのかさきて 植えようじょ 植えようじょ」と謡う。

山添村のとある大字で拝見したクワ初めは台詞や所作に登場する田打ちの儀式そのものである。

これらはあるべき農耕の姿を模した予祝の行事。

正月初めに行われる実際の農耕の風習を伝統的な民俗行事で垣間見ることができるのである。

知人の写真家K氏が云うには「出身地の富士吉田では1月11日に畑に行ってクワゾメをした」と話す。

全国的に行われていたのであろう。

(H25. 1.11 EOS40D撮影)

レスキュー煽ぐスクラム

2013年04月16日 08時35分42秒 | いどう
カンジョウ掛けを終えて神社に戻ろうと来た急な坂道を下る。

回転するには何度も何度もハンドルをきる。

前進、後進で行ったり来たりする都度にハンドルをきる。

何度目かのときのアクセルを踏んだときの違和感。

おかしいなと思いながらも下った先のある家の駐車場でUターン。

いざ出発しようと思ったときにエンジンが停まった。

どうしたのだろう。

警告のチェックランプも点灯した。

エンジントラブルかと思った。

平成22年8月に発生した遠隔地でのトラブル。

そのときはバッテリーが充電されなくなった事象であったダイナモ不良。

いつものSオートサービスに緊急の連絡をしたが、電波がとぎれて困った声が届かない。

焦りがますます高まる。

同乗していたKさんが緊急電話する。

近くに毎度お世話になっている車の修理屋さんがあるらしい。

数分後に戻ってきた。

修理屋さんは二人。

ほぼ20万キロも走っているスクラムを見て、うーん。

エンジンが停まってもおかしくないと云いながら点検する。

エンジンを掛けてアクセルを踏めば回転するが離せば停止。

どういう現象なのか、始めてみる症状だという。

内部を開けてエンジンをみる。

マイコン制御されていないスクラムを見て手ごわい相手だと思った表情。

応急処置だといって対応したのは無理やりのスロットルコントロール調整。

停止しないように回転数を上げたのだ。

一旦切ったエンジン。

再び稼働しても症状はでない。

応急処置が功を奏したのだ。

ひとまずほっとする。

その間にはかーさんからも電話があった。

何かあったのと云われてもとぎれとぎれの受診地域。

神社に戻った。

村人が話すにはそういう場所だという。

随分と心配をかけてしまった福貴畑の取材。

縄掛けを終えた人たちは鏡開きをしてきったカガミモチを入れたゼンザイの振る舞い。

ありがたくよばれる甘さに慌てふためいていた心を落ち着かせる。

村の温かさを感じた日になった福貴畑の出来事である。

数日後に届いた修理屋さんからの請求書。

調整はそれほどでもなかったからと出張費だけの3千円。

レスキュー代は気持ちだけの請求であった。

書類には早急に修理すべきと書いてあった。

おそるおそる帰還した我が家。

無事になんとか帰ってきた。

最寄りのSオートサービスに状況説明、明日には運んでおくと伝えたが、翌朝には同じ事象。

またもや緊急コール。

アクセルを踏み込んでエンジンを回転させて温めろ・・である。

しばらくすれば水温メーターが上昇する。

そろそろとアクセルを外した。

回っている。

Sオートサービスの工場で診てもらった結果は自動チョークの不良。

さきほどと同じように初起動時はアクセルを踏んで暖機運転。

パーツを手に入れるまではそうしておく数カ月はその後も経過する。

(H25. 1. 8 EOS40D撮影)

福貴畑の勧請縄掛け

2013年04月15日 07時50分03秒 | 平群町へ
正月8日は平群町福貴畑(ふきはた)の勧請縄掛け。

早朝に集まった男性たちが藁を結う。

杵築神社の座のトーヤ(当家)である。

福貴畑は80戸の集落で全員が氏子になる。

かつては決まった「講」家が座中であったが戦後に解体して全戸氏子制度の座中となった。

縄結いのトーヤは正月座を営んだ人たち5人。

秋にも座のマツリがあり、そのときも5人のトーヤが存在するが、正月座のトーヤとは別のトーヤに替る。

つまり福貴畑のトーヤは1年を2回に分けたトーヤ制度は一年を通じて合計10名からなるトーヤなのである。

80戸の集落からなる福貴畑のトーヤは8年に一度の廻り。

昔から決まっている順番だ云うトーヤは家の並びでもないそうだ。

万が一、不幸ごとがあった場合は替ってもらう。

5軒のトーヤが5束ずつ持ってきた藁束。

現在は稲作農家が少なくなったことから餅米を専門に作っている農家から提供を受けているそうだ。



勧請縄を結うのはモチワラ。

ヨコツチ(槌)で叩くワラ打ち作業でワラを柔らかくする。

塩水に浸けなくとも結い易いと話す。

太くする勧請縄は数人がかりで作る。

作業の場は杵築神社の座小屋と呼ばれる割拝殿。

前日に正月の座の営みをされた場である。

昭和44年5月8日に上棟式をされた拝殿には色彩が僅かに残る彫り物の絵馬を掲げている。

嘉永四年(1851)八月に奉納された絵馬である。

声を掛けられた宮総代も応援に駆けつけて縄結い作業。

一方、勧請縄に垂らすタグリと呼ぶホソナワも結っていく。

タグリの本数は12本。

閏の年であっても12本だ。

30年ほど前には松葉も縄に取り付けていたと話す。

割拝殿の壁には「奉修本尊護摩密供 悪霊退散 五穀豊穣 村中静謐祈攸 大和国平群郷 長楽寺」の木札があった。

真言宗豊山派の長楽寺は平群町役場前にある古寺。

なぜに杵築神社の拝殿に存在するのか判らない。

「どなたかが持ちこんだのではないだろうか」と話す。

縄結いが進行するにつれて長くなる。

かつては上から吊るして3人が身体全身で捩った。

そのときには伊勢音頭を唄っていた。

唄の調子に合わせて捩っていたと云う。

長くなった縄は拝殿の端から端まで。およそ12mの長さである。

神社から遠く離れたカンジョウの地の樹木に巻きつけるからそれぐらいの長さで丁度良いと云う。

一方、社務所でゼンザイを準備する婦人たちもいる。

トーヤの奥さん方である。



勧請の日は夫婦揃っての行事だ。

ゼンザイと夫婦で夫婦善哉を思い出したが・・・特に関係はなく心の中で呟いた私の独り言である。

正月に供えたカガミモチを割ってゼンザイに入れる。



鏡開きは槌で割ることなく機械の押し切り。

宮総代が力を込めて切り分ける。

昨日は7日。福貴畑では七草粥を作ったと話す。

七草はミズナやマナ、ナズナなどを入れた。

セリはまだまだだと云う。

菜っ葉を入れて炊くのはオカイサンと同じ。

家庭によって異なるが塩味、味噌味などさまざまなようである。



この年の縄結い作業は時間がかかった。

小休止や昼休憩を挟んで午後も続行する。

ようやく出来あがった勧請縄はぐるぐる巻いてトグロ巻き。



神社本社前に置いて一同が拝礼。



出発前にホラ貝を吹くとともに太鼓を打つ。

ドン、ドン、ドンドンドンだ。

向かう先はカンジョウの地。

十三峠に向かう旧道である。

分かれ道からほんの少し下った旧道は薮の谷。

そこがカンジョウの地である。

その地から下っていけば福貴畑の杵築神社に繋がる旧道。

さらに下れば小字宮前になると云う。

軽トラックで行っても7分ほどかかるカンジョウの地は見晴らしのいい高台にある。

縄を担いで峡谷とも思えるカンジョウの地に跨げるように掛ける。

一年前に掛けた勧請縄を外して新しく掛ける。

樹木に巻き付けて固定する。

もう一方の縄端は対面側の樹木に上げる。



そろりそろりと持ちあげて縄を張る。

崖のような場所は作業が手間取る。



タグリを奇麗に下げて終えた。

一同は神社に戻ってゼンザイの直会

大釜で炊いたゼンザイである。

かつては子供たちが大勢やってきて食べていたそうだ。

(H25. 1. 8 EOS40D撮影)

福住町別所永照寺下之坊の御誓

2013年04月14日 08時01分29秒 | 天理市へ
御誓(ごせ)の呼び名をもつ福住町別所永照寺下之坊の修正会。

この日集まったのはヤクと呼ばれる5人の寺(檀家)総代に参拝者も5人。

前年はもっと多くの村人が集まったと云う。

別所地区は23戸。

以前は30戸もあった集落である。

住職が唱える本尊十一面観音悔過法会の際に「ゴセ」と発せられる。

それと同時に内陣に座る寺総代が太鼓を打ち。

ホラ貝も同時に吹く。

知らず知らずのうちに日常に犯すさまざまな過ちを観音菩薩の御前において懺悔するのが悔過法会だ。

村の五穀豊穣も願う法会は御誓の呼称をもつ乱声によって打たれる太鼓やホラ貝の音がある。



それに合わせて参拝者たちも床に敷いた板を叩く。

これらの作法が乱声であって一般的にはランジョーと呼ばれるが別所ではダンジョーと云う。

板を叩く棒はフジツルの木。

お寺の周辺に生えている木である。

御誓は正月初めに行われる村の行事の修正会。

「牛王 普光山 宝印」の文字を墨書したお札はススダケに挟み込む。

かつてはススダケではなくネコヤナギの木であった。

芽吹きが良いとされるネコヤナギは豊作の願いであったが自然に植生していた川は護岸工事よって絶滅したそうだ。



朱印を押したごーさんのお札は悔過法会において祈祷される。

傍らに供えているのは花餅(けひょう)。

当番の人が5日に搗いたという御供である。

ごーさんのお札は「牛王 の宝印」。

お寺によっては「牛王」もあれば「牛玉」もある。

「本来は牛王(牛黄)であるが、書き記した際に筆が跳ねて点がつくことで‘玉’の文字になったと話す住職。

普段は斑鳩在所のお寺におられる。



法会を終えればありがたいご朱印を額(ひたい)に押してもらう。

村から悪病を退散させたありがたいご朱印を押してもらって無病息災、身体堅固である。

そうして供えた花餅は参拝者に分けられる。

かつてはゴクマキしていたモチである。

実はお供えがもう一つあった。

「ナラシモチ」とも呼ばれているモチバナだ。

搗いたモチが柔らかい間にシデの木にくっつける。

何個も何個もくっつけたシデの木は花が咲いたように見える。

お米がたくさんできるという願いでたくさんつけるのだ。

シデの木は年末に行われる「さる祭り」で注連縄を掛けたモリサンで採ってきたそうだ。

「ナラシモチ」は実成りの「ナリバナ」のことであろう。



参拝者の人数分に枝を折って分ける。

祈祷されたごーさんは5月の苗代のときに祭って豊作を祈る。

また、ごーさんを味噌蔵に置いておけば味噌が美味くなると云う。

5年前までは寺行事は「座」が行っていたという。

「座」は解散されたが鎮守社であったハクサンサン(白山神社)のお供えは今でもしていると云う。

観音さんの守り神だと云われる白山神社は氷室神社に合祀されたが年に一度の9月にセキハン御供をする。

供えたセキハンは重箱に入れて村内を廻すと云う。

(H25. 1. 7 EOS40D撮影)

三重県鵜山ナリバナの風習

2013年04月13日 08時03分01秒 | もっと遠くへ(三重編)
奈良県山添村の鵜山からそれほど遠くない三重県の鵜山にある福龍寺。

今年は13日の朝8時ころから集落の婦人たちが木にモチをつけた「ナリバナ」を持ってくると聞いてやってきた。

18戸すべてがそうであるのか判らないがお寺の本堂に供えたナリバナは壮観だと婦人は云う。

14時ころに営まれる法要を終えれば我が家が持ってきたナリバナでなく他の人が供えたナリバナを持ち帰って焼いて食べる。

そうすれば安産或いは子供ができると伝わる。

山添村広瀬の住民婦人の出里が三重県の鵜山だ。

そのモチを焼いて食べたらあっという間に身ごもったと話す。

そんな話を聞いて立ち寄ったのである。

お寺を拝見していたときだ。

ウォーキングをされていた村の婦人にその話をしてみた。

「すっごいナリバナがあるんよ」のひと言。

まさにそのとおりだと云うⅠさんは山添村の岩屋が出里。

話題が出里になって盛り上がった。

安産に良いとされる観音さんのナリバナは今でも続けていると云う。

ナリバナの風習は福龍寺で行われるオコナイである。

かつては1月13日の初祈祷であったが、何年か前に成人の日の前日に行われるようになったようだ。

そんな話を聞いた寺横にある公民館。

ススンボの竹を集めたように思えたが・・・。

(H25. 1. 7 SB932SH撮影)

鵜山の山の神

2013年04月12日 08時07分27秒 | 山添村へ
広瀬で立ち話してくださったT婦人。

出里は三重県の鵜山だそうだ。

そこでは朝から集落の婦人たちが木にモチをつけた「ナリバナ」を持ってくるという。

その鵜山は奈良県にもある。

広瀬と同じように山の神があると知って訪れた山添村の鵜山。

鵜山と広瀬は名張川を挟んだ東西の地。

川に沿って向かえば鵜山があると聞いて訪れた八柱神社。

本殿外側の木に掛けてあったカギヒキ。

クラタテもある。

神社前に住むO婦人に山の神のことを尋ねた。

カギヒキはカシの木。北の方角を向いて「ひがしのくに・・・」と唱える。

「暗いうちやった」と云うから朝7時ぐらいの様相だ。

カギヒキの下のクラタテは五つ。

半紙を広げて四方に竹を立てる。

それがクラタテ。

キリモチのようなものが残っていた。



『やまぞえ双書』によれば山の神はカシの木の下にある石の御神体。

藁で作ったホウゼンを供える。家の男の人数分の「恵比寿・大黒」の小石を中に入れるとある。

ホウゼンはカシの木に括りつける。

かつては夜が明けないうちにと云って誰よりも早くお参りをしたようだ。

「さあさあ よろずの宝がオレの方へエンヤラサ エンヤラサー」と唱和するカギヒキ唄も掲載されていた山の神のクラタテはおよそ20個。

この年に拝見したクラタテは5個であった。

村の戸数は18戸であるがお参りをする人が少なくなったと話すO婦人。

婦人が話した鵜山の行事にオコナイとフクマルがある。

1月9日は神社境内社の真福寺でオコナイがあるという。

村の長老らがお寺で般若心経を唱える。

その最中に太鼓を打つ。

ハゼの木で寺の縁側を叩きつける。

ハゼの木は竹に替ったようだがランジョーの作法に違いないが、同時に婦人たちが寺の座敷を掃除するという。

面白い作法に興味を持ったオコナイは悪魔祓いと云うようだ。

その日は勧請縄も作る。

縄に松やフクラソを取り付ける。

房のことであろう。

勧請縄を椿の木に掛けると云う。

もう一つのフクマルは大晦日の行事。

生竹を燃やしてポンポンと爆ぜたら「フクマルコッコー」と唱和する。

昨年は18時にしたがいつもなら20時ぐらいだったそうだ。

(H25. 1. 7 EOS40D撮影)

広瀬の山の神

2013年04月11日 06時55分37秒 | 山添村へ
陽が昇らないうちに山の神参りをしていると聞いていた山添村の広瀬。

大体の山の神の場は聞いていたが判らず立ち話をしていたT婦人に尋ねた。

山の神さんは女性が行くことができない地。

場所はそこら辺りだと云う。

旦那さんはカギの木と藁で作ったフクダワラを持って朝の5時に参ったそうだ。

山の神参りを終えた男性たちは数時間後に公民館で寄りあう。

氏神さんの熊野神社の行事でごーさんの額押しがあると云うのはオコナイではないだろうか。

西方寺の裏手に鎮座する熊野神社。

宮ネンニョと呼ばれる一年神主が作法するようだ。

それはともかく山の神の場には数多くのカギヒキがあった。

話によればカシ、クリ、モチバネなどの木だそうだ。

山の神に出かける時間帯はまちまち。

0時を過ぎた頃に出かける人もいるが多くは5時、6時だそうだ。



フクダワラには1個の小石を入れてある。

おそらく男の人数分を奉ったカギヒキであろうが、山の神と思われる崖に立て掛けている。

その場には半紙で包んでいた洗い米も残っていた。

カギヒキの数量は圧倒されるほどの数である。

村の戸数はかつて35戸だった。

村を出ていく家もあって30戸になったそうだ。

お参りに来た人が暖をとっていたと思われるとんど焼きの跡があった。

(H25. 1. 7 EOS40D撮影)