マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

節句のヨモギダンゴ・シロダンゴ

2013年07月11日 06時54分54秒 | 大和の郷土料理
3月節句にはヨモギ(ヨゴミとも)ダンゴを作っていると話していた矢田中村のⅠさん。

大昔は石臼で挽いていた米粉。

今は餅屋で米を挽いてもらう。

米粉はダンゴに搗いて、包丁で切ったヒシ型。

サクラモチと共に供えた節句のごちそうだ。

今年の1月23日に搗いた寒のモチは7臼。

4臼はネコにしてカキモチにする。

残りをエビ・アオノリ・ドヤモチにする。

年末に拝見した正月のモチと同じである。

この日にいただいたヨモギダンゴとシロダンゴはオーブントーストかレンジで温める。

ヨモギダンゴはほんのりヨモギの香り。

シロダンゴは砂糖醤油で食べると話していた。

Ⅰさんの話しによれば「センギョ」やいうておばあさんがいたころはセンギョをしていた。

1月6日の寒の入りにアブラゲメシを作って竹の皮に包んで施していた。

家の裏山にいた狐は夜に食べるから夕方に供えた。

コンコンと鳴いていたと話す。

県内各地であった狐の施行(セギョウ、或いは訛ってセンギョ)は家の風習でもあった。

(H25. 3.26 SB932SH撮影)

三昧田のちゃんちゃん祭座つくり

2013年07月10日 06時55分07秒 | 天理市へ
午後に参集した三昧田の人たち。

この年は西垣内が担う宮座の座つくり。

大和神社のちゃんちゃん祭におけるお旅所の大字の座で飾られるカザグルマ(風車)作りである。

明治15年に東三昧田と西三昧田が合併した旧村の天理市三昧田(さんまいでん)町は四つの垣内がある。

西、東、南、北垣内である。

それぞれ9戸、18戸、18戸、25戸からなる集落である。

ちゃんちゃん祭を担う垣内は毎年交替する西、東、南、北垣内の回りである。

その年のアタリになった垣内の中から頭屋家が選ばれる。

三昧田の頭屋は2軒。兄頭屋と弟頭屋である。

昨年のちゃんちゃん祭を終えた翌日2日に頭屋受けされた両頭屋。

西垣内は9戸であるゆえ頭屋を担うのは8年ごとになる計算だ。

他の垣内はそれ以上の戸数。頭屋の回りは16年から25年もかかる。

奈良県図書情報館が所蔵する奈良県庁文書がある。

昭和4年に調査された『大和国神宮宮座調査』に記された大和神社の郷中社家はそれぞれの家筋であった。

いわゆる宮座である。

明治維新の頃に改正された三昧田の宮座は23人であった。

明治17年頃に村座に改正された三昧田はすべての垣内住民を対象にした。

戸数がそれぞれ異なる垣内では頭屋家の回りの年数が大きく異なるのである。

三昧田の座つくりは両頭屋だけでなく垣内の人たちも駆けつけて祭具を作る。

作業の場は鎮守社である春日神社の社務所と境内だ。

境内で作業をするのは男性。

門神さんの垣根を作る。

ナタで青竹を割いて一本、一本を削る。

長さは25cmほどである。

先は挿し易いように尖らしておく。

長い青竹は2本。紐で縛って宮入りで授かった御幣を付ける。

それには半紙で包んだセンマイ(洗米)を入れる。

洗えばカビが生えるからと八合の白米にされた。

センマイは「一升」の名をもつが量は八合であると話す。

かつては一升のセンマイであったと思われる御供である。

竹の細工は頭人児が座る座に飾るカザグルマの心棒もある。

1/4辺りからは細くするのである。

大きなカザグルマを取り付ける先端部だ。

頭屋家に飾る注連縄掛けの竹は葉付き。

葉は1/3ぐらいを残して下は伐る。



一方、社務所ではカザグルマを作る婦人たち。

小さいカザグルマは直径18cm。

大きなカザグルマは40cmにもなる。

この作業は長時間を要する。

この場だけでなく予め作っておいた大きなカザグルマはベースの金紙、銀紙。画用紙に張る。

表面は八枚切りの色画用紙。

両方とも糊で貼ってアイロンで伸ばす。

シワシワにならないように注意して作業をしたのは一週間も前からだと話す頭屋の奥さん。

色紙はピンク、赤、水色、青色の4色。

中心部に張った風車止めはコンパスで記して切ったそうだ。

それは両面テープで貼り付けた。

カザグルマの羽根の枚数は6枚。

平成13年、平成24年のお旅所で拝見したカザウルマは4枚羽根であった。

平成20年に頭屋を勤められた東垣内のN氏からいただいたカザグルマも4枚羽根だった。

作業の様子を見に来られたN氏もカザグルマの出来栄えに感服される。

何故に6枚羽根であるのか、今年の弟頭屋のD氏に尋ねた。

作ろうと思えば8枚型でも可能だと云う。

ただ、羽根のすき間から手を入れなければならないから6枚が妥当だと話す。

今年は頭屋であるが西垣内が担うときにはいつもカザグルマを作っている。

手間がかかる作業であるがいつもそうしていると云うD氏。

かつて「6枚の羽根は作られんやろか」と氏子に問われたことがあったそうだ。

発奮された氏は6枚羽根作りに挑戦した。

16年か20年前のことのようだ。

それから6枚羽根になったが他の垣内ではそうしていない。

特に決まりはないと云うカザグルマは「子供のおもちゃ」と話していたのはN氏だ。

葉付きの竹ができあがれば頭屋家の注連飾り。

門屋に梯子を掛けて倒れないように設えた笹竹に注連縄を張る。その後も作業は並行して進められる。

大きなカザグルマは6枚羽根であるが小さいカザグルマは4枚羽根。

ピンク、赤、水色、青色、黄色に緑もある。

羽根を曲げて糊付けする。

先端を直角に曲げた竹に挿す。

大きなカザグルマに挿す心棒も直角に曲げる。

この作業が以外と時間がかかる。

火ばちへ曲げる部分を翳して折れない程度に徐々に火炙り。

炙りが足らなければすぐに戻る。

固定するには時間がかかるのである。



さらに時間を要するのがカザグルマの心棒の花飾り。

色紙は前もって短冊に切っておいた。

それを上から順に下へと巻きつけていく。

ノリシロ部分は糊で貼り付けるのだが時間がかかる。

小さな片に切った両面テープで貼っていく。

これもまた時間がかかる手作業。

かつて頭人児を勤めた息子さんも手伝っている。

真剣な眼差しは手を緩めることなく父親の手伝い。

頼もしくなったものだと喜ぶ。

一本のカザグルマの心棒に巻きつけた花飾りは8枚。

毎数も色柄も決まりがないと云う短冊部を広げて花弁のように調える。

その作業を見守る垣内の人。

細かい作業は専門職人に任せているという。

カザグルマは風車を付けて完成する。

風車を挿す前には止めの黒色ウレタンを挿す。

そして風車だ。

手を内部に入れて崩れないように両端を通す。

風車が外れないように最後はクロマメ(黒豆)だ。

一合のクロマメは予め水に浸けておいて柔らかくした。

昨夜の晩からこの日の朝まで浸けておいた。

クロマメもカザグルマに挿すからドリルで穴を開ける。



ようやく出来あがった大きいカザグルマは台に挿す。

台はオオダイコン。

安定できるように作った大きなオオダイコンは農業を営む友人から貰ったそうだ。

底を半切りにしたオオダイコンにぐぐっと挿して出来あがる。

これを4本。

頭人児を飾るカザグルマは両脇に2本並べる。

18本も作った小さなカザグルマもクロマメを挿してできあがる。

ほっとする瞬間だ。

手伝ってもらった人たちにお礼を述べる兄頭屋のS氏。



両頭屋は再び家に戻って門神さんの飾りつけ。

クヌギの割木土台の上に置いたシバ(芝)に先ほど作った竹の垣根を挿し込む。

それほど尖がりがなかったものだったからトンカチで埋め込む。



御幣を取り付けた竹を挿してできあがる。

兵庫で見られたヤカタは存在しない。

御幣が分霊なのであろう。

宮入りで授かった4枚の紙垂れを注連縄に挟みこんで頭屋家を祀った。

三昧田の座つくりはこうして終えて再び社務所に集まる。



座敷に立てた三昧田の旗竿と御幣。

その前に座るのは二人の頭人児。

前日の23日に大和神社での宮入り儀式を受けた頭人児は白装束姿である。

三昧田ではこの日を神酒の口開けという。

大きなカザグルマに挟まれて手を振る幼児たちは喜びを笑顔で応える。

頭人児の席には大きな鯛がある。

豆腐のすまし汁にパック詰め料理が配膳された席に座中も座る祝いの場である。

兄頭屋の挨拶で始まった座つくりの慰労の場でもあるようだ。

(H25. 3.24 EOS40D撮影)

PriceCutのやわらか煮穴子まぶしちらし

2013年07月09日 08時50分30秒 | あれこれテイクアウト
奈良市東部山間で取材を終えて目指すは天理。

道中で昼食時間になった。

注文して待っている時間はない。

街道にあったスーパーはプライスカットの天理北店。

オークワ系列のお店である。

商品はほぼ同じだがプライスカットはオークワよりも安価。

自宅からほど近い大和小泉店や西の京店も度々訪れる買いもの店だが西の京店が現金扱い。

本日訪れた天理北店は大和小泉店と同様にクレジットカード支払いができる。

これがありがたい。

お寿司が美味しいのは大和小泉店だ。

似たような弁当類もあるがお店によって多少異なる。

この日に選んだのはやわらか煮穴子まぶしちらしだ。

袋は要りませんと伝えれば2円引きされてさらにお得になる。

甘タレがたっぷりかかっている。

ぷーんと漂うタレは穴子の香り。

浸けたイクラはたっぷり盛り。

一口食べきりを箸で摘まんで口に放り込む。

思わず美味いと発したまぶしちらし。

食べたご飯の中から溢れる穴子煮の出し汁。

じゅわーである。

キンシタマゴや切り刻んだシソの葉もちらし。

とにかく濃いめの味にうっとりする。

シソの葉の香りが程良い。

穴子風味の相乗効果。

穴子の切り身は3切れであるがご飯に満足する。

味も良し、盛りも良しのやわらか煮穴子まぶしちらしは他店のプライスカットでも売っているのだろうか。

(H25. 3.24 SB932SH撮影)

誓多林萬福寺彼岸講のオコナイ

2013年07月08日 07時40分13秒 | 奈良市(東部)へ
早朝に集まった上と中誓多林の彼岸講の男性たち。

中誓多林にある萬福寺裏山の雑木林を伐採していた。

ギューンと唸るチェーンソーの音が遠くまで響かせる誓多林の里山。

毎年は彼岸近い中旬日曜に行われる萬福寺のオコナイであるが村の都合で一週間遅い日になった。

平成22年に落慶法要された萬福寺にはオコナイで作法されるウルシ棒を並べている。

先は斜めに切断され三つ又に割いている。

その形容はまるで牛の爪のように見える。

伐採作業は2時間かかった。

綺麗にさっぱりした面持ちはどことなく達成感があるようだ。

本堂の壁には大きな掛け図がある。

同年に新装された絹本の涅槃図である。

オコナイが行われるこの日に掲げられた涅槃図は異様に感じるが、これには理由がある。

オコナイと涅槃の日は別々の日に行われていた。

住民の減少などにより行事を行うことが困難になってきた。

そこで一日に纏めてすることにしたと話す。

彼岸の日に掲げていたのは涅槃の掛け図。

彼岸講の行事である。

オコナイは村の行事の初祈祷。

村の五穀豊穣や村中安全を祈る村行事が合わさって行われるようになったのであろう。

隣村の大野町にある十輪寺の住職がやってきた。

翌月の4月13日には本堂建て替えの落慶法要が営まれる予定だそうだ。

早速取りかかった住職の作業はウルシの棒に挟む祈祷札作り。

一枚、一枚、「牛王 萬福寺 宝印」と墨書する。書き上げられ都度、当番の人が朱印を押していく。

出来上がるたびに四角折りしてウルシ棒に挟む講中たち。

ウルシに負けるからと、一切触れない人も居る。

作った祈祷札は18枚。

上、中誓多林の家の数に十輪寺の分も加えた枚数である。

奈良市誓多林町は旧柳生街道沿いに連なる村々。

白砂川上流から上誓多林、中誓多林、下誓多林地区が東西に点在している。

行政割りで誓多林町に組み込まれた下誓多林地区は、その時代だけでなく昔から大平尾(おびらお)の括りであったと話す住職。

その大平尾は、忍辱山、大慈仙、大柳生括りの添上郡大柳生村であった。

誓多林は茗荷、此瀬、杣ノ川、長谷村、日笠村、中之庄、横田、大野、矢田原、和田村、南田原、須山、沓掛、中貫括りの添上郡田原村。

今では田原の里と呼ばれているこれらの地域では勧請縄は見られない。

ところが下誓多林では勧請縄掛けがある。

蛸の形をした房を下げる勧請縄は大柳生に見られる。

忍辱山にもあったが平成23年が最後になった。

地域は限定されるが田原の里にない勧請縄は大平尾に属する下誓多林であったことに納得するのである。

できあがった18本のウルシ棒は涅槃図の横に並べた。

平成23年では祭壇前であったがどうやら変化したようだ。



堂内に座ったのは半数の男性たち。

若い者は外で待つ。

住職のお経が始まった直後のことだ。

大きな声で「ラーンジョー」が発せられた。



すると堂外に居た人たちはウルシ棒を手に持って縁を叩き出した。

その数は十数回。

バタバタの音がなくなって、お経が再び堂内に流れる。

それから数分後のことだ。

再び、「ラーンジョー」が発せられた。

太鼓が打たれて縁をウルシ棒で叩く。

悪魔払いとされるランジョーはダンジョウとも呼ぶらしい。

叩き終わったウルシ棒は役目を終えて直ちにとんどで燃やされる。



その後はランジョーをされた人たちも本堂にあがって般若心経を唱えて真言で終える。

祈祷されたお札はウルシ棒ごと家に持ち帰る。



4月末から5月初めにかけての一粒万倍の日に田んぼに挿すそうだ。

土用の入り後の良い日に挿していたのはNさん。

煎ったハゼゴメを供えて花を飾っていた。

そこにはオンダの松苗も挿していた。

他にも数軒がしているらしい。

ちなみに平成25年4月以降の一粒万倍日は5月24日、6月9日、21日がある。

(H25. 3.24 EOS40D撮影)

須山町子供の涅槃講

2013年07月07日 09時21分03秒 | 奈良市(東部)へ
2年前に訪れたときは冷え込みが厳しい朝だった。

この年は穏やかな朝を迎えた奈良市須山町。

子供のねはんこう(涅槃講)は春休みに入った頃に行われている。

2年前に訪れたときの子供は6人だった。

年長の中学生たちは卒業して残った子供が3人。

4月には小学1年生、3年生になる子供たちは3人ともⅠ家の子供たちだ。

13軒の須山町集落を巡ってお菓子を貰ってくる。



1軒、1軒巡る子供のねはんこうは子供たちの楽しみの一つ。

元気よく集落を掛け巡る。

巡る順は一昨年と同じだった。

かつては子供も多くいた。

西出、東出に分かれて競争をしていたと話すのは経験者たちだ。

それぞれの垣内には当番のトーヤ(当家)が存在していた。

いつしか子供も少子化となって数年前に一体化した。

保護者がついていくが本来的には子供だけで回るねはんこうである。

今ではお菓子貰いになったが50年ほど前はキリコやカヤの実だった。

煎った豆もあったが落花生に替った。

美味しい食べ物は当時のおやつである。

寒の入りともなればカンノモチを搗いた。

サイノメに切ったモチは乾かして座敷に広げた。

カンノモチを藁紐で編んでぶら下げた。

それがキリコと呼ぶおやつである。

そんな話をしてくれたのはⅠ氏のご両親。

懐かしそうに笑顔で話す。

お菓子貰いを終えれば円福寺があったとされる高台地へ向かう。

そこへ行くまでにトーヤから受け取ったご飯。

お皿に盛ったご飯を抱えて出かける。

高台地には地蔵さんと呼んでいる石仏群がある。

如意輪観音や行者石仏などだ。



授かったご飯を箸で摘まんで刷り付けるように塗る。

塗るというよりも置いているような感じだ。

子供が大勢いた時期は西出、東出のどちらが早く着いてご飯を塗り始めていた。

「負けたらあかんねん」と競い合ったのは随分と前のようだ。

「負ければ椀を洗わなければならない」と聞いたのは2年前の話者だ。

そのときにしていた子供たちは如意輪観音像や行者像の石仏に塗りたくっていた。



付き添ったⅠ氏は40歳。

「ご飯を塗るのは如意輪観音だけだ」と話す。

どうやら年代が経つにつれて作法が替っていったようである。

この日は先輩である父親の指図で如意輪観音像の石仏に塗りたくった。

Ⅰ氏が付け加えて話したご飯塗り。

昭和15年生まれのM氏の話によれば、当時は箸でなく手で直に塗っていたと話す。

60年も前のことだ。

先を越されたときには塗っていた子供に「どけ」と云って塗っていたそうだ。



こうしてご飯を塗り終えれば箸を折って如意輪観音像の石仏の肩に置く。

60年前のM氏の時代は手。

30年ほど前のⅠ氏の時代は箸である。

作法は手から箸に移り替っていたことが判明したのである。

手の時代には箸を折ることはなかったのである。

大きな変化が認められたが須山町の子供のねはんこうは今年も無事に終えた。

(H25. 3.24 EOS40D撮影)

萱森春彼岸の六斎念仏

2013年07月06日 08時47分42秒 | 桜井市へ
2月の御田植祭や3月の朔座の御神入りで聞いていた萱森の六斎念仏。

春、秋とも彼岸の明けの結願(けちがん)の日に行われている。

陽がとっぷりと暮れた数時間後に集まってくる六斎衆は予備の人も入れて8人(以前は9人)で組織していると云う。

六斎念仏の営みは六人。

一人は高龗(おかみ)神社の太夫になったことから脱退された。

一人欠けたらその都度補充する。

予備から急遽あがった一人が加わって維持する六人の講中は今も昔も変わらない。

それゆえ念仏講中を六斎衆と呼ぶ。

この日は導師の都合で始まる時間はいつもより1時間も遅い。

集まる場は桜井市萱森の会所。

本尊脇に置かれてあった「奉 再建立薬師堂 世話人」の名が並ぶ板書が示す年代は「文政五年(1822)七月二日 集福寺」であった。

萱森にかつてあったとされる集福寺・薬師堂のご本尊は木造一刀彫の薬師如来座像と伝えられている。

脇侍に立つ日光菩薩、月光菩薩がご本尊を護侍している。

集福寺はかつて真言宗であったが、改宗されて都祁白石の興善寺の傘下になった。

その当時に六斎念仏講を結成したようだ。

本尊前に掲げた十一尊天得如来来迎図の掛軸。

十仏とともに降りてくる来迎図である。

その掛軸の裏面に「和式上郡萱森邑六斎念佛中 開眼 白石□ 興善寺圓阿上人 奉修表具十一尊佛 時ニテ 文政三辰(1820)捻 十月十五日」と墨書されていた。

集福寺・薬師堂が再建される二年前である。

時すでに融通念仏宗に改宗されていた萱森村であった証しである。

十一尊仏の表具は昭和35年3月春分の日に村の人が改装寄進されて奇麗になった。

また、大師像の掛軸もある。

それには「和式上郡萱森村六斎念佛中 奉修建立開山聖應大師 文政三辰(1820)午十月十五日 開眼 白石興善寺廿七世 悟碩上人代」とある。

同時に都祁白石興善寺の上人と上人代によって寄進された掛軸である。

聖應大師は良忍上人。

融通念仏宗の開祖である。

掛軸はもう一幅ある。

その座像は再興された法明上人像だそうだ。

亡くなった村人の名を書かれた「三界萬霊有縁無縁縁乃至法界平等利益」も掲げて始まった六斎念仏には必携の念仏本がある。

平成5年4月に発刊された「萱森風土記」はF氏が纏めた地域史。

その人が書き残した六斎念仏の経本である。

氏が生前に吹きこんだカセットテープの念仏がある。

それに合わせて念仏を唱える六斎衆はそれぞれの家で預かっている鉦を持ってきた。

萱森の鉦は6丁。

六斎衆の人数分の枚数である。

脱会されて新加入した講中に引き継ぐ鉦は代々の家で継ぐわけでなく講中から講中に引き継がれてきたのである。



そのうちの一丁には記銘の刻印があった。

「和式上郡萱森村 長福寺 西村左近宗春作」とある。

「長福寺」は「集福寺」の誤刻であろうか。

現在はK氏が所有している。

六斎念仏はカセットテープと経本に合わせて唱える。

曲目はしへん(四辺)とばんどの2曲。

導師の念仏、ヒラ(平)が唱える衆生に分かれている。

しへんは壱番、弐番で、らんがい、はむあみ、なむつ、だいだい、はむつ、はい、たか、ひとことわりで終える。



ばんどは壱番、弐番、参番。

願似此(がんにし) 功徳(くどく) 平等施(びょうどうせ) 一切同(いっさいどう) 発菩提心(ほつぼだしんん) 応生(おうじょう) 安楽国(あんらくこく)を唱えて終える際には鉦を連打する。

およそ18分間に亘って唱えた念仏は経本があっても難しいと話す。

彼岸の念仏に唱える誓願文は「願くわ此の功徳を以って普く一切に及ぼし 村中家内安全 五穀豊穣の為に」。

薬師如来に捧げる念仏であるがこの年はされなかった。

こうして終えた春の彼岸の六斎念仏は「カンカラカン」とも呼んでいる。

会所にはもう一つの鉦がある。

それには「大和国式上郡萱森村 集福寺寶物 京大師 西村左近宗春作」とあった。

K氏が所有する鉦の作者と同じ西村左近宗春である鉦はかつて雨乞いの際に打っていたと伝わる。

西村左近宗春作の鉦は他所で拝見したことがある。

桜井市北白木の虫の祈祷で打たれた鉦の記銘と同じ作者だ。

その鉦は元禄十七年(1704)の製作であった。

萱森が融通念仏宗になるよりも120年も前のことである。

同一人物と考えるならば・・・1700年代の寛永時代に活躍した京の仏具師。

京都の大仏殿(現在の東山七条)あたりに住んでいた鋳物師は江戸中期から後期にかけて活躍した名匠だそうだ。

北白木で鉦を叩いていたのは虫の祈祷。

その場は旧安楽寺である。

もしかとすれば、であるが、二つの鉦は安楽寺の鉦と同時期に製作されたのか、それとも都祁白石の興善寺から寄せられたのではと思ったのである。

萱森の六斎念仏は春、秋の彼岸明けだけでなく8月14日のお盆にも行っているという。

当日は夜ではなく早朝からである。

六斎衆が塔婆書きをする。

卒塔婆に先祖代々の総法界菩提を書く各戸の塔婆書きである。

彼岸と同様に掛軸を掲げて念仏をする。

塔婆回向も行う盂蘭盆は昼までに終えるそうだ。

回向を終えた後々に各戸に配布する。

受け取った家はそこでも回向する。

かつてのお盆は三人ずつに分かれた二組で村内の家を巡った。

ご先祖さんの霊前で念仏回向をしていたが、講員が揃わず戦時中に中断した。

戦後しばらくは復活していたが、戦前の体制までは至らずやむなく中止したそうだ。

(H25. 3.23 EOS40D撮影)

三谷のオンダサイ

2013年07月05日 07時57分56秒 | 桜井市へ
昨年の閏年の庚申調査の途中に立ち寄った桜井市の三谷。

今年もあるかも知れないと思って立ち寄ったのである。

3月初旬に行われていたと思われる菅原神社には昨年と同様にあったオンダサイの名残が拝殿回廊にあった。

オンダサイは御田祭の字を充てるようだ。

「牛王」と「菅原神社」の文字が書かれてあるお札には炎のような文様のご宝印もある。

お札を挿している木はヤナギ、それともウルシかフジであろうか。

田植え所作をされたと思われる松苗には丸めた半紙を藁紐で括っている。

中にはおそらく籾が入っているのだろう。

8本の矢もある。

竹はススンボであろう。

矢羽根の方には巻いた赤い紙も見られる。

幣を付けたサカキもある。

傍には隣村の小夫(おうぶ)の天神社行われる御田祭のハナカズラにどことなく似た形状のモノもある。

松苗、ハナカズラは御田祭。

お札はオコナイであろう。

いずれも正月行事で村の豊作を願う。



境内を見渡せば他にもあった。

竹で編んだ的である。

「鬼」の表示は雨に打たれて溶けたのであろうか。

射ったと思われる矢に弓もある。

弓はサクラかウメの木と思われた名残のマトウチ。

三つの正月行事の痕跡である。

この日も村の人影がなかった。

来年こそ訪ねてみたい三谷の行事である。

(H25. 3.23 EOS40D撮影)

兵庫の門神さん飾り

2013年07月04日 06時49分11秒 | 天理市へ
宮入りから還った兵庫の兄、弟頭屋は直ちにそれぞれの家の玄関口に門神さんを飾る作業を始める。

ヤカタ、芝の台、束ねたクヌギの割木に支柱を設けた台などは前頭屋から受け取った祭具だ。

予めに奉っておいたサカキは両側に立てる。

X字に組んだ自在の竹垣はヤカタ回り一組みずつを芝に挿し込んでいく。

お神酒、米、塩、御神水を入れる器を並べる。

玄関前には葉付きの笹竹を立てておいた。

そこに張る注連縄も前頭屋から引き継いだ祭具である。

宮入りで受け取った紙垂は4枚。

注連縄の撚りを戻して挿し込む。



弟頭屋の方も同じように設えた門神さん飾りを兵庫では「小社」と呼んでいた。

一連の飾りつけを拝見した両頭屋の門神さん。

ヤカタは扉も開けずにそのままである。

大和神社の分霊を遷したわけでもないのだ。

県内各地で見られる同様の形態はオカリヤ(お仮屋)、或いはオハケ(オハキとも)と呼ばれる場合が多い。

オカリヤには本社分霊を遷しましされてヤカタ納められる。

ところが兵庫ではその在り方が見られなかった。



4月1日のちゃんちゃん祭まで奉られる門神さんは朝にお神酒、洗い米、塩、御神水を入れ替える。

頭屋に祀られた神さんへのお供えである。

翌日からの毎日。

31日の宵宮参りまでの期間の毎日はお供えをして大和神社へ参る。

この参拝する時間は特に決まっていない。

祝詞奏上などの祭典もなく頭屋だけが参って記帳するのである。

設えた支柱台も気になった。

それと云うのも平成17年に拝見した両頭屋家では支柱がなかったのである。

その後において台が加えられたのであろうか。

(H25. 3.23 EOS40D撮影)

兵庫のちゃんちゃん祭宮入り

2013年07月03日 06時50分12秒 | 天理市へ
参道に入る一の鳥居の傍らに建つ「大和社常夜燈」に見られた年代は延享五辰年(1748)五月吉日。

大和社の郷中が寄進したようだがその郷中名の刻印は見られない。

天頂には珍しい鳩の造形がある。

その燈籠の横にも「大和社常夜燈」がある。

それには長柄村の4人の名があった。

両方とも長柄村の人たちが寄進したようだ。

この場にはもう一つの常夜燈もある。

それは延享五戊辰歳(1748)三月吉日であった。

2カ月間の開きがある。

この日は4月1日に行われるちゃんちゃん祭に先だって郷中にあたる各大字が天理市新泉町に鎮座する大和神社へ参詣する宮入り神事の日だ。

例年の3月23日に行われている。

宮入りする郷中の順は決まっていない。

毎年くじ引きによって替るのである。

平成25年は岸田、成願寺、萱生、長柄、三昧田、新泉、中山、兵庫、佐保庄の順であった。

奈良県図書情報館が所蔵する奈良県庁文書がある。

昭和4年に調査された『大和国神宮宮座調査』に記された往古における大和神社の郷中社家はそれぞれの家筋であったと記されている。

いわゆる宮座である。

明治維新の頃に改正された宮座は岸田が34人、成願寺は13人、萱生は5人、長柄は18人、三昧田は23人、新泉は10人、中山は5人、兵庫は12人、佐保庄は9人であった。

その後においては成願寺、長柄、佐保庄を除く各郷中は村座、或は大字の住民すべてが交替する平座になった。

村座に移った各大字の時期は異なる。

中山、萱生は明治の初めで、兵庫は明治8年だった。

その後も郷中の宮座が変遷する。

新泉は明治14年、15年で、三昧田は明治17年、18年に移り替った。

さらに岩懸と合併した岸田は明治の44年であった。

現在も尚続く成願寺の宮座は座中が増えて13人から21人になった。

佐保庄は9人から21人に増えている。

長柄は大正14年から地租納税多額者より年々選定、座筋以外も加入されて18人から40人の大所帯になったと書かれている。

この日に訪れたのは大和神社北側にある兵庫である。

二月の節分後に行われた将軍さん、或いは荘厳さんとも呼ぶ鬼的打ちを取材させていただいた兵庫町。

ちゃんちゃん祭に頭屋を勤める御主人に聞いていた宮入り参拝する際に持参する御供に特徴がある。

宮入りする各郷中のお供えはそれぞれである。

岸田は二合の酒、成願寺は清酒1本、萱生は二合の酒に3枚のスルメ、長柄は二合の酒と2合の洗米に塩、三昧田は銚子2本の酒である。

ちなみに三昧田ではこの日を神酒の口開けという。

銚子と云われているのは錫製の徳利である。

新泉は一升の米と酒、佐保庄は銚子2本の酒であるが、中山には特にお供えは見られない。

お米、塩も供える大字もあるが、殆どの大字は酒である。

しかし、兵庫は二合の酒(2本)と大豆である。

その大豆に特徴がある。



煎った大豆に醤油をかけてトリコ(餅取り粉)を塗した御供には名はないと云う。

かつてはお盆に入れて風呂敷に包んだ御供。

平成17年に拝見した大豆はそうであった。

その後においては大和神社が受け取って供えやすいようにカップ容器に入れることになった。

トリコが大豆にまんべんなく塗されるように接着するのが醤油の役目だそうだ。

一合のお酒も一緒に包んだ風呂敷包みの御供は出発前にしか拝見することができない。



両頭屋のご厚意で拝見した大豆はどっさりある。

兄、弟頭屋(親、子頭屋とも)それぞれの大豆は二合の量だ。

大和神社に到着する時間に合わせて集合した兄、弟頭屋はともに白装束。

烏帽子を被り同じような白装束になった頭人児(とうにんご)。

殆どの大字ではお稚児さんと呼んでいる。

この年の兄頭屋は孫であった。

父親はスース姿で頭人代を勤める。

頭人児が着る白装束には袖通しの結び紐がある。

兄頭人児が紫色で、弟頭人児は赤色と決まっているが、3歳、4歳児の子供は一年の差が大きい。

衣装のサイズが合わなくて仕方なく交換したと話す。

弟頭人児は孫ではなくカリコ(借り子)。

男児がいない場合は親戚筋、或いは村の子を借りてくるという。

その母親も付いて両頭屋一行が向かう先は大和神社。



兵庫は隣村であるが東へ抜ける集落の街道を歩く。

かつては水路があった兵庫の街道。

昔はもっと狭かったと話す。

成願寺、萱生、兵庫の境目の辻で曲がって上街道(初瀬街道)に入る。

大和神社の鳥居を潜って参道をゆく。

小字馬場先の鳥居下にあった燈籠が前述した長柄村寄進の「大和社常夜燈」である。

この年の兵庫の宮入りは8番目。

大多数の大字は既に宮入りの祭典を終えて戻っていた。

およそ20分おきに進行していたのだ。

直前に宮入りを済ませた新泉の頭人児は生後7カ月。母親が抱いていた。

後日に宮総代から聞いた話では女性は参籠所に登ることはできないと云う。

宮司からもその指摘がされて男性が抱いて参拝したそうだ。

到着すれば決められた宮入り順に従って署名をする。

順番が逆になってはならない証しの署名である。



両頭屋とも宮総代が差し出す杓子の手水を受けて手を清める。

受けた手水で口もすすぐ。手も口も清める作法である。



拝殿に登って行われる宮入り神事。

祓えの儀、祝詞奏上に玉串奉奠である。

神事を終えれば神社から配授された幣紙、麻紐、紙垂に御神水を持ち帰る。



これらの配授の品々はいずれの大字もすべて同じである。

大豆御供を包んでいた風呂敷は宮総代から返される。



大字兵庫に戻る際の道中は参道でなく裏から抜ける旧道。

戻りの道のりは短いのである。

2月に行われた鬼打ちの場には立てていた幣串の名残が見られる。

かつてはこの道はなかった。

新道ができるまでは大和神社境内樹木林を沿うような周回の道程であったと話す鉄工所のご主人。

初魂祭(将軍祭とも)で行われた鬼の的打ちの場辺りの田んぼを所有する。

ご主人の話しによればその樹木林辺りがかつての大和神社の神宮寺であった神護寺(現在は素盞嗚神社の北側)の所在地であったと云う。

(H25. 3.23 EOS40D撮影)

ハッスル3のサーモンサラダちらし

2013年07月02日 06時50分00秒 | あれこれテイクアウト
いつもならイオンの天理ビッグ・エクストラで買う昼食弁当。

この日は土曜日だった。

久しぶりに購入店はすぐ近くにある天理のハッスル3に切り替えた。

いつもながら目移りする弁当。

どれにするか悩んでしまうほどに種類が多い土曜日の特売弁当は298円。

お寿司もあれば丼もある。

他にもあるが価格に釣られてあっちへうろうろ。

こっちへうろうろして選んだ弁当はサーモンのサラダちらし。

蓋を開ければサーモンの香りが漂ってきた。

中央にはやや赤みのサーモン。

回りには薄いピンク色の薄切りサーモンをちらしている。

イクラ卵もばらまいてドレッシング。

サラダ菜やスライスしたタマネギがサラダ風だ。

黄色いのはキンシタマゴである。

サーモンのサラダちらしは一種のお寿司。

甘酢生姜で寿司味を締める。

酢メシはそれほどでもない。

サラダ風にしているからだろう。

寿司の味を壊さない程度の酢メシである。

この価格で味も盛りも満足感たっぷりのサーモンサラダだった。

(H25. 3.23 SB932SH撮影)