マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

都島の東大美

2014年01月21日 07時58分22秒 | 食事が主な周辺をお散歩
本店は西天満にある「大美(だいみ)」。

こちらはそこから東にあるから「東大美(ひがしだいみ)」の名が付いた和食の店。

おふくろは診察の度に訪れて食べていたという。



この日は長期間の入院に備えて常備薬の高血圧症の薬を貰いにきた大阪都島の玉城クリニック。

診察患者を待つこと1時間。

その間に上空を下りてきたジェット機が絶え間なく通り過ぎる。

場合によっては2分おきである。

プロペラ機もたまに見られるが多くはジェット機だ。

おふくろが云った。

たまに大きなジェット機が下りてくる。

巨大なジェット機は他のよりも3倍も大きいという。

そんなことはないやろと、一機、一機を下から見上げていた。

大阪伊丹空港に下りてくるジェット機に見惚れてしまった待ち時間。

ジェット機の音が違う。大きな音が街の上空に響き渡る機体は胴体が大きく、水平翼も幅広い。これだと思った。

たしかに大きいが着陸高度が低いのではと思った。

着陸する航路はそれぞれ違う。

どうやら2本あるようだ。

それはともかく診察は1時間も越えた。

昼の時間も過ぎていた。

近場で済ませたい昼食はどこにする。

「ここでしょ」と指を挿したのが「東大美」店だった。

お店の案内で駐車した。

日替わり定食の案内があった。

「お昼の定食 すき鍋定食850円」だ。

案内された店内奥はお座敷個室であった。

掘り炬燵もある質素なお部屋。

落ち着く室内で頼んだ品物はもちろんすき鍋定食。



かーさんは1250円の天ぷら定食Bを頼んだ。

すき鍋定食は鉄鍋であった。



真っ白なご飯が美味しい。

もちろんすき鍋も美味しい。

だだ辛くもなくしっとりとした味だ。

醤油味っぽくないのである。

出汁が利いている美味さは格別の一級品。

牛肉も多い鍋には野菜が染みている。

中からはすき焼きにつきものの麩も入っている。

底からはシコシコ太麺のうどんも出てきた。

美味いからご飯が進む。

ほどよい量だが、おふくろは多めにしてもらったご飯喰い。

あまりの美味しさにかーさんも唸るすき鍋の味。

香物も美味い。

デザートにはなんと、マーマレイドヨーグルトだ。

ちなみにかーさんが頼んだ天ぷら定食はこれだ。

サクサク美味しい天ぷらに下鼓。

煮込んだ細切りコンニャクが美味さに驚いたのである。

お店の女性が話すに本店の「大美(だいみ)」は四代目が継いでいるという老舗の店。

どうりで美味しいはずだと思った。

(H25. 9.20 SB932SH撮影)

中秋の名月に

2014年01月20日 07時48分35秒 | むびょうそくさい(おかん編)
12日も同じく、大阪市立総合医療センターでMRI検査。

連日とも検査、検査の繰り返し。

以前であれば、検査入院があって、入院しながらの検査があったが、法令が替ったことで、検査の都度に訪れる大阪市立総合医療センター。

阪神高速道路を利用するにも負担も増えていく。

しかも渋滞に巻き込まれる。

検査を受ける日々は、その都度我が家に滞在する。

数日経って帰りたいというから14日には一時帰宅した。

それから一週間後の19日も、大阪市立総合医療センターで血液検査を受けた。

血栓でき易いという診断結果で再検査を要するという。

再検査は10日後、それまで何をすることもない日々である。

お団子が食べたくなったと話すおふくろの要望に応えて買った和菓子は六条山の和菓子屋さん。

この日、小泉町を走行中に見かけたハギの花とカヤススキを手にした婦人の姿。

この夜は中秋の名月である。

我が家と云えば、ススキを供えることなく和菓子屋で買った名月団子を食べていた。

まん丸いお月さんが上がってきた。

晩酌の酔いは醒めていないが、自宅からカメラを取り出した。

団らんに飲んでいたアルコールで頭の中が回っている。

我が家の前は丘である。

そこに登ったお月さんを捉えてみたものの、月光ならぬ、夜に輝く太陽のようになってしまった。

丘に咲いていた白い花を照らすこと15秒。

ベロベロ酔いの感覚(間隔)はあまりにも長すぎた。

白い花の正体は明日にするかと思ったこの夜は名月に酔っている。


(H25. 9.19 EOS40D撮影)

自宅前にある小高い丘はいずれ崩される。

移転先に決まった奈良県立病院は家のすぐ近くの北側だ。

そこへ入る導入路は大和中央道からの延長線である。

季節折々に咲く野の花も消えることであろう。



前夜に撮った中秋の名月写真下にある白い花は野の花ではなく「ニラ」である。

ご近所の婦人が生前に植えたニラから零れたタネが周囲に広がった。



今朝見たときには蜜を求めるミツハチやハナムグリが群がっていたが、夕方には出没しない。



この日の午後は、服用している高血圧の薬が不足する状況になったため、玉城クリニックに出かけた。

(H25. 9.20 EOS40D撮影)

合場町三十八神社のむかしよみや

2014年01月19日 08時55分45秒 | 天理市へ
昭和4年には宮座が31戸もあった天理市の合場。

奈良県図書情報館に所蔵されている『大和国神宮神社宮座調査』には当時の合場地区が報告した戸数である。

合場の氏神さんを奉る三十八(みとわ)神社には「文政四年辛巳(1821)五月吉日」に建之された燈籠がある。

それは「愛宕山大権現」だった。

現在の合場(東・北・南・西垣内)の戸数は53戸であるが、旧村合場の座は14戸。

かつては23戸もあったそうだ。

神社行事を勤めているのは座の十人衆。

村神主は十人衆を勤めた長老が就いていた。

神社行事を担っていた座中には田んぼや屋敷もあったと話すのはこの夜の行事の世話人となった二人の「ヤク」だ。

今では礼服になったが、20年前までは座の十人衆が烏帽子を被った紺色の素襖姿で出仕していたと云う。

秋のマツリには、キヨノメシ(おそらく饗飯であろう)と呼ばれるムシメシ(蒸し飯)を供えていたそうだ。

今ではムシメシを作ることもしなくなったが、当時使っていた道具を拝見した。

高さは23cmで内角径も23cm。

底部の径は11cmの道具は木製の桶。

錘は石製。

適当な大きさだろうと話す。

キヨノメシの量を量る桶は天秤秤が付いているのである。

桶にムシメシを入れて長さ40cmの天秤秤で量る。

その量は五合と決まっていた。

ムシメシは二度も蒸す。

桶に入れて水を注ぐ。

ヒタヒタぐらいの水をいれて再び蒸していたと話す。

ムシメシを桶から取り出して逆さにすれば円錐型。

キヨノメシと呼ばれるムシメシは上から押し込む。

それをもってオシメシとも呼ぶようだ。

頂点部分がなく上部が平らなので横から見れば台形のような形になる。

その周りを藁で括る。

三重の藁である。

伺ったその姿は県内各地で見られるキョウノメシと同じである。

合場のキヨノメシは二つあった。

一つは五合の量のキヨノメシ。

もう一つは五合と五合重ねた十合。

二倍の大きさであったそうだ。

ウルチ米だったので崩れやすく、作るのが難しかったと話す。

ムシメシを作って供える家は数え四歳になるトーニンゴ(男児)がいるトーヤ(当家)家だ。

マツリには氏神さんに供えるが、ヨミヤの日はトーニンゴの家に供えていた。

今では使わなくなったが、貴重な民俗史料は大切に保管されている。

マツリの前には朔座がある。

日程は決まっておらず、9月末か10月初めのようだ。

目の下一尺一寸の焼いたエソを供えるらしい。

長老が勤める村神主に十人衆が参列される朔座の行事も興味をもった。

座に就く人が一旦隠居した場合。

再び座に就く(座入り)ときには一合のダンゴを五つ、ダンゴ盛りをしなければならない。

8割のウルチ米に対して2割もモチ米を混ぜた。

カラウスを用いて粉を挽いた。

熱湯を掛けてダンゴ練りをしていた。

平らにしたダンゴをロール状に丸めて棒モチのようにして切ったダンゴだったと云う座入りの儀式のご馳走は鯛や折り二重もあったと話す。

そのようなかつてのマツリの在り方を教えてくださった合場のヤクは80歳近い年齢。

古くから行事を勤めてきただけにかつての様相を懐かしそうに話す。

この夜の行事名は「むかしよみや」だ。

別名に「コマツリ」がある。

「むかしよみや」を充てる漢字は「昔宵宮」と云う一日限りの夜の行事である。

おそらくは「昔夜宮」と思われるのだが確信はもてない。

「むかしよみや」の行事の初めは御湯神事だ。

拝殿前に設えた斎場。

新しい釜に水を入れて雑木に火を点け沸かす世話人のヤク。

藁を扇のように広げた座に就いた石上神宮の神官。

周囲を囲むように座中が並ぶ。

静かに頭を下げて拝礼される神官。

ポン、ポンと二拍手。

祓い詞を奏上される間は低頭する座中。

厳かに御湯の神事が始まった。

9月半ばであるがツクツクボウシの鳴き声が境内に広がる。

靴を履いて徐に湯釜の前に立った。

湯釜の蓋を取りあげて、用意された二本の笹束を手にした。



笹を湯に浸けるやいなや、左右に何度も振る。

その回数はおよそ10回だった。

立ち位置を替えて今度は座中に向かった神官。



「お祓いいたします」と声を掛けて回りに立つ座中へ向けて湯を笹で祓う。

その数もおよそ10回であった。

石上神宮では行われていないが、布留郷の一つである合場で行われている御湯神事。

神官が云うには神宮で代々継がれてきた作法だそうだ。

珍しい作法を拝見させていただき感謝する次第である。

湯祓いを終えた座中は本殿に登っていく。

拝殿には白い幕を掲げていたヤクは神事の直前に吊るされた提灯に火を灯す。

ヤクの家族も手伝った火灯し。

辺りはすっかり夕闇に包まれていた。

夜の行事に灯りが美しく包む。

洗い米、塩、モチに2丁のコンニャクと二本のゴボウ、一尾のシオサバが神饌。

ヤクの人たちが社務所より手渡しで献饌される。



社務所にはかつて奉じられていた御幣が残されている。

鏡らしき円盤に釘のような串とカタスミのような黒い物体を下げている。

昭和10、11年生まれのヤク二人とも覚えていない御幣。

トーニンゴが奉っていた御幣は少子化によって継承できなくなくなった。

中断したのは20年前どころか、もっと前のようだと話す。



拝殿の神事が行われている時間帯。

「レッツゴー、レッツゴー、あいば」の掛け声でダンジリを曳いていく村の子供たち。



打つ太鼓の音色が集落に響き渡る。

かつては隣村の東・西井戸堂まで巡行していたようだ。

厳かに神事を終えた拝殿は直会に移る。

始めにヤクが席に着いた座中に一杯のお茶を配る。

これを「おちつきぢゃ(茶)」と云って、直会の始まりの合図。



ヤクが注ぐお神酒とともにパック詰め料理の膳をいただく。

およそ40分間ほど経過した頃、再びお茶を席に差し出すヤク。

これを「おたちぢゃ(茶)」と呼ぶ。

「おたちぢゃ(茶)」は異名に「おいだしぢゃ(茶)」とも呼ぶ。

直会の終わりを告げる「おたちぢゃ(茶)」を一杯飲んで引き上げる座中たち。

口上は特に見られなかっが合場の行事は古い形式を残しているようだ。

(H25. 9.17 EOS40D撮影)

満願寺町西岳院秋の大祭観音講

2014年01月18日 09時45分32秒 | 大和郡山市へ
毎月17日は観音さんの日と云って村の人たちが営みをされる大和郡山市満願寺町の西岳院。

富雄川の西岳にあることからその名がついたと云う西岳院は黄檗宗万福寺の末寺。

古田神社と隣り合わせにある大きな禅堂が西岳院。

先々代が勤めるまでは荒れた本堂だったと話す。

満願寺町の古屋敷と呼ばれる地にあった満願寺は富雄川の氾濫によって現在地に移されたが、現在の西岳院はかつての旧満願寺の別坊。

元地の古屋敷の南側には堂前が、西側には堂後の小字名がある。

古屋敷に本堂があった名残の小字である。

かつては村の有志が集まった観音講がお勤めをしていた。

いつしか村の行事に移り替った。

古屋敷、北垣内、南垣内の3垣内からなる旧村垣内が毎月交替する当番役が就く。

この月は秋の大祭の観音講。

斎壇には土台のカボチャに挿した五色の「あんやほん(唵唖吽)」を供える。

普段の月ではお参りだけであるが、春と秋の大祭には「あんやほん」を立てる。

幟のような「あんやほん」は、施餓鬼に立てるヒトガタ仏旗と同じような形である。

西岳院の本尊は奈良県指定文化財の木造十一面千手観音立像。

高さが3m5cmもあるお姿に圧倒されて思わず手を合わせる。

この日は禅堂に安置していた隠元禅師の座像を本尊前に移された。

徳川家二代、三代に招かれて、インゲン豆、普茶料理、煎茶、西瓜、蓮根、孟宗竹の食べ物や木魚を日本に持ちこんだ禅師である。

寛文元年(1661)、黄檗山萬福寺を開創した隠元禅師も村人に見ていただこうと正面に移された。



鐘を打って始まった大祭の法要。

初めに開経偈、次に「かんぜーおん ぼーさつー」と観音経を唱える。

そして一人ずつ焼香される。

法会をされたご住職は一旦境内に下りる。



当番役が設えた四角い場に春の大祭で授かったお札などを盛って、火を点けて燃やす。

あんやほんなど、古いお札を燃やして供養する焼納のようなものだと話すご住職。



それを終えて再び堂内に戻ったご住職は先祖代々の菩提のために塔婆回向をされる。

およそ30人の参拝者は揃って三巻の般若心経を唱える。

(H25. 9.17 EOS40D撮影)

海知町のヤマモリ

2014年01月17日 09時51分41秒 | 天理市へ
田原本町の法貴寺地区では9月7日に弁天さんのヤマモリを行っている。

御湯の儀を終えたその夜である。

拝殿の前庭に各家が持ち寄った弁当を広げて食べる夜の会食を「ヤマモリ」と呼ぶのである。

村人とともに会食をされていた法貴寺・池坐朝霧黄幡比賣神社宮司からお聞きした「ヤマモリ」。

それは「山盛り」ではなく、おそらく「夜籠り」が訛って「ヤゴモリ」に転じて「ヤマモリ」の呼称になったのであろうと話していた。

先日にヨミヤの御湯をされた斎宮神社においても、かつては雨乞いを願う「ヤマモリ」があった。

「雨降らんか、降らんかったら雨乞い、降ったらヤマモリ」だと云って境内で弁当を食べていた。

それを済ませば必ずと云っていいほど雨が降ったという。

田原本町では法貴寺地区以外に佐味、宮古、黒田の各地区でもされてようである「ヤマモリ」。

9月初めにシンカン祭が行われた天理市海知町においても「ヤマモリ」をしていると云っていた。

場は各地同様に神社境内であるが、この日に訪れた夕刻の時間帯。

倭恩智神社境内には誰一人として姿が見られない。

何かがあったのだろうと、度々お世話になっている氏子さんに電話をした。

返ってきた答えは、「台風の影響で境内では弁当を広げることは不可と判断して早々に公民館へ場を替えた」だ。

馴染みの顔ぶれが揃って、持ち寄ったお酒はパック詰め料理を肴に歓談の場。

和やかな時間が過ぎていくが、各地の台風の影響は村の人にも伝わっていた。

下市では住民が避難した、奈良-大阪間を通る阪奈道路も崖が崩れたと報告される。

大阪を流れる大和川が洪水の恐れがあるとテレビニュースが伝えていた。

住民安否を確認してきた村人たち。

何事もなかったが、会社関係の従業員の安否状況も掴まなければ・・・と話す氏子はこの場でも電話を離すことができない。

台風18号の影響は大規模エリア。

海知町の神社境内は北風に煽られて鎮守の森が荒れるほどだった。

そのような状態ではゴザを敷くどころではない。

今回の「ヤマモリ」は特別だと云って公民館に切り替えていたのである。

かつては各家が作ったご馳走を持ち寄って食べていた。

豪華なご馳走は徐々に派手さが生じてきたこともあって、一定金額のパック詰め料理に転向したそうだ。

(H25. 9.16 EOS40D撮影)

馬佐牛滝社の牛滝まつり

2014年01月16日 07時50分24秒 | 大淀町へ
「牛滝まつり」を「うったきさん」と呼んでいる大淀町馬佐(ばさ)の住民たち。

牛滝まつり行事の場は牛滝社。

親しみを込めた「うしたきさん」が訛って「うったきさん」と呼んでいるようだ。

「うったきさん」の日は飼っていた牛を引き連れて参っていたと云う。

大淀町教育委員会が編集された『おおよどの地域文化財を学ぶ』によれば、高取町山間より壺坂街道を経て田口、馬佐、比曽、上市へ向かう道は旅人や修験者が頻繁に通っていた江戸時代、馬屋を建てたとか、「うまみち」の呼び名もあったそうだ。

『大淀町の伝説』には「うまみち」のことが記されている。

それには「馬をたくさん引き連れてきた太閤秀吉が馬佐峠付近で演習をしていた。いざ帰ろうとした際、一頭の馬が足らなかった。付近を探したが見つからなかった。もっと探せば一つの谷のどんづまりに馬がいた」とある。

探していた馬が見つかった馬佐。

つまりは「馬さがし」が転じて「馬佐」の地名になったというのである。

見つかった谷のどんづまりや周りの山々を「うまみち」と呼んだのである。

なるほどと思わせる伝承である。

昭和28年に発刊された『奈良県総合文化調査報告書-吉野川流域・龍門地区-』によれば、牛滝社は馬佐だけでなく、高取町の壺坂、大淀町の比曽、吉野町の山口・志賀にもあったようだ。

壺坂峠を越える壺坂街道、さらに東進する街道は吉野町へと繋がっていたのだ。

志賀の鷹塚の牛滝祭りでは、赤い首輪をつけて飾った牛を連れて参っていた。

寄り合い角力や御供撒きで賑わったそうだ。

その後において創建された山口、比曽、壺坂の牛滝社であるということから、馬佐も同時代の創建であったと思ったが、そうではなく山口の社を明治45年に合祀して八阪神社と称すようになったようだ。

馬佐の牛滝まつりは9月15日に行われていたが、ハッピマンデー法令によって敬老の日の祝日になった。

この年は台風18号の影響で明日香・高取から芦原トンネル入口手前の国道169号線は泥まみれになっていた。

ほぼ通行止めである。

ほぼというのはわずか数台を通らせていたのである。

芦原を通過した直後に閉鎖されたトンネルを見届けて一路。畑屋、越部を抜けて馬佐に着く。

滝のように山から流れる水量は大量で牛滝社は水浸しの状況であった。

牛の守り神とされる牛滝社は天照皇太神宮の境内社で八阪神社とも称される。

この日はまさに「牛滝さん」が呼び込んだと思えるような滝の様相であった。

牛滝社の社殿に神饌を供える村役やトヤの人たち。

神饌はナンキンカボチャを土台に竹串で挿したニンジン、マンガンジアマトウ、ナガナス、シイタケ、サツマイモ。

村人たちが「御膳料」を払って、トヤが作った神饌御供である。

神饌は八つの盛り。

挿した野菜は特に決まりもなく、馬佐で採れた野菜もの。

年によっては異なると云っていたが、昨年に行われた村の記録写真と同じだった。

「御膳料」を記されたお札は志納した村人の名を添えている。

神饌には名前が無いと云われたが、おそらく「御膳」であろう。

そのころは公民館で敬老の祝いを終えた人たちもやってきた。

急な坂道を歩いてきたと話す。

社殿前は水浸し。

仕方なく、神職が立つ位置に板を置いて神事を執り行われた。



特別なことはなく、祓え、祝詞奏上、玉串奉奠で神事を終えた。

神事を終えればゴクマキであるが、この日の境内は水浸しのぬかるみ状態。



やむを得ずトヤから受け取る村人たち。

ありがたく受け取って家路を急ぐ。

50年ほど前のことだと話す長老は82歳。

土俵を作った境内では、上半身裸で、晒しで巻いたフンドシ姿の小・中学生の子供や成人が競っていたそうだ。

腕っ節を試そうとやってきた下市の成人男子も加わって競っていたと云う。

かつては藁で作った土俵があった。

土俵の砂は馬佐川から揚げていた奇麗な砂だった。

その土俵の角に三角台が置いてあったと云う。

そこには「牛」そのものの形の版木を押した紙があったと云う。

参拝者はそれを持ち帰り、餌を与えるカイバ口がある牛小屋の柱に貼っていたと云う。

大切な飼い牛が病気にならんようにという願掛けのようなお札だったと云う。

農業一本だったころの牛を引き連れて「うったきさん」に出かけた。

神社前にある樹木や電信柱に牛綱を結わえていた牛参りは記憶に残るだけとなった。

馬佐のマツリは10月第二日曜日。

かつては10月15日だった。

前日の土曜日には盛大にマツリごとをしていた座講(ざぁこう)の行事である。

「昔はマツタケのすき焼きがあってよばれていた」と話す。

マツタケは普通にあった。

お弁当にもマツタケがあった。マツタケを入れて炊いたマツタケメシだった。

小学校での通学路にもマツタケが生えていたくらいに多かった。

多いから棒で叩いて潰して遊んでいたと笑いながら話す。

いつしかマツタケがないすき焼きになったが、それは一老、二老だけがよばれる座であった。

トヤ受けのときにもヨバレがあった。

朝、昼、夜に翌日のマツリの昼も食べて飲む座だったそうだ。

かつては20~23軒で行われていたが、今では村から出ていった家もあって13軒の営みとなった。

マツリにはお渡りがある。

早朝、トヤの家に集まった講中は始めにお茶をいただく。

トヤは衣装に着替えるが、どのような装束であるのか聞きそびれた。

幟を持つトヤを先頭にお渡りが向う先は天照皇太神宮だ。

それにしても台風の影響は各地で被害にあった。

後日に聞いた大和郡山額田部住民の話によれば、吐田の油掛け地蔵さんも水浸しになったと云う。

油でもなく、泥でもなく、田畑も溢れた水だったそうだ。

(H25. 9.16 EOS40D撮影)

一町天満山長法寺の牛滝祭

2014年01月15日 07時28分18秒 | 橿原市へ
平成17年に取材したときは大日講の婦人たち数名がお供えをしていた橿原市一町(かずちょう)の牛滝祭。

この日に集まったのは村の婦人たち。

その年以降には5人であった大日講も、一人減り4人。

少なくなった講中も高齢化になった。

決断したのは大日講の解散だ。

そのような状況に村の有志を募った3年前、こうして集まった婦人たちが継承していると話す。

雨天であっても集まって天満山長法寺境内を清掃している婦人たちは、観音堂、地蔵堂、水神さんも奇麗にする。



当地には浄國寺もあるが、もともとここではなく他所にあったお寺を移設したという。

時代は明治の頃の廃仏毀釈。

住職がいない旧長法寺に浄國寺を寄せたという。

一町の婦人たちが管理しているのは旧長法寺大日堂、観音堂、地蔵堂、水神さんに蓮の池も含まれる。

長寶寺(真言宗)とも呼ばれることもある旧長法寺大日堂のご本尊は大日如来座像。

大日さんを敬愛する講であった大日講は、これまで毎月の15日がお勤めであった。

1月、9月の15日は境内を清掃してからお勤めをしていた。

それ以外の月はお勤めだけであった。

一町は高市郡新沢村に属していた一村。

明治時代に完成した大井手(大井出とも)に井堰・水路を造成した。

御所市の柏原から流れる満願寺川と高取町を下ってくる曽我川との合流地点である。

川上にあたる一町が水利権を握っている。

明治十二年は高市郡常門(じょうど)村だった。

かつて高取山城下であった一村辺り、城門(じょうど)があったと伝わる。

城戸、城門、その後に常門(じょうど)村の名に移り替ったと話していたことを思い出す。

常門村は東西にあり、東常門村と西常門村および萩之本を統一合併された。

その「統一」から「一」を村の名にした一村(かずむら)である。

その後の明治22年の町村合併によって一村は観音寺村・北越智村・川西村の三カ村とともに新沢村となった。

長法寺がある小高い山は天満山。

小字でいえば「テンマ」である。

この地にはかつてあったとされる長法寺城跡があるようだ。

境内にある観音堂は一町観音講の人たちが寄進して美しくなった。

昭和60年には36人もおられた観音講中。

継承された地区の総代、区長、評議員ともに観音講世話人らは平成24年1月17日には観音堂に安置されていた仏像を修復された。

美しく目映いて輝きを取り戻された34体の観音さんがずらりと並ぶ。



一方、地蔵堂も清掃される。

そこに安置されている地蔵立像。



周囲には千体仏も安置されている。

それぞれのお堂を奇麗にされたあとは御供作り。



カボチャ、ナガナス、オクラ、サツマイモ、ニンジン、インゲンマメ、ゴーヤ、シイタケ、カンピョウにコンブをお皿に盛る。

お菓子は高杯に盛る10膳のお供えは牛滝祭の御供。



牛滝祭は愛称をこめて「うったきさん」と呼ばれている。

かつては半切りにしたカボチャを土台に串を挿していた。

コンブは帆のように見立てて立てたというから、御供は帆かけ舟のようだったと平成17年の取材の折りに聞いた御供の姿はこの年も見られず平皿に盛った。

本尊の大日如来座像、右・左脇仏の不動明王、牛を象った牛滝さん、弘法大師、薬師仏、3体脇仏の金仏、外に祭った水神さんに観音さんなどに10膳を供える。

ローソクを灯して般若心経を唱える。

毎月の営みは五巻を唱えるが、この月は七巻も唱える。

木魚と太鼓を打つ導師。

それに合わせて般若心経を唱える婦人たち。



本堂に響き渡る音色は一町の佇まいであるようだ。

この日に参拝された村総代の話によれば、かつては農協主催で牛の品評会を境内でしていたと云う。

美しい化粧まわしのような襷を牛の背中に掛けて参っていた。

午前中の早い時間帯だったそうだ。

漫才や浪曲などの演目もあった農協の行事だったようだ。

今では茶場がトイレに移り替ったが、当時はそこでお茶のふるまいもあったと話す。

その後、子供や大人が消防ホースをマワシにして奉納相撲をしていた昭和32年頃の様子を今でも覚えていると云う。

土俵で相撲の取り組みをする人には近在の川西町からも力試しがやってきたそうだ。

勝った人にはヒノキ角材の日の丸御幣を授与したという話しから、その形は今でも行われている膳夫三社神社の望月祭の御幣と同じようである。

ヒノキ角材は床柱にするような丸太もあったそうだ。

本堂外に掲げた絵馬がある。



願主7人の名が並ぶ「奉納 大日如来」の絵馬は明治参拾四年に奉納された。

飼っていた牛に袈裟をかけてお参りする姿である。

牛の品評会が催されていた時期よりももっと以前の時代の様相だと推定される牛参りの絵馬である。

本堂内には数多くの絵馬を掲げている。

常門村講中が奉納した阿吽力士と思われる絵馬は「元禄九年(1696)六月朔」だ。

源平の合戦を描いたと思われる騎馬武者絵は「元禄八年(1695)三月吉日」である。

慶應元年九月吉祥に掲げた二枚の絵馬もあるが、特筆すべきは「正徳四年(1711)」に掲げられた絵馬だ。



大日堂を中央に配した絵馬には蓮池もあれば、観音堂、鐘楼、山門、庫裡や鎮守社の三神社もある。

よく見れば、そこに何人かの人が集まっている。

ゴザを敷いた場には二人の男。

一人は破れ傘を持っている。

左手には扇を持つ。

もう一人は太鼓を打っている。

おそらく太鼓囃しであろう。

それを見ている僧侶や侍。

子供連れの母親もいる。



その様相は大神楽のような大道芸であろうと思った。

本堂階段下では板に並べた白いモノが見られる。

おそらくはダンゴかモチであろう。

細長い白いモノや黒いモノもある。

三角の赤いモノもある。

それらは何か判らないが売り子もいるようだ。

編み笠を置いて手を合わす者もおれば、扇を手にして舞踊する女性もいる。

それより手前には、刀をさした侍に大刀をかたげる奴もいる。

本堂左下にはゴザを敷いた場に男がいる。



独楽を回す男の前には、一、ニ、三、四、六の目がでたサイコロまである「牛ノ八月吉日」と記された絵馬は「うったきさん」こと、旧暦八月当時の「牛滝祭」の様相を描いたものに違いない。

昭和31年に耕運機が導入されたと話す村総代。

それまでは飼っていた牛の力で田畑を耕していた。

牛使いが得意だったと云う。

牛滝参りはかつて橿原市の五条野にもあったことを思い出した。

昭和30年のころまであった牛滝参りの場は素盞鳴神社だった。

幟を立てて、牛には綺麗な衣装を纏い、牛の品評会や草相撲などが行われていた。

とても賑わっていたと平成20年2月に取材した初庚申の際に話していた講中の記憶である。

般若心経を唱えて営みを終えた村有志婦人たちは頼んでおいたパックの膳をいただく。

雨は降りやまず、お堂でひとときを過ごす。

「貴方の分もあるから食べていきなさい」と伝えられてありがたく一町の村総代とともにおよばれ。



柿の葉寿司、いなり寿司、巻き寿司もあるパックのお膳は小ぶりながらも揚げもの、煮ものに焼き魚もある豪華版。

たしか柿の葉寿司のヤマトであろう。

どれこれもとにかく美味しいのである。

この場をお借りして厚く御礼申し上げる。

村総代のお話はかつての牛滝参りの様相や農家の営みもある。

春、苗代作りをしていた。

その場にはツバキの葉に、家で炊いたアズキガユを盛っていた。

先祖さんの墓や三神社にも供えていたと云う。

苗代の水口にはツツジの花を立てた。

1月14日の晩は茅原の大トンドがある。

一町の各大字でもトンドをしているが、上垣内は15日の朝にしている。

もらってきた茅原のトンド火は翌日の朝、竃に火を移してアズキガユを炊いた。

アズキガユを食べる箸は穂付きのススキ。

いわゆるカヤススキである。

カヤススキの茎は堅い。

それを箸のようにして使って、一口、二口に食べていた。

竃が消えてからはしなくなったと話す。

会食を済ませた数時間後は観音堂の営みをされる。

金ピカに光り輝く観音さんの前で唱えるのは西国三十三番のご詠歌であるが、後日に再訪することにしてお堂をあとにしようとした際に気が付いた柱の奉納物。



納められてから相当な年月が経っているそれは紙に包まれたキリだそうだ。

今では奉納されることもなくなったが、耳の神さんとして崇められている本尊の大日さん。

耳の通りがよくなるように、工具のキリ(錐)に願をかけていた痕跡が残っている。

(H25. 9.15 EOS40D撮影)

大淀町馬佐の行事

2014年01月14日 08時12分36秒 | 大淀町へ
御所から次に向かったのは大淀町。

新しい道もできて早くなったが、それほどでもない。

目指すは馬佐。「ばさ」と読む。

8月には同町の弘法井戸を探していた。

帰り路に選んだのが馬佐である。

馬佐口から山の方に向かえば集落がある。

家から出てこられた男性に声を掛けた。

探していたのは牛滝まつりだ。

その答えは、「あった」であるが、かつてあった相撲は随分前に途絶えていた。

40、50年も前のこと。「牛滝さん」にやって来た子供たちは上半身が裸で晒しのフンドシ姿。

大人も混じっていたそうだ。

もう一人の男性によれば、吉野じゅうから相撲を取りにきたというから相当賑わっていたようだ。

小学生のときだったから60年も前だという。

いつしか怪我をするからと意見が出て中断した。

その後は「シシマワシ」に移り替った。

話しの様相からすれば伊勢の大神楽。獅子が舞う神楽獅子だったと云う。

「手品もあったし、傘を回す曲芸や“シシマワシ”をしていたのは“池田神楽”だった」と話す。

子供時代に見ていた神楽獅子は面白おかしく舞っていたという講社の人は自動車でもなく木箱を乗せた台車のようだったと話すAさん。

「アホ役の人がおって、漫才をしていたのが面白くて」と話す牛滝さんの日は、いつしかそれもなくなった。

その後になったまつりはゴクマキ。

神主が来られて神事をする。

その後のゴクマキは固定日の15日だった。

それは今では敬老の日の祝日なった。

公民館で敬老祝いの昼食を摂る。

それが終わってから坂道を歩いて神社に向かう。

そこは天照皇太神宮の境内社である牛滝社。

牛を象った守り神が置かれている「うしたきさん」は訛って「うったきさん」と呼んでいる。

農業一本だったころの牛を引き連れて「うったきさん」に出かけた。

神社前にある樹木や電信柱に牛綱を結わえた。

まさに牛参りである。

神社には享保三年(1718)十一月、天明六丙年(1786)六月吉日に寄進された燈籠がある。

(H25. 9.14 SB932SH撮影)

御所市三室の行事

2014年01月13日 08時16分49秒 | 楽しみにしておこうっと
おふくろを住之江に送って目指すは御所市。

西名阪国道を降りた処からは渋滞。

ここが時間を喰う場所。

當麻・新庄を抜けて御所に入る。

途中の太田・兵家で知らせる地車巡行。

10月の第二土曜・日曜らしい。知りたい地は三室だ。

蛇穴から道路を隔てた西側にある地である。

三室を象徴する陵がある。

五代天皇だという孝昭天皇の陵がある。

こんもりとした森があるから判りやすい。近くまで寄ってみたが、集落内は軽自動車でも難しい狭い道。

旧村はどこでも同じである。

一角に居られた男性に声を掛けた。

調べていたのはススキ提灯。

話しによれば今年行われた葛城町の一大イベント。

ススキ提灯が一斉に勢ぞろいした。

その数はおよそ百基もあったと云う。

その内の2基は三室が出仕した。

上から2、4、4のススキ提灯である。

三室は新規に加わった新町を含めれば145軒。

マンション・アパート住民も含めた戸数であるが、旧村は今も昔も45軒ほど。

およそ3倍にもなった村の戸数であるが、自治会にも属さない家もあるらしい。

さて、ススキ提灯の出仕のことはと言えば、御陵の傍らに鎮座する孝昭宮から出発する。

提灯の組み立ては当日の朝9時ころから始める。

昼前には準備が整う。陽が暮れる時間帯に明かりを灯すススキ提灯。

三室では2基である。

お宮さんを出発したススキ提灯は村内を巡る。

伊勢音頭も唄われるらしい。

辻、辻で休憩をとりながら戻ってくるのは1時間半後。

お宮さんに入るから宮入りだと話す任期2年のK自治会長。

その名を知ったのは蛇穴に残されていた御湯釜の刻印にあった「和葛上郡三室村御湯釜 頭主米田磯七 文化十四年(1818年)九月吉日 津田大和大掾 藤原定次」。

同名であるが、三室には同じ名字が多いと云う。

(H25. 9.14 SB932SH撮影)

桐山大久保垣内薬師さんのボタモチ

2014年01月12日 09時16分18秒 | 山添村へ
度々訪れる山添村の桐山。

戸隠神社観音堂の行事は取材していた。

数日前、垣内の婦人が所在地を案内してくださった大久保垣内。

戸隠神社が鎮座するもっと山の上の方にある垣内だ。

大久保垣内は3軒。

かつては10軒もあったのだが、村を出ていった家もあり、数軒になった垣内には、新しく若い夫婦が入植されて4軒になった。

村入り・氏子入りはまだ認められてはいないが、大久保垣内だけで行われている薬師さんは村が容認されて参列することができる。

薬師さんは一年に一度の大久保垣内の行事。

9月の12日に行われている。

夜7時ともなれば薬師堂にあがって、ボタモチを供える。

一升びんのお神酒を供えて、導師がキンをカン、カン、カンと打ってお題目を唱えて終える。

その場で天ぷらなど各家が持ち寄った家のご馳走を肴にしてお神酒をいただく垣内の行事である。

昔は大勢の子供たちがやってきて食べていたそうだ。

そのときにお供えする御供がボタモチである。

午後はボタモチ作りに勤しむ垣内の婦人たち。

一軒あたり一升のウルチ米を寄せてキナコのボタモチを作っていく。

平成23年9月に行われていた大字腰越の観音講の行事。

そこで出合った男性は大久保垣内の生まれ。

「母屋に住んでいる母親は年老いているが、今でも薬師さんのボタモチを作って供えている。できる限り早く取材してほしい」と話していた。

そういうわけがあってやってきた大久保垣内である。



ボタモチ作りの様相を拝見した。

お一人は飯椀によそって、椀を振るう。

そうすればまぁるくなる。

隣の老婦人に渡してオニギリの形にする。

それを手渡してキナコを塗す。

この日に作ったキナコのボタモチは120個だから、一軒あたり30個にもなる量である。



ぷぅんと香るキナコの甘い香りがたまらなく美味しそうだ。

夜の集まりに供えるキナコのボタモチ。小高い丘の上の薬師堂本尊に供える。



傍らに植生する大樹はムクの木、いわゆるムクロジ(無患子)。

実は羽根突きの玉に利用される。

今年は豊作のようでたわわに実っている。

安置している薬師堂は平成10年9月22日にやってきた台風七号で屋根瓦とともに屋根も吹き飛んだ。

建て替えする前までの場は一年交替のヤド家でされていたが、お堂が美しくなったことで、お堂に集まるようにしたと話す。



薬師堂に安置された木彫りの仏像がある。

「何時の製作か、どなたが作ったのやら、判らないがこうして守っている」と話す。

婦人たちが云うには、この夜の行事は「ボタモチのイセキ」と呼んでいた。

「イセキ」はおそらく「会式」が訛ったものであろう。

私が知る範囲、県内数カ所において薬師さんを祭る村の行事がある。

9月12日に行われている地域は、大垣内の薬師さんの他、宇陀市で1カ所<大宇陀本郷>、桜井市<瀧倉・修理枝>は2カ所、旧都祁村<都祁相河・都祁南之庄・都祁白石・都祁藺生町>では4カ所である。

8日にお参りする上北山村、東吉野村、桜井市、天理市、田原本町、大和郡山市、奈良市の旧町村地域もあるようだ。

ボタモチを供える地域も含めて、もっと多くの事例を調べなくてはならないと思った。

(H25. 9.12 EOS40D撮影)