宮送りのお渡り道中の際に「ゴイノゴイノゴイ」を唱和すると総代から聞いていた明日香村の上居(じょうご)のマツリ。
その様相を拝見したく訪問した。
上居は村全戸で19戸。
欠席もあるが、朝8時から16人ほどが集まって上居寺でモチツキをしていた。
杵と臼で搗くと話していた一斗のモチツキは、既に終わっていた。
二升半ずつ搗いたモチは四臼。そうとうな量である。
村の祭りに出仕されるのは飛鳥坐神社の飛鳥弘文宮司。9カ大字の神社を兼務する。
その数、三十社もあると云う。
日の丸御幣や祓えの幣を作っておられる。
何度か明日香村の行事も撮らせていただいたお礼を述べてお話を伺った。
上居を開地されたとされる宮講は7戸(当初は8戸)だった。
当初はそうであったが、その後に村入りされた家が5、6戸。
戸数が増えた上居の村。
村入りされた人たちは新しく宮講を作った。
5戸だったそうだ。
旧講と呼ばれていた7戸に対して、新しくできた講が新講と呼ばれるようになった。
それぞれの講のトヤ(当屋)家では一年間もヤカタに神さんを祀っていた。
かつてはコヨリで吊り上げるクジで年番のトヤを決めていた。
春日神社の祭りを維持するのが年々に難しくなり、宮講を改めて4年前に村行事に移したと話す。
宮講があった頃は、それぞれのトヤ家に分霊を受けた神さんをヤカタに祀って毎日を灯明で燈していた。
村行事に移した機会に場は村の会所に移した。
玄関に設えた竹二本に注連縄を張っていた。
右に笹の葉の竹。
左は稲穂を巻いた竹である。
これはのちほどに行われるお渡りに持っていかれる。
50年も前、コンピラサンの行事もあった上居。
伊勢講もあったが5年前に止められたが、庚申講は今でも続いているそうだ。
村の集会も兼ねている庚申講。
会所に掛軸を掲げて手を叩く。
ご馳走も食べる講中の行事。
昔は上居寺で行っていたようだ。
閏年には庚申さんの「モウシアゲ」もある。
かつては旧暦の営みであったが、今では新暦の閏年。
4月頃にしていると云うから隣村の稲渕と同じ頃であろう。
村の人が念仏を唱えて参っていたが、亡くなられてからは手を合わすだけになったと話す。
当時の場は上居寺。
庚申石がある前での営みであったが、会所ができた10年前ぐらいからは場を移したようだ。
さて、宮迎えの神事である。
この日は宮迎えをされて数時間後には宮送りをする上居のヨイミヤ行事。
かつては15日に大きな御幣を持った宮司が各戸を巡って、家にあった竃を祓い清めていた。
旧講の家を巡って新講の各戸を巡る。
月当番の人が準備した湯釜。
お湯を沸かして笹の葉を浸けた。
いわゆる御湯の儀式もあった。
16日はヨイミヤである。
旧講のトヤ家で行われていた「仮宮の神事」。
タイにブリ魚やサトイモ・シイタケ・コーヤドーフ・ゴボウなどの煮もの、コンニャクの白和えなどの椀。
搗いたモチで講員に振舞っていた。
神饌御供は三方に載せた生きた鯉もあった。
暴れないように目を紙で覆っていたのは旧講である。
一方、新講の御供は山や野の幸を盛った「立て御膳」があった。
野菜盛りの立て御膳はサトイモの茎を立ててエダマメとシイタケを添えてコンブで巻く。
芋頭、サトイモ、ダイコン、ニンジン、エダマメを水引で括った御供もあった。
トヤ家によっては異なるものの主な果物はザクロ、カキ、ミカンもあった。
「仮宮の神事」と呼ばれていたのは宮迎えである。
会所に設えた祭壇にはヤカタがある。
4年前までは二つの宮講とも古いヤカタがあったが、村行事となった際に新調されて一つにした。
古いほうは倉庫に納めてあると云う。
かつて講中が使っていた講箱もある。
三方や椀、器などを納めていたのであるが、時代年を示すような文字は見られなかった。
宮迎えの神事には村で数々の奉仕活動をしている「景観ボランティア明日香」男性たちも加わる。
平成20年に『明日香村上居地区聞取り調査報告』書を纏められた団体である。
詳しく調査されたその史料によって知った上居の行事である。
1軒の村入りされた男性は村の祭りに出仕されるのは初めて。
「なにがなんだか判らない」と云いながらも村行事のお手伝いをする。
上居に神さんを呼び起こす神事が始まった。
それが宮迎えである。
5時間後には宮送りをされる神事。
かつては一年後に行われる宮送りは当日に行われる。
神さんが滞在するのは半日になってしまったと宮司は話す。
日の丸御幣を立てて、鯛・ザクロ・ミカンなどの神饌を供えて厳かに神事が行われる。
ポン、ポンと柏手を打って祓え詞を奏上する。
拝礼されて竹の御幣を振って普段着姿で参集した人たちを祓う。
「オォーー」と唸るような声で神さんを呼び起こし、祝詞を奏上する。
一同揃って2礼、2拍手、1礼で終えた。
宮迎えの神事を終えてから続行される行事の作業。
搗いたモチは鏡餅とたくさんのコモチ。
一つ一つを袋詰めする。
撒いたモチが土で汚れないように配慮している。
袋には番号が書かれていた。
アタリであれば景品をもらえるのである。
こうしてようやく一段落した昼どき。
会所で村のヨバレをいただく歓談の場に移る。
それから1時間半後。
上居寺でモチマキが始まる。
搗いたコモチは御供ではない。
供えるのは鏡餅である。
御供を撒くのであれば「ゴクマキ」。
上居では御供でないことから「モチマキ」と呼ぶのである。
モチマキにはバチで太鼓を打つ。
「ドンドドン ドンド ドンドン」を繰り返す太鼓打ちは呼出の合図。
昭和32年に貼り替えた太鼓は大阪浪速区の太鼓正製。
かつては村に大勢の子供が居た。
今ではそのような面影もなく年寄りばかりだと話す。
多武峰から下って来たハイカーも誘ってのモチマキが始まった。
喜んでアタリを掴んだ人も居る。
数年前に訪れた男性はモチマキに遭遇した。
そのことがきっかけになって「景観ボランティア明日香」の活動に居座ったという男性は村の出合いに感謝していた。
アタリのモチを手渡して景品を受け取る姿が微笑ましい。
かつては四人の子供が乗りこんで太鼓台で打っていた。
青年団が2、30人がかりで担いで村を巡行していた。
担いできた太鼓台を降ろす際、そろりとではなく、ドスンと勢いをつけて下ろしていたと云う。
太鼓台は17日のマツリの日も繰り出していた。
昭和19年の様相である。
担ぎ手が少なくなった昭和25、6年辺りに途絶えて、今では担ぐこともなく宮さんで保管されている。
朽ちている太鼓台はいずれ復活させたいと話す総代やボランティア団体。
この日はヨイミヤ。
太鼓台が巡行していた時代は翌日がマツリだった。
いつしか担ぐこともしなくなり、一日限りのヨイミヤになった。
4年前までのヨイミヤは19時に出発していた。
べろんべろんに酔って出発した春日神社への参道にはたくさんの行燈を並べて燈していたと云う。
それが宮送りの参道であったが、今では神社拝殿に家の提灯だけになったようだ。
午後3時から始まった宮送りの神事には3人のトヤ(当屋)・マエトヤ(前当屋)・アトトヤ(後当屋)が狩衣に着替えて参列する。
トヤは金色に近い玉虫色の狩衣。
マエトヤは金地で、アトトヤは藤色である。
3人とも白い鉢巻で締めた烏帽子を被って狩衣装束を身につけた。
手には扇を持つ。
村人たちはお揃いの法被姿だ。
その頃は春日神社で湯釜のシバ焚きに火を点けて湯を沸かしていた。
立て御膳など神饌はすでに運ばれていた。
出発前に会所で宮送りの神事をされる。
宮迎えをされた同じ祭壇。
日の丸御幣を立てて神饌を供える。
宮迎えでは見られなかった鏡餅がある。
稲穂、ニンジン、シイタケ、コーヤドーフを盛った御供もあった。
前に座った3人のトヤ。
中央がトヤで、右隣がアトトヤ、左側はマエトヤである。
ポン、ポンと柏手を打って、「かけまくも・・かしこき この里に鎮まり・・まおさく・・」と宮送りの祝詞を奏上される。
お渡りの出発に際して一同は2礼、2拍手、1礼。
「オォーー」と唸るような声で神さんを呼び遷した日の丸御幣はトヤに渡される。
マエトヤは竹の幣である。
会所に立ててあった注連縄は取り外されてアトトヤに渡された。
それから生きた鯉に酒を飲ませる。
ごくごくと飲んだかどうかは鯉に尋ねるが答えは返ってこない。
こうすればしばらくは跳ねないという。
出発直後に第一声の「ゴイノゴイノゴイ」が始まった。
会所の前に並んだ日の丸御幣持ちのトヤと竹幣を持つマエトヤ。
鳥居と呼んでいた2本の竹を持ったのはアトトヤだ。
村人も持っていた日の丸の扇を高く揚げて唱和する。
「ゴイノゴイノゴイ」とは何であるのか。
何人かが云った返答は「ゴエイノゴエイ」が訛って「ゴヘイノゴヘイ」になったと云うが、私の耳には「ゴヘイノ ゴヘイノ ワーイ」に聞こえたのである。
お渡り道中の辻の2カ所でもされた「ゴイノゴイノゴイ」。
二つの宮講の行事であった当時は、それぞれのトヤが出御されて、落ち合う場で「ゴイノゴイノゴイ」を唱和していた。
聞取り調査報告書によれば「ゴイノゴイノゴイ」の意味は「御幣と御幣が合うてワアイ」だったそうだ。
春日神社に到着して輪になった一同。
最後は参列者全員が唱和をした。
到着するやいなやトヤが持っていた日の丸御幣は本殿前に納められた。
神饌を供えれば宮司による御湯が作法される。
村人は「ミノタキ」或いは「ミユタキ」と呼んでいたが、宮司曰く「オミユ」だと話す。
「ミノタキ」或いは「ミユタキ」を漢字にすれば「御湯焚き」である。
御湯の釜前に敷いた祭具。
アトトヤが持ってきた鳥居の笹と藁束である。
これを釜の前に扇のように広げた。
注連縄を張っていた2本の笹竹は拝殿前に立てた。
御湯の火は消さずにこんこんと焚き続ける。
竹の幣を持つ宮司は本殿に向かって神事を始める。
3人のトヤは拝殿の左。
かつては旧講・新講が座る位置は決まっていた。
神さんから見て、左側拝殿に旧講、右に新講であった。
祝詞を奏上する宮司。
ローソクで灯された提灯の灯り下で行われる。
ポン、ポンと柏手を打って笹の葉の幣を湯に浸ける。
もうもうと立ち上がる湯煙。
湯を掻き混ぜるようにすればさらに上がる。
湯笹を本殿に移して神事。
戻って村人たちに湯祓いをする。
ついてきた参拝者にも湯祓いをされる。
こうしてヨイミヤの宮送りを終えた一行は直会に移る。
供えたお神酒は白いカワラケに注いでいただく。
始めに旧講で、次が新講の順だったと婦人は話す。
お酒の肴は薄く切ったカキの実。
県内事例を数々拝見してきたがカキの薄切りは初見である。
お重に入れて供えたコモチも配られてヨイミヤを終えた。
かつては翌日の18にはマツリに続いて運動会もしていたぐらいに賑やかだった上居の在り方。
今では一日限りのヨイミヤ。
集まりやすい第三土曜日に行われている。
(H25.10.26 EOS40D撮影)