マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

南六条西福寺のお十夜

2014年03月21日 06時55分33秒 | 天理市へ
この夜は子供たちが楽しみにしていた西福寺のお十夜。

天理市南六条町の南方にある融通念仏宗派のお寺である。

融通正伝法から始まって、大和ご回在や施餓鬼などの行事を取材させていただいたお寺だ。

杵築神社境内で遊んでいた子供たちは定刻ともなれば西福寺にやってきた。

旧村檀家の子供たちだけでなく新町・ハイツに住む子供たちもやってくる。

「大勢の子供たちが喜んでくれて、行事を体験することで記憶に残る」と云うお寺さんの配慮で始めた行事である。

お堂に上がって参列した子供たち。

住職が営む法要が始まった。

十夜追善法要、塔婆回向に「三界萬霊 なむあみだー なむあみだーぶぅ」の念仏を唱える。

一人、一人が手を合わせて焼香をする。

法要を済ませば数珠繰りだ。

「大きな珠は仏さんのみたま(御霊)、珠が回ってきたら頭を下げて念じてください」と話す。

数珠繰りは子供たちが主役。



笑顔で数珠を繰る。

初めて体験する子供は見よう見まねで頭を下げる。

数珠繰りの回数は特に決まっていない。

参列は子供であるゆえ遅くまですることなく、適度な回数で終えると云う住職。

お寺の娘さんも檀家年番も一緒になって数珠を繰っていく。



終えた大珠の数珠は畳んで丸めた背中に当てる身体堅固。

ありがたく手を合わせる。

そうしてからふるまいのアズキ粥をいただく。

テーブルを運ぶのもお手伝いをする子供たち。

自然と身につく心構えである。

大鍋で炊いたアズキ粥は一升七合。



多少の塩で味付けをしていると話す年番さん。

一杯、一杯を椀によそってくださる。

現代っこにとっては初めての食感を味わう。



「もっと塩が欲しい」と云う子供には塩皿も運ぶ。

自家製の香物はハクサイ、千切りダイコンなど。この日の当番を勤めたYさん。

薬師さんや観音さんの月参りに涅槃さん、お大師さんなどで導師を勤めたご婦人だ。

「あんたも一緒になって食べてや」と云われて席につく。

美味しいご馳走はおかわりが何度も。



それほど美味いアズキ豆粥と漬けものを味わう十夜。

市販品の黄色いコウコも美味かった。



美味しさを感じる子供たちはいずれも笑顔で応える。

その後はお椀もお皿もテーブルを片付ける子供たち。

指示に従っているわけでもなく自然な動き。

家で教える親御さんの教えが染みついているのであろう。

この夜はまだまだ続く子供たちの集まり。

お楽しみはビンゴで終える。

(H25.11. 9 EOS40D撮影)

エースコックスーパーカップ1.5倍鶏南蛮そば

2014年03月20日 07時49分27秒 | あれこれインスタント
この日もカップ麺を車に積み込んで出発した。

お店が見つからない場合を想定して、ときおりそうする私の昼食。

手軽に食べてお腹を満たしてくれるカップ麺は重宝する。

お湯を入れて待つこと3分間。

1.5倍の量であっても3分間である。

イオンスーパーセンターで買っておいたエースコックのスーパーカップ1.5倍鶏南蛮そばは冬季限定版。



蓋を開けて特製の黄金鶏油仕立てをできあがりに入れる。

香味がぷぅんと上がってくる。

黄金というが、黒い色の鶏油だ。

大き目のネギは盛りだくさん。

薄く切ったカマボコは3枚だったか。

そば麺は食べやすくてスルスル。

鶏肉も薄く切ってある。

味付けはしていないようだが、香ばしい味に馴染んだ南蛮そばである。

(H25.11. 9 SB932SH撮影)

はらぺこ食堂のとんかつ弁当

2014年03月19日 07時25分46秒 | あれこれテイクアウト
さて、何を食べるか、この日の昼食。

仕事を終えてまっしぐらに向かった国道24号線の西九条町交差点。

そこの南西角地にある「はらぺこ食堂」。



9月初めころから度々に亘ってお買い物。

本来は店内で食べるのだが、私は持ち帰り弁当だからお買い物だ。

これまでからあげ弁当、やきにく弁当、ミンチカツ弁当を買って食べた。

味、ボリュームたっぷりの弁当は他にもあるから、いつも迷いがでるお弁当はどれもこれも350円。

格安弁当である。

お弁当は店内では食べることができない持ち帰り専用。

持って帰って自宅の食卓に広げる。

本日のお弁当はとんかつ弁当だ。

どでーんと居座ったとんかつは今にもはみ出しそうだ。

下には千切りのキャベツが下敷きになっている。

とんかつにはソースがつきもの。

手作りではなくメーカー品だ。

醸製と書かれたソースはカゴメのトンカツソース。

ミニパックの袋入り。



弁当の蓋を開けて始めに箸をつけたのは云うまでもなくとんかつだ。

サク、サク、サクサク感をたっぷり感じる舌触りがたまらない。

それだけでも美味しいのだが、カゴメのソースを垂らして食べた。

豚肉の品種は知らないが、ジュワジュワで柔らかい。

肉汁は見られなかったが、サクサクのジュワジュワである。

ご飯がすすむに決まっているとんかつの味に惚れ惚れする。

ご飯は滋賀県産らしいが、近江米とまではいかないだろう。

ほくほくするご飯はいつも美味しくいただける。

量もたっぷり入っているから、腹八分目以上にもなった。

副菜はどうなんだろうか。

炒めたのか、湯通しだけなのかさっぱり分からないモヤシ。

味も薄味、なんで味付けしたのか判らない。

白菜の漬物はまぁまぁだけど、これまた味が不明のスパゲティ。

塩味、それともバター味・・・何だろうか。

胡椒もないからインパクトを感じない。

下にはとんかつ同様に刻んだキャベツもあるが、何だろう。

僅かに感じたドレッシング。

いや、何だろう。

複雑な味はごめんである。

次回は再び戻ってからあげ弁当にしようか。

そう思ったのが、店内でいただく500円のからあげ定食。

なんと大きなからあげが山盛りのように盛っている。

豪快な盛りつけに感動したのであるが、注文されたのは他人さんだ。

他人で思い出した。

はらぺこ食堂には持ち帰り弁当のほか、丼もある。

そのうちの一品に他人丼がメニューにあった。

これも350円である。

(H25.11. 6 SB932SH撮影)

下平田庚申講のサンノンサン

2014年03月18日 06時59分28秒 | 明日香村へ
12月に地区集落を巡るイノコ行事が行われている明日香村下平田の住民。

11月5日には「サンノンサンをしているんです」と話していた。

「サンノンサン」と呼ぶ行事が何であるのか、である。

下平田の住民がお参りをする場は宮内庁管理地の吉備姫王墓。

4体の猿石が並んでいる聖地である。

お参りされるのは猿石のひとつになる「山王権現」だ。

「山王権現」を崇敬する下平田の住民は親しみを込めて「サンノンサン」と呼んでいたのである。

村の行事ではあるが、「山王権現」を祀る場は宮内庁が管理する吉備姫王墓が写り込むと思われた。

王墓などを含めて被写体となる場は撮影許可を要する。

そのことは「明日香村写真等取り扱い要綱」に掲載されている。

明日香村史跡のほとんどが撮影・掲載許可を要するのである。

「サンノンサン」の行事をされているのかどうか、下見を兼ねていたこの日。

万が一と判断して管理事務所の掖上部事務所・宮内庁職員に取材の申し出をした結果は、申請書・許可書の取得である。

突然の申し出に本部の橿原市の書陵部畝傍陵墓監区事務所管理者へ連絡をされた。

結果は、「行事でならば」ということでの了承である。

撮った写真の提出は不要であるが、事後の撮影・掲載許可書を要する取材となったこの日。

管理事務所とのやり取りを経て行事取材に入った頃、王墓前に下平田の婦人たちが集まってきた。

男性もおられるがほとんどが婦人である。

「サンノンサン」の件を話して下さった総代の奥さんも来られた。

村の行事であるが、斎壇の設営は宮内庁職員だ。

いつの頃から始まったのか判らないが、毎年はこうして村の行事に協力をしていると云う。

事務所職員が替られても、引き継ぎ事項にあるお役目に代々が継いでそうしてきたと話す。

4体の猿石は右から「男」、「僧(法師とも)」、「山王権現」、「女」だそうだ。

元禄二年(1689)、梅山古墳付近にあった平田村池田の田んぼから掘り出された猿石は5体であった。

明治時代初めに吉備姫王墓内に移された4体。

もう1体は高取城跡登山道に運び込まれたようだが、何時ごろ誰の手によって何のために分けたのか伝わっていない。

いずれにしても下平田の住民が崇めるのは「山王権現」である。

下平田の婦人たちがやって来た頃、宮内庁職員らは王墓の前に斎壇・酒器の瓶子を置く。



その前にお供えをされる婦人たち。

基壇に上がる際には、職員含め、全員が一礼をされて頭を下げている「サンノンサン」。

一斉に供えることなく、供えれば基壇下で待つ。

すべての人たちのお参りを済ませたとことを確認した職員はお神酒を参拝者に授ける。

参拝者は行列をなしてお神酒配りに並ぶ。



一同はありがたいお神酒をいただくのである。

こうしてお参りを済ませば、御供を下げて参拝者に配られる。

宮内庁が供えた御供も配られて解散した。

「サンノンサン」はお産の神さんだと話す下平田の総代。

呼び名は山王権現さんが訛ったようだと話す。

子供が欲しい人、無地に生まれてほしいと願う人が参る猿石の「山王権現」。

お宮参りでは氏神さんになる上平田の春日神社に参ってから「サンノンサン」にも参ると云う。

「サンノンサン」は「産ノンサン」のご語呂合わせによって生まれた地域の信心風習。

願う婦人たちが参られるのも納得するのである。

参拝された婦人たちはこの夜に講中のヤド家に集まる。

北垣内(10戸)、南垣内(10戸)それぞれにある庚申講のヤドでの営みはヤドヨバレの会食である。

普段は60日サイクルで営まれる庚申講は男性の寄り合い。

この日の夜は講中婦人の寄り合いである。

かつてはご馳走でもてなしていたが、今はパック詰め料理。

年に一度の寄り合いに婦人だけの時間を過ごす。

(H25.11. 5 EOS40D撮影)

上比曽のイノコ

2014年03月17日 07時44分34秒 | 大淀町へ
稲の藁を手にした子供たちが地区を巡っていく。

大淀町の上比曽の子たちだ。

出かけた先は新婚さんの家。

前庭で持ってきた稲の藁を振り上げて地面を叩く。

そのときに唄われる詞章は「ここの嫁さん いつもろた 三月三日の朝もろた イワシさんびき 酒五合 しんまい藁で祝いましょ」。

これを繰り返して、地面を打った稲の藁は家の屋根に放り上げる。



なぜにこのような行為をするのか判っていない。

屋根に上げられた稲の藁は自然に返るまでそのままにしていると云う。

婿さんをもらった家では、「ここの婿さん いつもろた 五月五日の朝もろた」の詞章に替るらしい。

新米藁で叩くのは村の収穫を祝った作法。

新婚さんの家でするのは、子供の誕生の願い。

いわば村の子孫繁栄を願う行為である。

新婚家の繁栄は村の繁栄に繋がる、いわば、収穫を祝う農村の生産は地区の繁栄でもあるのだ。

叩く稲の藁は「どてんこ」と呼ばれていた。

「・・・祝いましょ」に続いて、「どてんこ どてんこ」と囃していたことを思い出す。

前日の村の人が集まって「どてんこ」を作っていたそうだ。

中にはダイコンの葉を詰めている。

稲の藁だけであれば、軽くて地面を叩くには力が要るし、叩いたときには音が出にくい。

そういうことでダイコンの葉を詰めている上比曽の「どてんこ」。

この年は大勢の子供たちで3軒の新婚家を祝ったが、新婚家がなければイノコ行事は行われない。

数年前は新婚の家はなかった。

前年は3軒だったが、私が初めて取材した平成19年は1軒だった。

数年間なくて、平成23年、24年、25年と続く新婚家。

旧村でありながら、これほど新婚さんが多いことに希望がもてる村の繁栄。

稲の藁には地下に潜む悪い霊魂を鎮める力があるとされる。

地面を叩いて田畑が豊かに実るよう祈っていた。

多産のイノシシにあやかり子宝に恵まれるように、新婚の家の繁栄に願いを込めるイノコ行事は県内各地の多くにあったが、今は数少ない。

桜井市の高田で行われている「いのこ暴れ」もその一つだ。

高取町の佐田にもある。

高取町では薩摩や兵庫も行われていたと聞いている。

明日香村の下平田も継承されている。

田原本町の味間では藁棒で叩くデンボ突きが中断したが、新婚家の祝いは今でも続いている。

桜井市の箸中においても新婚家を祝う亥の子祭があった。

「亥の子の晩に 餅のつかん家は 煎茶のどんぶり粥 嫁さんと婿さんとさねててかへ 起きててかへ 新米藁を祝たろわ」と囃していた。

夕暮れの頃、中垣内の子供たちは嫁さんをもらった家とか婿養子をとった家に出かけて、藁棒で地面を叩いていた。

少子高齢化の時代。

いつしか子供もいなくなって、新婚家も見られなくなった。

この年もなかったと聞いている。

昭和36年に発刊された『桜井市文化叢書 民俗編』には笠地区で「笠の亥子」があったと記されている。

12月22日のことである。

サトイモのズイキを稲藁に包んだ棒を子供が持って集落を巡った。

夕方に各家の門を叩いて始めたイノコの所作。

囃していた唄は「いのこの晩に 餅搗かぬ者は せん茶のどぶどぶ ここの姉さん寝てか 起きてか 新米藁で祝たろけ 千夜来い万夜来い 大鼓のほそねじしよないから 大根からい 人参しよ人参あるまい一本しよ」であった。

村の人に尋ねてみたが、見たことも聞いたこともないと云うから随分前に途絶えたようである。

かつて田原本町の味間でも同じように「イノコの晩に モチの搗かん家は・・・云々」と囃子たてて新婚の家を巡ってデンボで叩いていた。

「イノコの晩に モチ搗かん家は おうちのねーさん起きなはるか 寝てはるか・・・」と思い出す農家の人もいた。

同町の笠形ではホウデンと呼ばれる藁ズトで地面を叩きながら「嫁はん起きてるけ 寝てるけ 新米わらでいぉたろけ」と囃していた事例が『田原本町の年中行事』に残されている。

同本には「亥の子の晩に 餅つかん家は せんちゃのどんぶりこおきみやん(人名)起きてるけ 寝てるけ 新米わらでいぉたろけ」の東井上地区。

「亥の子の晩に 餅つかん家は ・・・ ここのねえさん起きてるけ 寝てるけ」だった多地区などもあった。

平成18年に発刊された『続 明日香村史 中巻』によれば、檜前地区にもあったようだ。

子供たちがデンボと呼ぶ稲の藁を作って「亥の子の晩に 餅つかん家は 箸でいえ建てて 馬のフンで壁塗って ボボの毛で屋根葺いて ここの嫁さんいつもろた 三月三日の朝もろた イワシ三匹 酒五合 しんまい藁で祝うたろう もうひとつおまけに祝うたろか」と囃していた。

平成11年に発刊された『奈良県立民俗博物館だより』にも明日香村下畑地区で行われていたイノコまつりが書かれている。

各家を巡って「ホーレン」と呼ぶ稲の藁で打ちつけていた。

内部には「クワエのヤ」を入れていたとある。

詞章は「いのこのばんに おもちつかんいえに はしでいえたて かやでやねふき うしのくそでかべぬって ここのよめさんいつもらう 三月三日のあさもらう」であった。

かつては旧暦の11月15日であったが、12月1日に移ったとあるが、戦時中に中断したようだ。

上平田ではデンゴロモチと呼ばれる藁棒であった。

「いのこのばんに もちつくいえは はしのいえたてて うまのけで やねふいて ここのよめさん いつもろた 三月三日のあさもろた いわし三匹 さけ五合 しんまいわらで いおてやる」と囃して新婚の家を中心に各戸を回っていた。

越(こし)でも同じくデンゴロモチと呼ばれる藁棒だった。

「いのこのばんに もちのつかんいえは はしのいえをたてて うまのくそで やねふいて しんまいわらでいおてやろ ここのよめさんいつもろた 三月三日のあさもろた いわし三匹 さけ五合 しんまいわらで いおてやろ」と囃して新婚の家を巡っていた。

ここで気になったのが屋根に稲藁を放り投げる上比曽の在り方である。

各地域の詞章に見られた「屋根葺き」である。

「ボボの毛で屋根葺いて」とか「かやでやねふき」がある。

もしかとすればだが、稲藁はカヤ葺きに際して投げられるカヤの束ではないだろうか。

カヤ屋根を補修する場合に行われるサシガネ。

屋根に上がった職人は一本、一本を挿し込んでいく。

一旦下に下りることなく、屋根に揚げて補給する。

その作業を模しているのでは、と思ったのである。

このようなイノコの行事にはイノコノモチ、アンツケモチ、ボタモチなどとよばれるモチがつきものであった。

「モチツクイエ」、或いは「モチツカンイエ」の台詞がそのモチを意味するのであろう。

東山地区では餅を搗かない家を「いのこのばんに もちつかんうちは・・・・」と囃した。

それはとんでもないケチであると揶揄されたという台詞であった。

また、天理市の藤井でもかつてイノコもあったそうだ。

男の子が村中を歩いて「いのこのばんに モチつかんいえは・・・しんまいワラでいおぅたれ ぺったんこ ぺったんこ」の囃子言葉があったことを六人衆が思い出された。

家の門口をワラ棒で叩いたあとは菓子をもらったそうだ。

昨年に取材した故郷の大阪南河内郡の河南町では「いのこ いのこ いのこのばん(晩)に じゅうばこ(重箱) ひろて(拾うて) あけて(開けて)みれば きんのたま はいた(入った)ったー ちょこ(しっかりの意)いわい(祝い)ましょ ことし(今年)もほうねん(豊年)じゃ らいねん(来年)もほうねんじゃ おまけ」であった。

その昔はもっと卑猥な台詞があったことを聞いた。

重箱と言えば天理市の楢町にあった興願寺の亥の子の十夜。

「十夜の晩に 重箱ひろって あけてみれば ホコホコまんじゅう にぎってにれば 重兵衛さんの キンダマやった」と歌ったそうだ。

それは如来さんのご回在の日であって如来イノコと呼んでいたと『楢町史』に記されている。

重兵衛さんの台詞は消えた河南町であるが、重箱といい、キンノタマは同じだ。

遠く離れた大阪と天理に繋がる詞章があったことに驚きを隠せない。

昭和28年に発刊された『奈良縣総合文化調査報告書』では吉野川流域・龍門地区のイノコ行事の一節が紹介されていた。

亥の子の日にはイモモチを作った。

ダダイモと呼ぶサトイモをご飯とともに搗き混ぜる。

小豆の餡を塗したオハギである。

作るのは慶びごとのあった家だ。

この日に若衆(子供)が祝いに行くと云って、ボテと呼ぶ新米藁で作った藁棒。

内部にはクワイ(慈姑)の「ヤ」というところに入れた。

そうすることでよく音がするとある。

それがどの地区であったのか記されていないが各地区の詞章が書かれてあった。

吉野町香束では「いのころもちの おねさんわ ねててかな おきてかな しんまいわらで いわいましょ」。

同町峯寺では「ここのよめさん いつもろた さんがつみつかのあさもろた しんまいわらで いわいましょ」だ。

同町西谷では「ここのよめはん いつもろた いわし三匹 酒五合 しんまいわらで いおたろか」である。

かつて行われていた県内各地のイノコ行事は史料に残るだけとなったが、山間、平坦問わずこれほど多くの地域で行われていたのである。

(H25.11. 3 EOS40D撮影)

都島東大美の日替わり定食

2014年03月16日 07時54分53秒 | 食事が主な周辺をお散歩
おふくろが退院して始めての診断は特に問題もなく通院も不要だと結果がでた。

たぶんそうであろうと前祝いの昼食に選んだお店は「東大美(ひがしだいみ)」の和食店。

およそ一カ月ぶりに入店した。

案内された店内奥は前回と同じお座敷個室である。

頼んだのは800円の日替わり定食。

この日のメニューはアナゴ・野菜天ぷらがメインである。

白菜の和えものや漬物、汁椀にデザートが付いて800円。

お得な日替わり定食が膳に盛ってテーブルにつく。

天ぷらの香りが食欲をそそる。



天ぷらの内容は、アナゴに大葉、イモ、ナスビ野菜にマイタケもある。

最初に口にしたアナゴの天ぷら。

厚みのあるアナゴである。

ほくほくして美味しいさっぱり味。

柔らかい感触はアナゴの品性だ。

野菜もおいしくいただいてご飯がすすむ。

お米が美味しいのも炊き方にあるのだろう。

白菜の和えものに白いものがある。

豆腐和えなのかと思ったが、違った。

玉子の白身なのである。

ふんわり感が舌に纏わる優しいお味だ。

汁椀含めてあっと云う間にたいらげた日替わり定食。

ちなみにおふくろは前回同様の肉のすき鍋定食。

前回は日替わりだったので800円だったが、この日は普段通りの値段で950円。

美味しさは同じだと云う。

(H25.10.30 SB932SH撮影)

ソフト・ランディング

2014年03月15日 08時19分16秒 | むびょうそくさい(おかん編)
2カ月間、毎週のように診断・通院していた超高齢者のおふくろが入院・手術した。

人生初の手術に耐えて無事に退院し自宅療養をしていた。

その後の診断結果は良好である。

通院・入院していた病院の頭上を降りてくる着陸前のジェット機を見上げていつも喜んでいた。

おふくろも同じようにソフト・ランディングするだろうと見ていた手術直後の着陸態勢の機体だ。

(H25.10.11 SB932SH撮影)
(H25.10.30 記)

野江国道筋商店街のホルモン焼きそば

2014年03月14日 09時37分22秒 | あれこれテイクアウト
大阪市内の都島にでかけることになった。

都島本通には格安のお店がたち並ぶ。

目に着いたのは国道を隔てて両端にあるお店。

一軒は王将の名があった。

そこのカンバンにはラーメンが280円。

向かい側のラーメン専門店は290円。

競争しているのだろうか。

両店の味も知りたいが、この日はどうしても味を試してみたかったのはホルモン焼きそばだ。

前夜に食べたシマチョウ。

トライアル大和小泉店で売っていたのは半額。

これに釣られて買ったこともあるのだが、それ以前より一度は食べたいと思っていたシマチョウはホルモンの一品。

塩と胡椒だけで味付けして焼いたシマチョウは格別の味だった。

そういうこともあってこの日、おふくろが入院していた病院から足を伸ばして買いにきたホルモン焼きそば店

その店は野江国道筋商店街にある。

並みのホルモン焼きそばは380円。

これが食べたくてお店に行った。

お店には夫妻と思われるお二人が仕事をしている。

顔を見るなり注文したホルモン焼きそば。

早速、作業に入った鉄板に広げた焼きそば。



ジュージューと焼いてホルモンを入れる。

塩、胡椒を振り掛けて掻き混ぜる。

実に早い手つきで焼きあげる。

ソースを垂らして出来あがり。

「ご飯がサービスで付いてきますが、どうしましょう」と云う。

「えっ、ご飯がサービスなの?」。

平日、土曜のサービスは午後1時半まで。持ち帰りであってもサービスがあるというありがたさ。

店内でいただけば漬けものもサービスしているという。

ありがたいホルモン焼きそば店は先月の9月17日にオープンしたばかり。

いつまで続けられるか聞かなかったが、永く続くことを願っている。

持ち帰ったホルモン焼きそばはその場で食べずに今夜のおかずになる。

晩飯時間はお風呂から出ての夜8時。

いつもの時間帯である。

昼ごろ作ってくださったホルモン焼きそばは冷たい。

仕方なくレンジでチンする。

チンタイムは適当。

温かくなればいいのである。



蓋を開ければほくほくの湯気が出るくらいだから丁度良い。

箸で束ねた焼きそばが、ずずっと上がる。

口に入れる。

美味いのである。

コクがあるというのか、今まで味わったことのないホルモン味が染みている焼きそばはツルツル上がる。

ホルモン肉は柔らかい。

黒っぽいのもあるが、白いのもある。

いずれもコク味のホルモンはご立派。

量は少ないがキャベツ、タマネギが絡んだ麺も美味い。

ホルモン焼きそばの味に感動する。

これで380円とは恐れ入った。

ちなみにちょっとだけ食べたご飯も美味しい。

機会があれば再購入したいホルモン焼きそばは奈良で売っているのか。

今のところ聞き及ばない。

(H25.10.30 SB932SH撮影)

山田原のまつり

2014年03月13日 07時52分44秒 | 大和郡山市へ
送迎者のTさんが見かけたという山田原のマツリ。

コミュニティセンターではたくさんの野菜などを販売していたと云うからイベントだろうと思った。

Tさんが云うには、それだけでなく提灯も掲げてあったと云うから、それは祭りであろう。

この日がそうであるのか判らないが、山田原に立ち寄った現場はTさんが話していた通りだった。

集落の南側の辻にも提灯を掲げていたので祭りに違いないが、神社はどこなのだろうか。

センターにテントを張って購買者を待つ人たちが居る。

自治会の副委員長を紹介していただきお話を伺った結果は、山田原の祭りであった。

つい1時間前に終えたばかりだという愛宕さんを祭る神社は地区内にある。

神社の名称は白砂子(しらすなこ)神社である。

氏神さんは京都の愛宕神社から分霊を遷された火伏せの神さん。



八百萬の神々におかれて、当地に五穀豊穣、家内安全を願って山田原に鎮座され百十数年にもなると伝わる。

矢田連山麓にある山田原には生駒山より吹き降りる風に耐え、谷間より流れる水の恵みを受ける田畑地。

村を防火して栄えたらんと願う行事であったようだ。

神官は筒井在住の宮司さん。

神事を終えて帰路についたばかりだと話す。

愛宕大神社・八百萬の石塔を祭る白砂子社は平成9年に社を建之された。

何年か前までは矢田坐久志玉比古神社と同じ日に祭りをしていたが、矢田のふるさと祭りが盛況になったことから祭事日を替えることになったと話す。

この日はふるさと祭りでも売っていたみたらし団子も販売される。

人気の商品はなんと50円である。

来年には是非とも取材させていただきたく了承を得ておいた

(H25.10.27 SB932SH撮影)

上居のヨイミヤ

2014年03月12日 07時22分55秒 | 明日香村へ
宮送りのお渡り道中の際に「ゴイノゴイノゴイ」を唱和すると総代から聞いていた明日香村の上居(じょうご)のマツリ。

その様相を拝見したく訪問した。

上居は村全戸で19戸。

欠席もあるが、朝8時から16人ほどが集まって上居寺でモチツキをしていた。

杵と臼で搗くと話していた一斗のモチツキは、既に終わっていた。

二升半ずつ搗いたモチは四臼。そうとうな量である。

村の祭りに出仕されるのは飛鳥坐神社の飛鳥弘文宮司。9カ大字の神社を兼務する。

その数、三十社もあると云う。

日の丸御幣や祓えの幣を作っておられる。

何度か明日香村の行事も撮らせていただいたお礼を述べてお話を伺った。

上居を開地されたとされる宮講は7戸(当初は8戸)だった。

当初はそうであったが、その後に村入りされた家が5、6戸。

戸数が増えた上居の村。

村入りされた人たちは新しく宮講を作った。

5戸だったそうだ。

旧講と呼ばれていた7戸に対して、新しくできた講が新講と呼ばれるようになった。

それぞれの講のトヤ(当屋)家では一年間もヤカタに神さんを祀っていた。

かつてはコヨリで吊り上げるクジで年番のトヤを決めていた。

春日神社の祭りを維持するのが年々に難しくなり、宮講を改めて4年前に村行事に移したと話す。

宮講があった頃は、それぞれのトヤ家に分霊を受けた神さんをヤカタに祀って毎日を灯明で燈していた。

村行事に移した機会に場は村の会所に移した。



玄関に設えた竹二本に注連縄を張っていた。

右に笹の葉の竹。

左は稲穂を巻いた竹である。

これはのちほどに行われるお渡りに持っていかれる。

50年も前、コンピラサンの行事もあった上居。

伊勢講もあったが5年前に止められたが、庚申講は今でも続いているそうだ。

村の集会も兼ねている庚申講。

会所に掛軸を掲げて手を叩く。

ご馳走も食べる講中の行事。

昔は上居寺で行っていたようだ。

閏年には庚申さんの「モウシアゲ」もある。

かつては旧暦の営みであったが、今では新暦の閏年。

4月頃にしていると云うから隣村の稲渕と同じ頃であろう。

村の人が念仏を唱えて参っていたが、亡くなられてからは手を合わすだけになったと話す。

当時の場は上居寺。

庚申石がある前での営みであったが、会所ができた10年前ぐらいからは場を移したようだ。

さて、宮迎えの神事である。

この日は宮迎えをされて数時間後には宮送りをする上居のヨイミヤ行事。

かつては15日に大きな御幣を持った宮司が各戸を巡って、家にあった竃を祓い清めていた。

旧講の家を巡って新講の各戸を巡る。

月当番の人が準備した湯釜。

お湯を沸かして笹の葉を浸けた。

いわゆる御湯の儀式もあった。

16日はヨイミヤである。

旧講のトヤ家で行われていた「仮宮の神事」。

タイにブリ魚やサトイモ・シイタケ・コーヤドーフ・ゴボウなどの煮もの、コンニャクの白和えなどの椀。

搗いたモチで講員に振舞っていた。

神饌御供は三方に載せた生きた鯉もあった。

暴れないように目を紙で覆っていたのは旧講である。

一方、新講の御供は山や野の幸を盛った「立て御膳」があった。

野菜盛りの立て御膳はサトイモの茎を立ててエダマメとシイタケを添えてコンブで巻く。

芋頭、サトイモ、ダイコン、ニンジン、エダマメを水引で括った御供もあった。

トヤ家によっては異なるものの主な果物はザクロ、カキ、ミカンもあった。

「仮宮の神事」と呼ばれていたのは宮迎えである。



会所に設えた祭壇にはヤカタがある。

4年前までは二つの宮講とも古いヤカタがあったが、村行事となった際に新調されて一つにした。

古いほうは倉庫に納めてあると云う。

かつて講中が使っていた講箱もある。

三方や椀、器などを納めていたのであるが、時代年を示すような文字は見られなかった。

宮迎えの神事には村で数々の奉仕活動をしている「景観ボランティア明日香」男性たちも加わる。

平成20年に『明日香村上居地区聞取り調査報告』書を纏められた団体である。

詳しく調査されたその史料によって知った上居の行事である。

1軒の村入りされた男性は村の祭りに出仕されるのは初めて。

「なにがなんだか判らない」と云いながらも村行事のお手伝いをする。

上居に神さんを呼び起こす神事が始まった。

それが宮迎えである。

5時間後には宮送りをされる神事。

かつては一年後に行われる宮送りは当日に行われる。

神さんが滞在するのは半日になってしまったと宮司は話す。



日の丸御幣を立てて、鯛・ザクロ・ミカンなどの神饌を供えて厳かに神事が行われる。

ポン、ポンと柏手を打って祓え詞を奏上する。

拝礼されて竹の御幣を振って普段着姿で参集した人たちを祓う。

「オォーー」と唸るような声で神さんを呼び起こし、祝詞を奏上する。

一同揃って2礼、2拍手、1礼で終えた。

宮迎えの神事を終えてから続行される行事の作業。



搗いたモチは鏡餅とたくさんのコモチ。

一つ一つを袋詰めする。

撒いたモチが土で汚れないように配慮している。

袋には番号が書かれていた。

アタリであれば景品をもらえるのである。



こうしてようやく一段落した昼どき。

会所で村のヨバレをいただく歓談の場に移る。

それから1時間半後。

上居寺でモチマキが始まる。

搗いたコモチは御供ではない。

供えるのは鏡餅である。

御供を撒くのであれば「ゴクマキ」。

上居では御供でないことから「モチマキ」と呼ぶのである。



モチマキにはバチで太鼓を打つ。

「ドンドドン ドンド ドンドン」を繰り返す太鼓打ちは呼出の合図。

昭和32年に貼り替えた太鼓は大阪浪速区の太鼓正製。

かつては村に大勢の子供が居た。

今ではそのような面影もなく年寄りばかりだと話す。



多武峰から下って来たハイカーも誘ってのモチマキが始まった。

喜んでアタリを掴んだ人も居る。

数年前に訪れた男性はモチマキに遭遇した。

そのことがきっかけになって「景観ボランティア明日香」の活動に居座ったという男性は村の出合いに感謝していた。



アタリのモチを手渡して景品を受け取る姿が微笑ましい。

かつては四人の子供が乗りこんで太鼓台で打っていた。

青年団が2、30人がかりで担いで村を巡行していた。

担いできた太鼓台を降ろす際、そろりとではなく、ドスンと勢いをつけて下ろしていたと云う。

太鼓台は17日のマツリの日も繰り出していた。

昭和19年の様相である。

担ぎ手が少なくなった昭和25、6年辺りに途絶えて、今では担ぐこともなく宮さんで保管されている。

朽ちている太鼓台はいずれ復活させたいと話す総代やボランティア団体。

この日はヨイミヤ。

太鼓台が巡行していた時代は翌日がマツリだった。

いつしか担ぐこともしなくなり、一日限りのヨイミヤになった。

4年前までのヨイミヤは19時に出発していた。

べろんべろんに酔って出発した春日神社への参道にはたくさんの行燈を並べて燈していたと云う。

それが宮送りの参道であったが、今では神社拝殿に家の提灯だけになったようだ。



午後3時から始まった宮送りの神事には3人のトヤ(当屋)・マエトヤ(前当屋)・アトトヤ(後当屋)が狩衣に着替えて参列する。

トヤは金色に近い玉虫色の狩衣。

マエトヤは金地で、アトトヤは藤色である。

3人とも白い鉢巻で締めた烏帽子を被って狩衣装束を身につけた。

手には扇を持つ。

村人たちはお揃いの法被姿だ。



その頃は春日神社で湯釜のシバ焚きに火を点けて湯を沸かしていた。

立て御膳など神饌はすでに運ばれていた。

出発前に会所で宮送りの神事をされる。

宮迎えをされた同じ祭壇。

日の丸御幣を立てて神饌を供える。

宮迎えでは見られなかった鏡餅がある。

稲穂、ニンジン、シイタケ、コーヤドーフを盛った御供もあった。

前に座った3人のトヤ。

中央がトヤで、右隣がアトトヤ、左側はマエトヤである。



ポン、ポンと柏手を打って、「かけまくも・・かしこき この里に鎮まり・・まおさく・・」と宮送りの祝詞を奏上される。

お渡りの出発に際して一同は2礼、2拍手、1礼。

「オォーー」と唸るような声で神さんを呼び遷した日の丸御幣はトヤに渡される。

マエトヤは竹の幣である。

会所に立ててあった注連縄は取り外されてアトトヤに渡された。

それから生きた鯉に酒を飲ませる。

ごくごくと飲んだかどうかは鯉に尋ねるが答えは返ってこない。

こうすればしばらくは跳ねないという。



出発直後に第一声の「ゴイノゴイノゴイ」が始まった。

会所の前に並んだ日の丸御幣持ちのトヤと竹幣を持つマエトヤ。

鳥居と呼んでいた2本の竹を持ったのはアトトヤだ。

村人も持っていた日の丸の扇を高く揚げて唱和する。

「ゴイノゴイノゴイ」とは何であるのか。

何人かが云った返答は「ゴエイノゴエイ」が訛って「ゴヘイノゴヘイ」になったと云うが、私の耳には「ゴヘイノ ゴヘイノ ワーイ」に聞こえたのである。



お渡り道中の辻の2カ所でもされた「ゴイノゴイノゴイ」。

二つの宮講の行事であった当時は、それぞれのトヤが出御されて、落ち合う場で「ゴイノゴイノゴイ」を唱和していた。

聞取り調査報告書によれば「ゴイノゴイノゴイ」の意味は「御幣と御幣が合うてワアイ」だったそうだ。

春日神社に到着して輪になった一同。



最後は参列者全員が唱和をした。

到着するやいなやトヤが持っていた日の丸御幣は本殿前に納められた。

神饌を供えれば宮司による御湯が作法される。

村人は「ミノタキ」或いは「ミユタキ」と呼んでいたが、宮司曰く「オミユ」だと話す。

「ミノタキ」或いは「ミユタキ」を漢字にすれば「御湯焚き」である。

御湯の釜前に敷いた祭具。

アトトヤが持ってきた鳥居の笹と藁束である。

これを釜の前に扇のように広げた。



注連縄を張っていた2本の笹竹は拝殿前に立てた。

御湯の火は消さずにこんこんと焚き続ける。

竹の幣を持つ宮司は本殿に向かって神事を始める。

3人のトヤは拝殿の左。

かつては旧講・新講が座る位置は決まっていた。

神さんから見て、左側拝殿に旧講、右に新講であった。

祝詞を奏上する宮司。



ローソクで灯された提灯の灯り下で行われる。

ポン、ポンと柏手を打って笹の葉の幣を湯に浸ける。

もうもうと立ち上がる湯煙。

湯を掻き混ぜるようにすればさらに上がる。

湯笹を本殿に移して神事。

戻って村人たちに湯祓いをする。

ついてきた参拝者にも湯祓いをされる。

こうしてヨイミヤの宮送りを終えた一行は直会に移る。

供えたお神酒は白いカワラケに注いでいただく。

始めに旧講で、次が新講の順だったと婦人は話す。

お酒の肴は薄く切ったカキの実。

県内事例を数々拝見してきたがカキの薄切りは初見である。



お重に入れて供えたコモチも配られてヨイミヤを終えた。

かつては翌日の18にはマツリに続いて運動会もしていたぐらいに賑やかだった上居の在り方。

今では一日限りのヨイミヤ。

集まりやすい第三土曜日に行われている。

(H25.10.26 EOS40D撮影)