マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

エースコックスーパーカップ1.5倍カレーうどん

2014年03月11日 09時04分09秒 | あれこれインスタント
丸一日をかけての取材は昼時間がやってくるときに困る昼食。

弁当を持参する場合もあるが、予め買っておいたカップ麺を持ちこむことも多々ある。

上居での取材もそうなるであろうと思って持ってきたカップ麺。

この日はイオンスーパーセンターで買っておいたエースコックのスーパーカップ1.5倍カレーうどん。

冬季限定版である。

麺は90gとあるから、普通版の1.5倍。

お腹を満たす量である。

うどんはお湯を入れて5分間。



特製の香味油仕立てをできあがりに入れて食べる。

厚みがあってしかりとした歯ごたえ・コシのある麺だと評判らしいが、それほどでもない。

カツオ、ニボシ、サバなどの魚介出汁が利くと云う和風味も感じない。

冬季限定はどこにあったのか、それすらも舌が味わえなかったが、量だけは満足した。

(H25.10.26 SB932SH撮影)

雨の日の初瀬まつり

2014年03月10日 07時50分01秒 | 桜井市へ
萱森から下って長谷寺界隈を通り抜けた。

いつもなら立ち並ぶお店を横目で見ながら走らせるが、この日は與喜山天満宮秋祭りの初瀬まつりで長谷寺街道は神輿で一旦は通行止め。

雨が降るなかも神輿の巡行である。

遭遇した時間帯は14時頃。



これより宮入りされる途中であったようだ。

(H25.10.20 EOS40D撮影)

萱森頭屋祭の後宴

2014年03月09日 06時49分08秒 | 桜井市へ
前々日の夜は私祭の神祭(カンマツリ)をされていた桜井市の萱森。

頭屋祭とも呼んでいる村の行事には頭屋(頭人)の家に集まった太夫、二老、中老、副中老。太夫、頭人が幣振りをされて神輿に遷す。

饌米揚げや三膳盛りの神饌を捧げていたと云う。

翌日は朝から行われる頭屋祭と呼ばれる萱森のマツリ。

午前中に注連縄作りをする。

昼に頭屋家でヨバレがある。

会食を済ませた一行は素襖を着用した頭屋家のお渡りであるが、年寄りばかりになったことから高おかみ神社鳥居手前までは車に乗ってのお渡り。

十人衆、一老から三老、宮総代、頭人らは頭屋家より遷した神輿を本殿へ神遷しをされると聞いていた。

お渡りは昼を過ぎてからだと思って出かけた時間帯。

境内には誰一人の姿も見られない。

社務所に近づいていけば声がする。

おそるおそる扉を開けた答えは「マツリは昨日やったで」である。

マツリの日付けを誤って記憶していたのである。

この日の宴はマツリを終えた後宴であった。

度々の行事取材でお世話になっている萱森の人たちに混じって、村で仕事をしているご夫婦も居られた。



馴染みの人たちが和やかに会食をされている後宴。

上座は一老こと神さんとも呼ばれている太夫と頭人である二老さん。

「服忌が2軒もあって、今年は寂しかった」と云う。

太夫の奥さんは天理市藤井が出里。

藤井のマツリ話しが盛り上がる。

当時お世話になった区長さん。

そこが実家だと云う。

そういえばお顔が良く似ている。

ご一統家が関係するお寺に奈良市の帯解寺や桜井市の聖林寺があるという。

そういえば一同の性名はすべて同じだ。

縁が繋がる婦人の話しでさらに盛り上がった。

マツリの日にはお渡りがあった。

それより数時間前に掛けた頭屋の注連縄が鳥居に掛けてあった。

L型に組んだ木製の摸農具はカマとナタを象ったものだ。



鳥居柱下には木の札がそれぞれ5枚。

これも頭屋が納めたものである。

マツリの様相を知ったのは前年頭屋を勤めた十老さんが残した写真である。

今回も外してしまった。

(H25.10.20 EOS40D撮影)

山田東大谷日女命神社宵宮の宮送り

2014年03月08日 09時11分53秒 | 桜井市へ
桜井市山田には右座と左座の宮座講がある。

10月1日の朝、氏神さんが鎮座する東大谷日女命(やまとおおたにひめみこと)神社の分霊を祭った両座の当家家では神官を待っていた。

神官は安倍八幡神社宮司の佐藤靖夫さん、息子さんは等彌神社の佐藤高静宮司だ。

佐藤靖夫宮司が兼務する社は高田、生田、高家、出雲、榛原町の笠間に亘る。

昨年が最後になった高田の宮講でお世話になったこともあり、さらには佐藤高静宮司とは倉橋の宮講祭でもお世話になった。

当時の祭礼話などで盛り上がったのは云うまでもない。

この日は宵宮の宮送り。

神送りとも呼ぶ両座の行事である。

始めに右座の家で神事が行われ、その次は左座へと移る。

右座はたったの1軒。

親父さんから引き継いで40年間も勤めてきた右座である。

数週間前に拝見した宿主の記帳。

昭和40年は12軒もあった右座中は、徐々にというよりも一挙に辞退されて残った1軒の右座である。

座敷から見下ろした前庭に建てたオカリヤに向かって神事が行われる。

右座のもてなしで時間が過ぎていくのも気にせずに酒を酌み交わす。

左座が待っている。

そろそろ出発しようと腰をあげた。

雨がそぼろ降るこの日。

神官の傘持ちを手伝って左座の家へ向かう。

「14時半頃には来やはりますねん」と云っていた左座の奥さん。

神官が到着したのはそれより1時間半後の16時であった。

定まった時間でなく、夕刻に行われる東大谷日女命神社の宵宮祭に間に合えば、ということである。

左座のオカリヤは玄関脇の前庭に設えていた。



提灯を掲げて大祓えの神事が行われる。

当家家族も同席されて行われたオカリヤ神事である。

当家の座敷に上がった当家と受け当家。

それより前に行われたオカリヤ倒し。

本来ならば東大谷日女命神社に向かうお渡り前に行われるのだが、この年は先に済ませた。

オカリヤ回りに立てた四方竹の注連縄を倒す当家、受け当家。



神官も揃って「ワァー」と叫びながらゆっさゆっさ振って倒してしまう。

一瞬のうちに倒された。

右座ではこのような儀式は見られなかった。

右座にはおよそ210年前の「享和三年(1803)九月二十四日」に書き記した講帳の『當村宮座講 雑記』がある。

由来・御仮殿造り・一老二老の作法・御供・朝座・昼座献立の在り方を長々と書き記していた。

判読した文字にはシトギ、御湯釜もあった。

文中によれば、宮さんは八幡宮で末社は弁天社・牛頭天王社のようだ。

御仮殿を遷宮していたのは八月で、六尺六寸・六尺の高さ・幅寸法も記されていたが、オカリヤ倒しの件は書かれていなかった。



左座においても古文書があったが、所有するヤカタに納めてあった文書を神官とともに拝見するも、バラバラであったことから断念した。

数年前までは4軒で営んでいた左座。

こちらも辞退されて今では2軒だけとなった。

オカリヤ倒しを済ませて座敷で行われる当家受けの儀式。

バラバラ古文書を納めていたヤカタはカワラケも入っている。

次の当家に受け渡す儀式は当年当家が礼酒を注ぐ。



まずは神官、次に受け当家の当人である。

次にいただくのが当年当人の順。

一献、二献の酒杯の肴は、生ダイコンだ。



柔らかいまん中辺りで包丁を入れた輪切りのダイコンを箸で摘まんでいただく。

塩をダイコンにつけていただく。

何故にこのようなことをするのか伝わっていないと云う三人。

最後に盃一杯に注がれた酒を飲み干す。

こうした作法をして当家受け儀式を終える。

左座は2軒。毎年交替する当家である。

服忌であれば2年連続の勤めになると云う。

かつての左座には柔らかいシオアンモチもあった。

裃を着用した講員が藁でモチを分けるようなこともしていた。

モチを木綿糸で切る風習をテレビ放映で拝見したことがある。

日本!食紀行」で紹介されていた富山県の餅文化。

新大正糯」の名がある餅にまつわる風習である。

柔らかいモチを包丁で切るのは縁起が良くないと云って、木綿糸で切断する。

包丁であればモチがくっつく。

切断面を奇麗に分けるには糸でなければ・・・という風習だった。

我が家のおばあちゃんもそうしていたことが記憶にある。

それはともかく、七品料理もあったと話す左座当家の婦人。

跡取りの長男だけの料理であった。

オヒラにカマボコ、コーヤドーフなどがあったと話す。

かつて12軒もあった頃の右座も同じような当家受けの作法があったかも知れないが、40年前から1軒となった当人は記憶もないようだ。

受け渡しの儀式を済ませたヤカタは後日に次の当家に回される。

一年間も祭るヤカタである。

右座もヤカタはあるが、当家受けをすることなく神棚に祭られていた。



そぼろ降るなか、左座のお渡りが出発した。

集落を巡って右座と落ち合う場所は旧山田寺跡辺りにある観音堂の前辺りだ。

右座と合流して当家が持つ杉の葉を挿し込んだ竹筒幣や神事をされたサカキを高く揚げて「ワァー」と叫ぶ。



まるで万歳三唱のような作法である。

回数は特に決まりもなくこの日は4回もされた。

その作法は「和を以て貴しとなす」ので「ワァー」というのだと佐藤宮司が話すが、「ワァー」は県内各地で拝見してきた数々の「ワーイ」、或いは「トーニン トーニン ワーイ」と云う場合もある。

当家が持つ杉の木の御幣は特殊な形態。

もしかとすればだが、かつてあったとされる御湯の儀で遣われていた杉葉ではないだろうか。

釜湯に漬けて湯飛ばしをする御湯の作法は県内各地で拝見してきた。

明日香村栢森の加夜奈留美命神社で行われた御湯(おみゆ)の儀式は杉の葉であった。

同村上平田の八坂神社の御湯も同じ道具である。

桜井市の山田は明日香村に近い地区。

同じような形態であってもおかしくはないと思える。

山田の両座当家が手にした杉御幣は御湯の名残であると考えられるのである。

その場にたまたま居合わせた観光客。

何事が始まったのだろうと驚いた様子もなく拝見していた。



合流した両座一行はその場から東大谷日女命神社へ向かう下向のお渡り。

鳥居辺りにある大木の杉の辺りでまたもや「ワァー」と掛け声をかけた。

こうした作法をして神社に着けば祭っていた分霊を戻される。



10月1日の朝に神迎えをされて当家の家で祭っていた。

それから3週間後、こうして神送りをされ本殿に遷されたのである。

陽がどっぷり暮れて氏子参拝者がやってくれば、神官がお祓いをする。



受けた証しに神社のお札を受け取って帰っていく。

宮司はこの時間帯より桜井市出雲の宵宮に出仕しなくてはならない。

兼社の神事が待っている。

神官が不在となれば右座の当人が代理でお祓いをする。



交替してほしいと願うが、左座は役目をすることができない。

宵宮祭の参拝は人が途絶えるまで行われる。

参拝する神さんの順は決まっている。

男性であれば右の神さんから左の神さんへ、である。

女性であれば左の神さんから右の神さんに移る。

右の神さんが八阪神社で、左の神さんは厳島神社。

つまり八阪神社は牛頭天王で男の神さん。

厳島神社は弁天さんで女の神さんであるがゆえ、それぞれの性別で、先に参る神社が決まっているということだ。

かつては相撲もあったという宵宮祭。

次々とやってくる参拝者を見届けてその場を去ったこの日は村の行事もされる予定だった。

村を巡行する御輿の安全祈願にお祓いをするはずだった。

雨が降らなければもっと賑やかになった、であろうこの日。

特別に観音堂の扉を開けてご開帳されている。



この日限りのご開帳にありがたく、本尊の十一面観音立像に手を合わした。

その左横にあった大きな顔の仏頭。

レプリカだと思われる仏頭は、文治三年(1187)に興福寺僧兵が山田寺に押し入って薬師三尊を強奪した記録があるようだ。



昭和12年に興福寺にあった本尊の台座の嵌(はめ)板で発見された「応永十八年〔辛卯〕閏十月十五日未刻……」の墨書年代によって来歴が判明した。

国宝の仏頭は同寺の国宝館に納められているようだ。

昭和32年に発刊された『桜井町史』に「山田の宮座講」行事が紹介されている。

右座・左座には一老、二老制度があった。

左座は古例に基づいた家並順の当家が営んでいた。

右座は男児が生まれれば一老に届け出をする。

その届け出順によって当家の順が決まっていたが、昭和14年には出生が途切れた。

それを契機に講中の長男の年齢順に替えたようだ。

7月上旬に行われていたおなんじ参り(大汝参り)は吉野町の大名持神社。

神さんとされる小石を返して、吉野川で水垢離をして新たに小石を拾ってきて家の水壺に入れる。

水を清める習わしである。

9月30日には御仮宮建てと御幣作りをしていた。

10月1日は一日座(朔座とも)に宮迎え神事をされていた。

杉枝の御幣に分霊遷しをした。

当家に戻った際には甘酒の振る舞いがあった。

これを朔座と呼んでいた。

講中は一旦帰宅してから再び参集する。

昼座の営みである。

夕刻には当人が神社からおよそ二丁四方の字注連縄と呼ぶ田んぼに2本の青竹を立てて注連縄を張っていた。

10月16日が宵宮座と神送りである。

昼間の宵宮座を済ませて当家渡しをされるまでの時間帯。

講員家に七度半の呼使いがあった。

呼使いは前夜から始まっていた。

その際に行われる口上は「明日、かれいの座を勤めさしてもらいますから、お頼み申します」だった。

宵宮座の朝にも呼使いの口上があった。

「ただいま、どうぞお願いします」である。

それ以降は昼間の宵宮座を済ませてからで、「どうぞ、お早うお頼み申します」と述べる、合計七度半の呼使いであった。

当家渡しは着物姿だった。

一老、二老は紋付き袴、講員は裃であった。

シオアンモチを食べていたときは裃姿だったと左座当家の婦人はそのときの様相を話されたのである。

宵宮座を終えた講員は高張提灯を先頭に神官、御幣持ちの受け当家、湯御幣を持つ渡当家、一老、二老、講員、渡当家家人が担ぐ唐櫃の行列があった。

落ち合う場で両座双方の一老が「揃いましたか」と声をかけて、「ワァー」を三べんしたとある。

宵宮祭では右座が一升の鏡餅を供えていた。

撤饌した鏡餅は一老、二老に手渡していた。

朔座および宵宮座の本膳には油揚げを付けていた。

朔座が二枚で宵宮座は四枚であったようだ。

油揚げをよく使うことから「山田の油揚げ座」とも呼んでいたようだ。

今では座を行うことなく淡々として行われている山田の宮座講行事を拝見できたことに感謝する。

(H25.10.19 EOS40D撮影)

久安寺素盞嗚神社のマツリ

2014年03月07日 08時26分57秒 | 平群町へ
前夜に降り出した雨はやまない。

雨水がかかってはせっかくの提灯は傷んでしまうと判断されて仕舞われた。

提灯を立てた杭だけが残された。

本来なら4基の村の提灯が並ぶのだが、雨にあたれば修繕する費用がかかる。

マツリに相応しい提灯掲げは止むを得ない処置だと平群町久安寺の総代が話す。

久安寺に鎮座する素盞嗚神社は信貴フラワーロードを少し西に下った集落の南側にある。

久安寺集落は起伏に富んだ3垣内(北、久保、南)。

それぞれの垣内から選ばれた年当番の人たちがマツリを勤める。

本殿の祭神は素盞嗚命。江戸時代までは牛頭天王社と呼ばれていた。

境内社左は春日神社で、右が八王子社である。

神社に上がる石段を登れば石の鳥居がある。

その傍にある石燈籠には天保六年(1835)の記銘がある。

かつては宮座の行事であったが、現在は村行事となった秋のマツリ。

6月に行われたケツケの植付け休みと同じように御湯が行われる。

前庭に設えた斎場はケツケと同様に四方の忌竹で囲われている。

御湯の前に神事が行われる。

本殿前で龍田大社の神官が祝詞を奏上されて三郷町在住の巫女さんが神楽舞を舞う。

始めに鈴の舞で左手に扇を持つ。

次が剣の舞だ。

拝殿には集まった村人で埋まっている。

入りきらずにいた婦人たちは拝殿下に並ぶ。

遠慮して撮らせていただいた神楽舞やお祓いの鈴。



ケツケ同様に参拝する村人たちに鈴でお祓いをされる。



階段下で列を作っていた婦人たちや子どもらにも「祓いたまえー 清めたまえー」とお祓いをされる。

そうこうして玉串奉奠。数多くの氏子たちが奉げる。



マツリのご馳走は当番の人が作った枝付きのエダマメだ。

籠いっぱいに盛られたエダマメは大量である。

三社に供える神饌は献饌もせずに予め置かれていた。



神事を終えて撮らせてもらった御供は稲穂、鯛、牛蒡、大根、椎茸、枝豆、柿、林檎、蜜柑などである。

氏子のU氏の話しによれば、かつて宮座行事であったときには手で一つ一つ手渡す献饌であったと云う。

秋のマツリのメインも巫女さんが作法をする御湯。

雨が降っている日であっても「御湯の作法をする時間帯はいつも雨が降らないんです」と巫女さんが云っていた通りに止んだ。



斎場を遠巻きにして見守る村人たちの視線を感じながらの作法である。

薪のシバで釜湯を煮立てて、笹で掻き混ぜればもうもうと立ちあがる湯気。



湯気が久安寺の里に降りる神さんなのである。

聞くところによればある村では、火を起こさず魔法瓶の湯を注いでいたらしい。

それでは「村に神さんが降りることはない」と苦言を申されたというやに聞いた風の便り。

柏手を打って、かしこみ申すと神さんに告げる。

最初にキリヌサを撒く。

お神酒を投入して御幣でゆっくりとかき回す。

御幣と鈴を手にして右や左に舞う。

2本の笹を両手にもって湯に浸ける。

もうもうと立ちあがる湯気。



大きな動作でシャバシャバすれば立ちあがる。

東の伊勢神宮の天照皇大明神、南の談山神社の多武峰大権現、西の住吉大社の住吉大明神、北は春日若宮大明神の四柱の神々の名を告げて呼び起こす。

再び笹を湯釜に浸けてシャバシャバする御湯の作法は実にダイナミックである。



何度か行って、東、南、西、北の四方に向かって「この屋敷に送りそうろう 治めそうろう 御なおれ」と告げられた。

御湯に浸けた笹と幣、鈴を持って再び神楽の舞いをする場は本社、末社の二社である。

シャン、シャンと鈴の音がする。

履物を履いて並んでいた村人の前にゆく。

「交通安全、家内安全、水難盗難、身体健勝、祓いたまえ、清めたまえ」。

村人一人ずつ湯笹で祓った。



設えたテント向こうでこの日の支度をしていた婦人たちにもきちっと祓われる。

こういう丁寧なたち振る舞いにいつも感動する。

かつて、巫女さんは村の女性であったとU氏が話す。

女性は三輪で習った作法を久安寺で所作していたと云う。

戦時中のことだと話すUさんは80歳。

隣村の信貴畑も含めた地域の神社の朔日(ついたち)参りにも出仕していた。

参りに行くのは地区小学生の子供たちだった。

そういう地域の参り方の様相は過去のこと。

今では見られなくなったと云う。



御湯が終わって当番の人が作った枝付きのエダマメでお神酒をいただく。

塩をいっぱい振りかけたエダマメの美味しいこと。



テント下では男性たちが、社務所内には子どもたちや婦人たちでぎっしり。

村人といえども有料で販売されるおでん、きつねうどん、ぜんざい、おにぎりにビールで賑わった。



久安寺の村のマツリでいただくほのぼした風情。

よばれたきつねうどんもまた食べたくなったと思った。

(H25.10.19 EOS40D撮影)

柏木町素盞嗚神社のマツリ

2014年03月06日 07時52分12秒 | 大和郡山市へ
当家家の門屋の前、10日ほど前に設えたと云う注連縄は左右両脇に笹竹。

土台は田から土ごと掘り上げたシバである。

かつては佐保川堤にあったシバを掘り起こした。

県土木の指導もあって、今はそうすることができず、採取する地は田んぼに替った。

そんな話をされた大和郡山市柏木町の当家さん。

前夜はヨイミヤだった。

巫女さんが勤めた御湯のあとには氏子参拝者が祓い清めを受けに大勢来たが、この日は当家と神社役員だけになる。

実りの秋はなにかと忙しい農村。

稲刈りに精を出す人も見られるマツリの日だ。

この日はマツリ。

当家のお渡りがある。

市内稗田町に鎮座する賣太神社の宮司を迎えて出発する。



その直前、門屋に立てた注連縄を取り外す。

注連縄を張った竹は2本ともである。

宮司を先頭に竹の御幣を持つ当家、神社役員の行列だ。

後方についた二人の役員は注連縄を付けたままの竹を持つ。

当家を含めて全員は黒の礼服姿でお渡りをする。



当家家から出発して一直線。

旧村集落を通り抜けて氏神さんを祭る素盞嗚神社へ向かう。

距離はおよそ70m。

あっという間に着いた素盞嗚神社は江戸時代までは牛頭神社と呼ばれていたようだ。

それを示す石で作られた扁額が残されているが、記銘は見られない。

拝殿前に建之された狛犬。

それには安政三年(1856)正月吉日の記銘が見られるが創建は判っていない。

一の鳥居、二の鳥居を潜って参進する。

拝殿に座を敷いて始まったマツリの神事。

祓えの祝詞を奏上されて神饌を献じる。



本殿前に並べた御供。稲穂、洗い米、酒、塩、二段重ねの鏡餅、鯛、栗、昆布巻き、スルメ、カマボコ、ユリネ、シイタケ、ハクサイ、レンコン、ニンジン、ダイコン、ナガイモ、カキ、ミカンなどは高杯に盛っている。

末社に春日神社とコミヤさん。

そこの神さんにも神饌を供えた。

マツリの祝詞を奏上する。



厳かな神事を終えてしばらくは拝殿で直会。

柏木町のマツリはこうして静かに時を過ごす。

(H25.10.18 EOS40D撮影)

柏木町素盞嗚神社のヨイミヤ

2014年03月05日 07時34分17秒 | 大和郡山市へ
柏木町と云っても奈良市ではなく大和郡山市南端になる旧村の柏木町。

氏神さんを祀る素盞嗚神社付近を中心に10数軒の旧村集落だ。

柏木町のマツリは10月17日と18日。

村内の辻々にご神燈を掲げた。

マツリの前夜はヨイミヤである。

拝殿前に高く掲げた提灯立て。

昔から五つの氏子提灯を掲げていると云う。

宮さんの祭祀を勤めているのは自治会役員の3人。

この夜に行われる御湯の斎場を設えた。

20年ほど前は深い穴を掘って、佐保川から掬った土をとってきて竃を作っていた。

シバと呼ぶマキ(雑木)を燃やして湯を沸かしたと云う。

今では竃でなくプロパンガスで沸かす。

当時使っていた古い釜は神社の蔵に保管していたが刻印は見られなかった。

直径は50cmぐらいだ。火点けをするのは消防団員。

火消し・防火の守りをするために任につく。

御湯場の傍に立てた藁束は12本。

洗い米、酒、塩、キリヌサなども準備する。

時間ともなれば当家とともにやってきた巫女さんは三郷町の阪本さん。

いつもお世話になっている。

大ばあさんに連れられてきた当時はまだ少女だった。

そのころは境内や当家宅で遊んでいたと云う。

御湯を始めるにあたり作業をしている巫女さん。



手際良く結った藁を腰に巻いた。

村人のたっての頼みで腰に巻いたサンバイコである。

御湯を終えてから授かったサンバイコは東の方角に向かって祈れば安産になると、この日に勤める当家のご主人が話す。

いつもとかわりなく御湯の所作をされる巫女さん。

小幣を左右に降る。ポン、ポンと柏手を打つ。

祓えの祝詞を奏上する。そして湯の上から撒き散らすキリヌサ。

立ちあがって幣を湯に浸けて掻き混ぜる。

「この釜はひとかまなれどなるかまとおぼしめし・・・きこしめしかしこみかしこみ申す」。

大幣を左右に振って柄の部分を湯に浸ける。



「みちのふどうのまつの大明神 この御湯にのり遷し のりかわし」勧請を申す。

「・・・東では三十三国、西でも三十三国、併せて六十六国」などを述べて湯を掻き混ぜる。

勧請した幣を左手に、右手は鈴を手にしてシャンシャンと鳴らしながら左、右、左にそれぞれ一回転。

神楽を舞う。

2本の笹の葉を執って「この手に笹をもちまねき いずくの国より 天より降りたもう」と告げる。湯に浸けて上下に動かす笹の葉。

もうもうと立ちあがる湯のけむり。

「祓えたまえ きよめたまえ」と掻き混ぜた笹を拝みながら「東では天照皇大明神、南は多武峰大権現、西では住吉大明神、北では春日若宮大明神」。

それぞれ「お受け取りください」と四柱の神々の名を告げて捧げまつる。

そうして湯に浸けた笹も手にして「もとのやしろにおくりそうろう おさめそうろう おんなおれ」と告げる。

四神それぞれに捧げて舞う神楽。

先ほどと同じように左、右、左に一回転する。

笹の葉を湯に浸ける様を柏木町の人たちは「シャゴシャゴ」と呼んでいる。

履きものを履いて拝殿内に移る。

その場で神楽を舞った巫女さは参拝者の前に立つ。



「家内安全 水難盗難 交通安全 どうかお守りたまえ もろもろの穢れを祓えたまえ きよめたまえ」と、御湯で浸けた笹と鈴・幣で身体健勝を願い祓ってくださる。

御湯を終えるころには村人たちが家族連れでやってきた。

一家族ずつ拝殿前に立てば、両手で持った二本の剣を手前で互いに十字交差させながら舞って穢れを祓う。

その姿を神妙な顔つきで見る子供たち。



剣と鈴を持って参拝者の頭から鈴を振る。

シャン、シャンと音がする鈴。

その音色から巫女さんの神楽をシャンコシャンコと呼ぶ人も少なくない。

(H25.10.17 EOS40D撮影)

的野渡人の祝い唄

2014年03月04日 09時38分43秒 | 山添村へ
大正4年に記された『東山村神社調書(写し)』文中の社記によれば「祭儀を終えて退社した渡り衆は当家に上がり込む。その際には竹枝に御幣紙を付箋したものを手にした人が当家の家先で出迎える。そのときに御幣付きの竹を一本ずつ渡り衆に手渡す。先導しながら当家の家に上がり込む」。

「あきのくに いつくしまの べんざいてんの ねじろやなぎ あらわれにけり げにもそよそよ いざやおがまんを繰り返し唱和しながら上がり込む」とある。

この作法を「踊り込み」と呼んでいた。

降り続ける雨は止まない。的野へ戻る還行のお渡りもできずに、車に乗った渡人。

会所手前の十数メートル前で降車した。

渡人、一人、一人に手渡す幣を付けた竹。

提灯を手にして先導する当家の親戚筋の男性。

「あきのくに いつくしま びざいてんの うねじろやなぎ あらわれにけり げにやそよそよ いざやおがまん」を渡人ともども唱和しながら会所の縁側から座敷に上がり込む。

座敷中央には高膳に盛られた一升のお米と二合の小豆がある。

お米は収穫したばかりの新米だ。



「福の種」と称する米と小豆を掴んで右回り。

竹を振りながら「ふーくがごーざった ふーくがごーざった」と目出度い台詞を詠いながらお米と小豆を高くあげて振り撒く。

調書に書かれてあった「踊り込み」の様相である。

この作法は「ウタヨミ」、「オドリコミ」とされる当家祝いの歌である。

五穀豊穣の目出度い台詞が当家に響き渡ること3周。

隣村の室津や桐山でも同じような所作の「オドリコミ」である。

福の種が一面に広がった座敷。

その場を奇麗に方付けて慰労の場に転じた。

装束も仕舞われた当家の座敷はご馳走の膳が並ぶ。



夜の膳は渡人を慰労する会食。

総代、当家、一老の挨拶並びにお礼を伝えてほっとした表情を見せる渡人たち。

乾杯をする場にはオードブルも配膳された。



世話方を勤めてきた婦人たちもほっとしたようである。



会食の場にはなぜか、珍味のハチの子まで盛られた。

(H25.10.15 EOS40D撮影)

的野の奉納ジンパイ

2014年03月03日 07時47分59秒 | 山添村へ
ヨイミヤ、マツリとも朝風呂に入って潔斎をした渡人。

8人の渡人は決まっている道具を持つ。

一老は御幣に弓、二老は弓、三老・四老はグワシヤグワシヤ、五老は笛、六老は太鼓、七老も笛、八老が鼓である。

4年前までは当家の家であった。

事情があってやむなく場を村の会所に移した山添村大字の的野。

峰寺の六所神社に奉納するジンパイは一年ごとに交替する松尾、峰寺、的野の三カ大字で行われている。

4年前といったのはそういうことである。

かつては神祭と呼ばれていた六所神社の行事は、この年当たりの的野が受け持つ。

10月2日の大安の日に張った会所の注連縄。

6日には渡人が着用する素襖を収めた衣装箱一式、保管していた見本の御幣などを宮総代から受け取った。

14日の宵宮には御幣も作っておいた。

準備はすべて整っていた。

この日も「シモケシ」で始まった的野の渡人は昼の膳を終えて装束に着替えた。

この日は台風26号の影響で朝から雨が降りだした。

そぼそぼ降っていた雨はお渡りが始まるころには本降りとなった。

前日の天気予報を予測しておいた六所神社の宮総代とも相談していた雨天のお渡りは例年よりも1時間早めて行われた。

当家が摂待する昼の膳もいただいた一行はお渡り前に記念写真を撮る。

雨天であるが、晴れの舞台に並んだ渡人。

それぞれが受け持つ鳴りもの道具を手にしている。

当家をはじめとして下支えしてきた総代、当家の親戚筋も並んで晴れ姿を装う。



本来ならば的野の氏神さんを祀る八幡神社においてもジンパイを奉納されるのだが、あまりの激しさに拝礼で済まさざるを得ない。

雨に濡れてはならないと一老が持つ大御幣にはビニールカバーをして保護した。

村内のお渡りも中断せざるを得ないこの日。

仕方なく車で移動する渡人。

御供担ぎも同乗して六所神社に参進した。

そんな雨であってもマツリに参拝する氏子たち。

いつもの婦人たちが迎えてくれる。



傘を持つことができる渡人は一人傘、鳴りもの道具を持つ渡人はそういうわけにもいかずに助け人によって保護をする。

御供を拝殿に供えて参籠所にあがっていく渡人。

その間の大御幣は鳥居下に立て掛けた。

長屋に登った渡人。

一老は「お渡りでお参りしました」と挨拶、口上を述べる。

宵宮と同様に宮方総代の歓迎を受けて宵宮と同じ5品盛りの肴とお酒の場。

肴を配ったドウゲが酒を注いで回る。

宮総代も酒を注ぎ回る。

歓迎の場を終えて参拝する氏子たちに向かってジンパイを披露される。

そうして一旦は鳥居下で隊列を組む。

手水で清めて石段を上がる。

石段を登ってきた一行は本殿左側に入った。

そこには小さな石がある。

サザレ石はと呼ばれる石は百度石とも。



そこを中心に時計回りにぐるぐる回る渡人たち。

大御幣を上下に振りながら右回りの時計回りに三周しながらジンパイをする。

サザレ石の名を聞いたのは峰寺だけではなく、西波多下津においても同じ名の石があった。

ここで行われる風の祈祷は「近くの山からサザレ石を12個拾ってきて前の川で洗う。それを燈籠下に置くのだ」と云う総代。

サザレ石は碁石のような美しい石だそうだ。

地殻変動があった山は大西領。

盛りあがった山にはそれが残っているという。

ちなみに12個を置くのは月の数。

一年間を守る数であろう。

サザレ石での立ち舞いを終えた一行は拝殿に登っていく。



宵宮と違って本殿と拝殿の間の玉砂利に菰を敷いた場で揃った横一列の体制である。

笛や太鼓、鼓の吹奏に合わせて大御幣を上下に3回振る一老は本殿間下だ。

史料によれば本来は7回とある。

ジンパイした大御幣は本殿に置いて神さんに奉納した。

ちなみに奉納された大御幣はしばらくそのままだ。

月初めに祭祀されている「さへ」で降ろされて参籠所で保管するという。

その後の一年後。次の当家で御幣を作る際の見本にしているという。

「さへ」は朔日とも書く一日参り。

3人の宮総代は白い素襖を着用してお参りをしていると云う。

氏神さんへの奉納は終えたが祭典はまだ続く。

再び長屋に参進するのである。



宵宮で見られなかった弓、グワシャグワシャ、鼓を勤める三役が作法をするジンパイの披露である。

神さんに奉納されたあとは宮方総代にもそれがなされて拍手が沸き起こった。

こうしてすべての奉納ジンパイを終えれば、渡人一同が並んで鳥居下辺りに立つ。



整列を見届けた一老・二老が手にする弓を曲げて放つ。

ぐんにゃりと曲げて放つ先は鳥居の向こう側である。

これまで拝見してきた松尾、峰寺が飛ばす場は鳥居から十数メートル離れていた。

飛ばす方角は東の方角の前方の山に向けてだった。

その先は次の当家になると話していたことを思い出す。

実は的野が飛ばす場・方向は史料に記された通りの鳥居に向けてであった。

弓打ちを終えた一老はいち早く長屋に赴いた。

8人の渡り衆が被っていた烏帽子。

それには赤紙が取り付けていた。

それを揃えて宮方総代に手渡される。

奉納儀式を終えた証しに渡すのであるが、外すことが困難であることから実際は予め用意したものを封筒に入れて差し出した。

受け取った宮総代は中に入っている赤紙の数を確認して六所神社の奉納ジンパイが終えたことになるのだ。

(H25.10.15 EOS40D撮影)

マルちゃんごっつ盛りワンタン醤油ラーメン

2014年03月02日 08時43分42秒 | あれこれインスタント
本庄町の取材を終えて、一路東山中に向かう。

前日は宵宮のジンパイをされた山添村の的野。

コンビニ店はない。

この日も買っておいたカップ麺と魔法瓶を車に詰め込んでやってきた。

いつもの車中食である。

降りだした雨は止まない。

車中に籠って食べるカップ麺はマルちゃんのごっつ盛りワンタン醤油ラーメン。

麺が大盛りで90g。普通のカップ麺は60gだが、1.5倍の表記はできない。

エースコックが販売している大盛りはスーパーカップ1.5倍。

同等表記ができずに当社比「大盛」とある90gである。

それで「ごっつ盛り」としたのだろう。

熱湯を入れて3分間を待つ。



蓋を開ければ白いワンタンが浮いている。

濃いめの味を引き出す液体スープを入れていただく。

すっきり醤油味が売りもんだが、スープ味はやや濃い。

食欲をそそる味である。

麺はシコシコでもなく一般的なちじれ麺だが、絡んだスープであがってくる。

具のコーンは多いが、ワンタンは4切れ。

とろとろに溶けるわけでもなくやや硬めの部分もあった。

(H25.10.15 SB932SH撮影)