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小説 囚われた男(32)

2007-02-11 11:44:14 | 小説
 もうすぐ五月になるが、甲斐駒ヶ岳の稜線には、残雪が陽光に輝いていた。こんな景色も楽しむ余裕がない、今この瞬間が恨めしく感じられる。さやの眼にもこの景色が入っていないようだ。
 何かに集中するのが一番いいかもしてない。車の外に出て、アームの先端に取り付けられている箱に乗り込み、ヘルメットから飛びだしている細いマイクロフォンと耳に装着しているイアホンのテストをする。さやもOKサインを送ってきたし、傍受している警官からも通信状態良好のサインが返ってきた。
あとは配線をしている振りをすることだけだった。さやに一言伝える。
「わたしが突入のサインを送ったら、すぐ裏のテラスの方へ移動してくれ。かなり急いで」
「……」さやは無言でうなずいた。
時はゆっくりと過ぎていき見張りの辛さが身にしみてきた。喉の渇きを癒すことも尿意の欲求にも応えられない。さやはどうしょうもない苛立ちを感じていた。むしろ腹立たしかった。それが意外に緊張感の緩和に役立ったのかもしれない。周囲が見える気がしてきた。

 そのとき、シルバーのセダンが坂道を登ってきて、別荘の敷地に入った。降りたのは千葉とその部下だった。大きなトランクをその部下が提げている。重そうな足取りで玄関を入った。
 その三十分後、軽トラックが独特のエンジン音を周囲に撒き散らしながら、別荘に入った。降りてきたのは、薄緑色の作業服を着てサングラスをかけ、黒の革靴を履いた二人の男だった。どちらも身長は低いががっしりとして歩き方はやくざそのものだった。あれでは作業服を着る意味がない。ただ、軽トラックに乗っている限り作業員らしく見える。二人は玄関のブザーを鳴らして待ち、なにやら書類を見せて中に入った。

 生実はマイクロフォンに向かって
「五分後に突入する」と言い、腕時計を見た。この五分間がとんでもない長い時間に感じられる。相手もすぐ取引に入らないだろうし、まず世間話とコーヒーの接待などの儀式を経て本題に入るはずだ。
生実はさやにうなずいてサインを送った。さやはすばやく裏のテラスに走り出した。

 千葉の目の隅で何かが掠めたようだ。千葉の動物的勘が異変を嗅ぎ取り、相手にも頭を低くするように手で扇ぐようなしぐさで伝えた。相手もすばやく反応した。
が、玄関ドアから飛び込み這いつくばった姿勢で、オートマティック拳銃を構えている男が見えた。その瞬間、銃口からくぐもった音がしたと思う間もなく、千葉の視界は暗黒に呑み込まれた。千葉が崩れ落ちるまでに、部下の男も眉間を射ち抜かれていた。
テラスから飛んできた銃弾は、暴力団員の足にあたった。倒れながら撃った弾丸は、一部閉じてある窓のガラスを粉々にしただけだった。
 それを見た生実は、すばやく二人に連射を浴びせ、瞬くあいだに動かない肉塊に変えた。両手で拳銃を構えながら、四人の死体を検分する。完璧に死んでいる。銃の安全装置をセットしてホルスターに戻す。

 そのときテラスで人の気配に目を上げると、さやが銃を構えて立っていた。生実は怪訝に思って
「もう終わったよ。銃をしまっていい」
「ええ、わかっているわ。そのブツをこちらによこして!」
「なんだって? どういうことなんだ」
「言ったでしょ。ブツをいただきたいの」
「なんてこった。まったく、予想もしなかったことだよ。これは。なあ、考え直した方がいいのでは……」そのとき
「銃を下ろして!」いつの間にかテラスの横から姿を見せた塚田美千代が、銃口をさやに向けていた。さやは素早かったが、美千代が上回った。さやの利き腕に命中して、拳銃が転がった。血が見る見る滴ったが、さやは唇をかんで大粒の涙を流していた。

 この事件はメディアに感ずかれることもなく隠密に処理された。四人の死体は、黒いビニールにくるまれて、暴力団員が乗ってきた軽トラックで運ばれていった。小暮さやは救急車で、甲府市富士見にある県立中央病院へ運ばれていった。
 作業用トラックを甲府警察に返却して、生実がさやのランドローバーを、塚田美千代がセダンで中央病院に向かった。警察権力が本気で隠し事をたくらめばメディアといえども蚊帳の外になる見本だった。通常は持ちつ持たれつの間柄ではあるが。
救急治療室の前で一時間ほど待って、病室に移されてからもなお待たされて、面会の許可が下りたのはほぼ二時間半後だった。個室に移されていて、点滴のチューブや腕をつる器具で実態以上に痛々しい。小暮さやは窓の方を見ていて、二人が入って行っても気づかない振りをしていた。
「どお、痛む?」と生実が快活な声で聞いて見る。さやは窓に目をすえたまま無言。かなり時間が経ったあと
「お願いだから、一人にして!」みるみる涙があふれ出て、肩を震わせながら嗚咽をこらえようともがいていた。生実は、ベッドに近寄り、彼女の手を握りながら
「別荘での件は、三人の秘密にするからね。忘れる方がいい」腕を二、三度軽くたたき励ました。美千代と目配せしてベッドから離れた。美千代は「何かお手伝いできることがあれば、言って頂戴ね。二、三日すればまた来ますから。お大事に」生実は「それから車の鍵」と言ってサイド・テーブルに置いた。さやは泣き続けていた。

 病室をあとにして、担当医に面会を求めた。
「弾丸の摘出と縫合、骨を外れていて彼女は若いからすぐ回復しますよ。で、銃創を負ったと言うことで、報告書はそのままを書いておきます。よろしいですね」二人は「それで結構です」と告げ病院を後にした。
この病院は眺望が良く、甲府盆地を囲む御坂山塊の向こうに富士山の端麗な姿を見ることが出来る。それに三階と五階に屋上庭園があって、フジ、ハナミズキ、ヤマモミジ、ラベンダー、ドクダンツツジなどが植えられて四月にはミツバツツジやクルメツツジ、ハーブの花が咲き乱れる。小暮さやがそれらで、癒されればいいのだが。
コメント
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