「私は不幸にも恵まれた星の下で育ったので、暗闇を見ることも、暗闇の中に隠れているものを見ることも出来なかった」という書き出しで始まる。
私、ジャック・ブランチ1954年当時は24歳で地元レークランド高校の教師を務めている。この頃のレークランドは、人種と階級でいくつかの地区にはっきり線引きされていた。ジャックの父が住んでいたプランテーション地区。職人や商店主の住むニュー・サウス地区。工場労働者の住むタウンゼント地区。このタウンゼント地区の住人は、ホテルでいつも満室だと断られる階層の人たちでブリッジスと呼ばれていた。
ジャックの担当する教室にこのブリッジスに住む少年エディ・ミラーがいた。エディは、女子大生を殺した殺人犯の息子だった。エディは普通の高校生のように快活さもなく、いつも一人で過ごしていた。
ジャックの専門は、暗闇を見たことがないという反動なのか、アメリカ文学やヨーロッパ文学に作文のクラスも担当するが、専門とするところは悪について歴史的文献や古典文学からの引用を交えながらの講義だった。
例えば、変質者ティベリウスはカプリ島の庭園に猥褻なポーズをとらせた子供を配置したり、自分の名前をつけた崖から奴隷を投げ落とされるのを見物したりして暇をつぶしたと描写するスエトニウスの「ローマ皇帝伝」を参考にしたりした。
そこで悪についてのテーマを選びレポートを提出するよう生徒に命じた。授業終了のベルが鳴りがやがやと生徒が移動を始めるが、一番後ろの席のエディは、ゆっくりとした態度でいつも最後に教室を出る。そのエディに父親のことを書くというテーマを課したのが悲劇への端緒となった。
この文春文庫の巻末に著者とのインタビューが掲載されている。その中でトマス・H・クックの作品が暗いという人もいることについてこう答えている。
「読む者の感情に訴える小説は、心を暗くするものではないのだと。本を読んで暗い気持ちになることと、感情を揺さぶられることは同じものではありません。小説に心を揺すられるのは素晴らしい体験です。読み手の魂を高め、読み手を自身の感情と結び合わせてくれます。暗い物語は光を届けるために書かれるのであって、闇をもたらすためではないんです。沈鬱な物語は、今まで見たことのなかった類に光を読者にもたらし、その人生を照らすのだと私は信じています。いかに暗い主題を扱っていても、それが最後に読者に与えるのは明るい何かなのだと、つまり、暗い物語はじつのところ読者の気を滅入らせるのではなく、力づけるものなのです」
確かにトマス・H・クックの作品には、陰鬱な雰囲気が漂ってはいる。それでも物語の中に入っていくと、もう抜け出せなくなる。
私はいつものように物語以外の何かを探していて、見つけたのは「デヴィルド・エッグ」だった。これはゆで卵の黄身を取り出して、マヨネーズで和えて戻したもの。
サンドイッチ用のパンをカリカリに焼いたものやクラッカーの上に載せたりしてお酒のつまみに最適に思う。贅沢にするならイクラを散らしたり、ロシア産のキャビアを載せてもいい。ちなみにロシア産キャビアは、25グラム12,000円以上するからおいそれと手が出せないのは痛い。