あっという間に桜の咲く季節に入り、冬の寒さが記憶から幻のように消えてしまった。うららかな陽気は、人の心を浮き立たせるもので、茨城県常陸太田市にあるこのお寺への道のりも快適だった。あまり使わない高速道路を走ったため意外に早く着いた。
それにしても時速百キロで走っていても、軽自動車のバンに追い越されるとはね。どう考えてもあのぺらぺらの紙のようなボディの軽でよく走るわ。ドライバーは、無知で無謀の見本に見えるがね。私から言わせれば、軽は軽くて怖い。性能がよくなったのは確かだが、高速運転には向いていない。ひたすら幸運を祈る。
それに追い越の方法に問題のある車が多い。追い越してすぐ車線に入ってくるのはアマチュアの見本。自分の車のバックミラーに追い越した車が写ってから、走行車線に戻るべきだ。これで適度の車間距離が保たれる。これは「交通の教則」にも明記してある。そんなことに憤慨しながらも目当てのお寺に着いた。
仁 王 門
吽形(うんぎょう)仁王像
阿形(あぎょう)仁王像
このお寺は、寛和元年(985年)花山天皇の勅願により、元蜜上人が開山したと伝えられる。源義光の孫の源昌義は、寺領を寄進し祈願所とした。昌義はこの寺で節が一つしかない竹を見つけ、これを瑞光とし、佐竹氏を称したとされる。
昔、鶴ヶ池の北、観音山にあったが、天文12年(1543年)10月、兵火により消失し、同15年佐竹氏18代義昭が佐竹城(太田城)の鬼門除けとして、この地に再建された。
最盛期には六支院と三ヶ坊を有したが、関ヶ原の合戦後、佐竹氏が出羽に移封されたことにより衰退する。それでも、江戸時代には坂東三十三観音霊場の二十二番札所としての賑わいがあったが、明治に入っての廃仏毀釈より荒廃し、昭和24年(1949年)まで無住の寺であった。
本 堂
往時をしのぶ本堂は、珍しい北向きで茅葺の寄せ棟造り、主屋の周囲にこけら葺きの裳階(もこし=辞書には裳層ともあった。本来の屋根の下につけられた差しかけの屋根。法隆寺の金堂や薬師寺の塔など)をめぐらし、正面には唐破風(からはふ、曲線状に作った破風)がつく。ちなみに破風というのは、日本建築で切妻屋根(二枚の板を形に合わせただけの簡単な屋根)の端につけた「⋏」の形の板。
窓や柱、梁などに桃山建築につながる意匠が見られ、1906年に国の重要文化財に指定された。残念ながら私には建築の知識が乏しく、桃山建築の意匠につながるといわれてもよく分からない。仁王門は、昭和15年(1940年)の再建のようで、中にある仁王像は、宝永年間(1704年~1711年)の作とされている。参拝者は、わたしたちのほかに、中年の二人連れが来ていた。
お寺の向かいの民家が乾燥の青豆や黒いもち米を小さな袋に入れたものを無人のスタンドで売っていた。青豆が一袋百円、もち米が二百円の値段だった。買って帰って食べたが美味しかった。