奈良県奈良市春日野町にある春日大社です。
春日大社は春日山原始林を背景に御蓋山の西麓に建っています。平城京に遷都された和銅3年(710)、藤原不比等が藤原氏の氏神の武甕槌命(たけみかづちのみこと)を関東の鹿島から春日の御蓋山に遷して祀り、春日神と称したのから始まるそうです。
その後、香取の経津主命(ふつぬしのみこと)と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命(あねのこやねのみこと)・比売神(ひめがみ)を併せ、御蓋山の麓に4殿の社殿を造営しました。
この4殿が国宝の本殿です。春日大社には拝殿はなく、春日造の本殿は、東から第1殿に武甕槌命、第2殿に経津主命、第3殿に天児屋根命、第4殿に比売神が祀られていて、脇塀でつながっています。
春日大社は藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺との関係が深く、藤原冬嗣が興福寺南円堂を建立した際、その本尊の不空絹索観音には、春日大社の祭神・武甕槌命を本地仏としたそうです。神仏習合が進むにつれ、春日大社と興福寺は一体のものとなっていきました。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
春日大社は春日山原始林を背景に御蓋山の西麓に建っています。平城京に遷都された和銅3年(710)、藤原不比等が藤原氏の氏神の武甕槌命(たけみかづちのみこと)を関東の鹿島から春日の御蓋山に遷して祀り、春日神と称したのから始まるそうです。
その後、香取の経津主命(ふつぬしのみこと)と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命(あねのこやねのみこと)・比売神(ひめがみ)を併せ、御蓋山の麓に4殿の社殿を造営しました。
この4殿が国宝の本殿です。春日大社には拝殿はなく、春日造の本殿は、東から第1殿に武甕槌命、第2殿に経津主命、第3殿に天児屋根命、第4殿に比売神が祀られていて、脇塀でつながっています。
春日大社は藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺との関係が深く、藤原冬嗣が興福寺南円堂を建立した際、その本尊の不空絹索観音には、春日大社の祭神・武甕槌命を本地仏としたそうです。神仏習合が進むにつれ、春日大社と興福寺は一体のものとなっていきました。
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奈良県奈良市雑司町にある手向山八幡宮です。
手向山八幡宮は東大寺の二月堂から若草山へ行く途中にあります。天平勝宝元年(749)、東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡宮より東大寺の守護神として勧請されました。
当初は平城宮南の梨原宮にあったようですが、東大寺大仏殿南方の鏡池付近に移りました。しかし治承4年(1180)の平重衡による戦火で焼失してしまいました。建長3年(1251)北条時頼によって現在地に再建されたそうです。
現在の社殿は元禄4年(1691)公慶によって再建されたものです。本殿は桁行11間、梁間2間、入母屋造りの檜皮葺きの建物です。若宮本殿、楼門、南北御廊、神楽所などがあります。
御神体は有名な僧形八幡神像でしたが、明治の神仏分離で東大寺勧進所内の八幡殿に移されました。国宝の唐鞍を所蔵しています。
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手向山八幡宮は東大寺の二月堂から若草山へ行く途中にあります。天平勝宝元年(749)、東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡宮より東大寺の守護神として勧請されました。
当初は平城宮南の梨原宮にあったようですが、東大寺大仏殿南方の鏡池付近に移りました。しかし治承4年(1180)の平重衡による戦火で焼失してしまいました。建長3年(1251)北条時頼によって現在地に再建されたそうです。
現在の社殿は元禄4年(1691)公慶によって再建されたものです。本殿は桁行11間、梁間2間、入母屋造りの檜皮葺きの建物です。若宮本殿、楼門、南北御廊、神楽所などがあります。
御神体は有名な僧形八幡神像でしたが、明治の神仏分離で東大寺勧進所内の八幡殿に移されました。国宝の唐鞍を所蔵しています。
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奈良県奈良市奈良市手貝町にある東大寺・転害門です。
国宝の転害門(てがいもん)は境内西北、正倉院の西側にある八脚門です。天平時代の東大寺の伽藍建築を想像できる貴重な門です。
3間一戸、切妻造、本瓦葺きで「佐保路(さほろ)門」「碾磑(てんがい)門」「景清門」とも呼ばれました。東大寺の鎮守である手向山八幡宮の転害会はここをお旅所としました。門中央に御輿を置く石が4つ埋め込まれています。
謡曲の「大仏供養」の舞台でもあります。平家の悪七兵衛景清が、源頼朝が東大寺の大仏供養に参列することを聞き、頼朝を襲撃する為、白張浄衣でここに隠れて待っていたそうです。頼朝の家臣に見破られ、相手を切って立ち去ったそうです。
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奈良県奈良市雑司町にある東大寺・鐘楼です。
東大寺の鐘楼は、東大寺境内の東方、若草山麓にあります。梵鐘は天平勝宝3年(751)の鋳造といわれています。高さ3.86m、口径2.71m、重さ26.3tの大鐘です。中世以前の梵鐘としては最大のものです。
鐘楼は承元年間(1207~1210年)に東大寺の大勧進・栄西(ようさい)禅師により再建されたものと伝えられています。寛正6年(1465)に将軍足利義政について春日詣に来た僧蔭涼軒真蘂の日記、「蔭涼軒目録」に、南都八景(奈良八景)の第一として挙げられています。
鐘楼と梵鐘はともに国宝に指定されている。鎌倉時代の武将・朝比奈三郎が梵鐘を撞いたところ三日三晩、鐘の音がなりやまなかったという伝説が残っています。
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東大寺の鐘楼は、東大寺境内の東方、若草山麓にあります。梵鐘は天平勝宝3年(751)の鋳造といわれています。高さ3.86m、口径2.71m、重さ26.3tの大鐘です。中世以前の梵鐘としては最大のものです。
鐘楼は承元年間(1207~1210年)に東大寺の大勧進・栄西(ようさい)禅師により再建されたものと伝えられています。寛正6年(1465)に将軍足利義政について春日詣に来た僧蔭涼軒真蘂の日記、「蔭涼軒目録」に、南都八景(奈良八景)の第一として挙げられています。
鐘楼と梵鐘はともに国宝に指定されている。鎌倉時代の武将・朝比奈三郎が梵鐘を撞いたところ三日三晩、鐘の音がなりやまなかったという伝説が残っています。
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奈良県奈良市雑司町にある東大寺・大湯屋です。
国の重要文化財に指定されている大湯屋は東大寺の浴場です。蒸気にあたる蒸し風呂です。中世の湯屋というのは、あまり現存してないので貴重なものです。
東西八間、南北五間、西正面入母屋、東背面切妻造りの本瓦葺の建物です。柱の上にある木組みの肘木が和様で、詰め組の中備えをなす丸みのある肘木が唐様になっています。建物全体を横から見ると船のようです。
創建当時の湯屋は治承4年(1180)の兵火で焼失し、現在の建物は建久8年(1197)に俊乗上人により再建されたそうです。その時に造られた湯釜も重要文化財です。鋳物師の草部是助の銘が残っています。
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国の重要文化財に指定されている大湯屋は東大寺の浴場です。蒸気にあたる蒸し風呂です。中世の湯屋というのは、あまり現存してないので貴重なものです。
東西八間、南北五間、西正面入母屋、東背面切妻造りの本瓦葺の建物です。柱の上にある木組みの肘木が和様で、詰め組の中備えをなす丸みのある肘木が唐様になっています。建物全体を横から見ると船のようです。
創建当時の湯屋は治承4年(1180)の兵火で焼失し、現在の建物は建久8年(1197)に俊乗上人により再建されたそうです。その時に造られた湯釜も重要文化財です。鋳物師の草部是助の銘が残っています。
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奈良県奈良市雑司町にある東大寺・四月堂(三昧堂)です。
三月堂(法華堂)の西側に、三間四方で正方形の四月堂(三昧堂)があります。毎年4月に法華三昧が行なわれるのでこの名がついたようです。また、かって本堂の千手観音像の脇侍だった普賢菩薩像を本尊として安置していたので、普賢三昧堂ともいわれました。
平安時代の後期に、仁仙大法師と助慶聖人が創建し、傍らに僧房をつくって、法華三昧行を修したということです。現在の様に二重屋根の形式を持つお堂は、室町時代(1400年~1500年代)の建築物といわれています。
現在のお堂は、天和元年(1681)の再建で、本尊の千手観音は、明治36年(1903)、すでに客仏として安置されていた法華堂からここに移されたものです。
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平安時代の後期に、仁仙大法師と助慶聖人が創建し、傍らに僧房をつくって、法華三昧行を修したということです。現在の様に二重屋根の形式を持つお堂は、室町時代(1400年~1500年代)の建築物といわれています。
現在のお堂は、天和元年(1681)の再建で、本尊の千手観音は、明治36年(1903)、すでに客仏として安置されていた法華堂からここに移されたものです。
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奈良県奈良市雑司町にある東大寺・二月堂です。
国宝の東大寺二月堂は東大寺金堂(大仏殿)の東方、坂道を上りつめた丘陵部にあります。すぐ南には三月堂(法華堂)があります。この地域は上院(じょういん)と呼ばれ、東大寺の前身である金鐘寺(こんしゅじ)があった所で古い歴史をもっています。
二月堂は、回縁を持ち、斜面に建つ懸崖造です。天平勝宝4年(752)、女帝の孝謙天皇の勅願により、良弁僧正の高弟、実忠和尚が創建しました。
本尊は聖観音と、修二会の本尊で実忠和尚が難波の海岸で拾ったといわれている7寸(約21cm)の十一面観音です。2つとも秘仏になっています。
本尊十一面観音に、東大寺の僧侶が人々にかわって罪を懺悔して国家の安泰と万民の豊楽を祈る修二会(しゅにえ)という法要が毎年行なわれます。毎年旧暦の2月(現在は3月)にあることから二月堂と呼ばれるようになりました。
大松明を持った童子(どうじ)が観客の頭上に火の粉を散らしながら舞台を走り抜けます。お水取りのある3月12日には巨大な籠松明11本が二月堂の舞台から突き出され、この火の粉を浴びるとご利益があるとされ大勢の見物客が集まります。
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国宝の東大寺二月堂は東大寺金堂(大仏殿)の東方、坂道を上りつめた丘陵部にあります。すぐ南には三月堂(法華堂)があります。この地域は上院(じょういん)と呼ばれ、東大寺の前身である金鐘寺(こんしゅじ)があった所で古い歴史をもっています。
二月堂は、回縁を持ち、斜面に建つ懸崖造です。天平勝宝4年(752)、女帝の孝謙天皇の勅願により、良弁僧正の高弟、実忠和尚が創建しました。
本尊は聖観音と、修二会の本尊で実忠和尚が難波の海岸で拾ったといわれている7寸(約21cm)の十一面観音です。2つとも秘仏になっています。
本尊十一面観音に、東大寺の僧侶が人々にかわって罪を懺悔して国家の安泰と万民の豊楽を祈る修二会(しゅにえ)という法要が毎年行なわれます。毎年旧暦の2月(現在は3月)にあることから二月堂と呼ばれるようになりました。
大松明を持った童子(どうじ)が観客の頭上に火の粉を散らしながら舞台を走り抜けます。お水取りのある3月12日には巨大な籠松明11本が二月堂の舞台から突き出され、この火の粉を浴びるとご利益があるとされ大勢の見物客が集まります。
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奈良県奈良市雑司町にある東大寺・三月堂(法華堂)です。
国宝の三月堂(法華堂)は東大寺の前身とされる金鐘寺(こんしゅじ)の羂索堂(けんさくどう)といわれています。天平時代建築の東大寺最古の建物で、高さ3.6mの本尊、不空羂索(ふくうけんじゃく)観音立像(国宝)を安置しています。
不空羂索観音立像の左右には日光・月光菩薩立像(国宝)が、穏やかな表情で合掌して立っています。須弥壇左右には高さ4mの梵天・帝釈天立像(国宝)が立ち、内陣の四隅には高さ3mの四天王立像(国宝)が立っています。
正面の礼堂は鎌倉時代に修造されたもの。毎年3月にここで法華会(ほっけえ)という行事が営まれることから三月堂(法華堂)と称されるようになったそうです。
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国宝の三月堂(法華堂)は東大寺の前身とされる金鐘寺(こんしゅじ)の羂索堂(けんさくどう)といわれています。天平時代建築の東大寺最古の建物で、高さ3.6mの本尊、不空羂索(ふくうけんじゃく)観音立像(国宝)を安置しています。
不空羂索観音立像の左右には日光・月光菩薩立像(国宝)が、穏やかな表情で合掌して立っています。須弥壇左右には高さ4mの梵天・帝釈天立像(国宝)が立ち、内陣の四隅には高さ3mの四天王立像(国宝)が立っています。
正面の礼堂は鎌倉時代に修造されたもの。毎年3月にここで法華会(ほっけえ)という行事が営まれることから三月堂(法華堂)と称されるようになったそうです。
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