フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

9月17日(木) 晴れ

2009-09-18 23:41:26 | Weblog

  夕方、散歩に出て、今日は17日だから『加藤周一自選集』全10巻(岩波書店)の最初の巻が出る日であることに思い至り、くまざわ書店に行ってみると、ちゃんと出ていた(くまざわ書店には加藤周一のコーナーがあるのだ)。さっそく購入。『現代思想』7月臨時増刊号(加藤周一総特集)も併せて購入。たまたま近くにあった仲正昌樹『Nの肖像』(双風舎)も購入。彼が統一教会の会員として過ごした11年間(1981-1992年)のことを書いたものである。
  「シャノアール」で『加藤周一自選著作集1』の最初の二編を読む。二編とも加藤が高校(旧制一高)時代に校内の雑誌に書いたもので、1つは日独合作映画『新しき土』(監督は伊丹万作とアーノルト・ファンク)の評論。もう1つは小説「正月」。映画評の方はあまり感心しなかったが、小説の方は本当にびっくりした。加藤の小説は『ある晴れた日に』など著作集に数編入ってはいるが、はっきりいって素人の作品で、彼が創作に早々に見切りをつけて評論の道に進んだのは正しい判断だったと思っている。しかし、「正月」はいい作品である。中学時代の恩師の家を正月に訪問する話なのだが、そこで感じる安堵感と違和感を的確に描写し、分析してみせた作品で、「解説」の鷲津力は「人間の心理を漱石風な筆致で描く佳作である」と書いていたが、私にはむしろ「直哉風」のように思えた。18歳の青年が漱石風の文体で書くことは滑稽だが、直哉風の文体で書くことは共感できる(私自身がそうだったから)。それから川端康成の「伊豆の踊子」の影響も読み取れる。主人公は同じ一高生で、同じくアイデンティティの危機の中にいる。踊子に相当するのは恩師の娘さんである。小説の最後、先生の家を辞する場面。これは「伊豆の踊子」の港での別れの場面を彷彿とさせる。

  外では先生のお嬢さんが新しい友だちと愉快そうに羽子をついていた。
  「さようなら。遊びにいらっしゃい」。
  「もうお帰り?」
  しばらくして想出した様に、
  「さようなら」と言った。
  「きっと遊びにいらっしゃい。日曜には妹もいます」。
  「さようなら」。
  又あとから少し歩き出した私に大声で、
  「みなさんによろしくうー」と無邪気に呼びかけた。私ももう一度大声で「さようなら」を返した。
  帰りの電車の中で私は小学生の母親達の姿を皮肉に想い浮かべる度に、すぐにこの明るい「さようなら」を想出していた。この明るい「さようなら」とは私の叫んだ「さようなら」である。私はそれまで自分がこんなに淡白な大声を出せるとは思っていなかった。そうして大いに安心した。しかしそんなことに大げさにこだわって、何か発見でもした様に安心したりしているのが、自分の日常のアブノーマルな証拠だとも思えた。
  池袋からの省線はこんでいた。私はおのぼりさんの様に雑踏を眺め廻した。暮れに或る喫茶店で知りあった友達のSに肩を叩かれて、私ははじめて都会人になったような気がした。(15-16頁)

  帰宅して風呂に入っていると、出版社の社員の方がゲラ(再校)を届けに来てくれた。夕食後の時間は深夜までゲラの校正。