フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

7月2日(土) 曇り

2011-07-03 02:14:25 | Weblog

  9時、起床。少々寝坊してしまった。朝食はとらずに9時半に家を出て、大学へ。
  10時半から大学院(社会学コース)の推薦入試の面接。それを終えてから、「たかはし」に朝食兼昼食をとりにいく。刺身定食を注文する。

  1時から社会学コースの修士論文の中間報告会。4人の報告を聞く。2時間半ほど。
  教務室の机の上の書類の山がそろそろ崩れそうになっているので(実際、何度か地すべりを起こした)、整理整頓。教務になって2回目の作業である。やっぱり天板が露出している机はさっぱりして気持ちがいい。

  6時半頃頃、大学を出る。「あゆみ書房」で以下の本を購入。電車の中で『レコード芸術』を読む。この雑誌を購入するのはたぶん初めてである。特集「吉田秀和―音楽を心の友と」を読むためであるが、雑誌のタイトルに老舗の風格を感じる。

  『レコード芸術』7月号(音楽の友社)
  茂木健一郎編『わたしの3・11』(毎日新聞社)
  『現代思想』5月号(青土社)

  蒲田に着いて、駅ビルの洋菓子屋でシブーストを買って帰る。妻と二人の夕食のデザート用である。顔なじみの店員さんに「いつもありがとうございます」と笑顔で言われる。  

  深夜、吉田秀和のインタビューを読み耽る。高校、大学時代の、中原中也や吉田一穂らとの交流について質問されて、こう答えている。

  「でも、中原にはある時期からはあまり会わなくなりましたね。少し生活が違い過ぎたからね。中原は純粋な詩人で、詩を書いている時の他は、もう何をしていいかわからない人間なんです。だから、マージャンなんかして時間をつぶしている。ああいう人たちは、生きるのが楽じゃないよ。でも、以前も話したことがあるけれど、僕はこの二人から決定的なことを学びました。それは勤めたりしないで、好きなことをして、ごろごろしていても―少々語弊があるけれど―成り立つ生活があるということです。」(41頁)

  「あの人たちは「もう一つの人生」というのを歩いているんだと思いました。詩というのは「一つの世界」です。散文はいわば現実の世界と交渉しながら、その中でのいろいろな夢だとか何かを語るものだけれども、詩は―彼らの詩を見る限りにおいては―言葉としては「私の上に降る雪は」とか「汚れちまった悲しみに」なんて、あんなごく俗っぽいことを言っているけれども、それは世の中の人にわかりやすく書いているので、本当はただ、「悲しい」と言っているんですよ。自分が汚れちまったなんて夢にも思っていない。だけど、人がわかるようにそういう言葉をつける。「悲しい」ということで、一つの「言葉の城」を築いているんですね。」(41頁)

  「終戦の年に内閣情報局は解散、僕たちは文部省へ移りました。けれど、僕はもう辞めるつもりでいました。こんなばかばかしいところに、いつまでもいられないと。当時は今日出海(こんひでみ)が課長でしたが、彼のところに言って「辞める」と言ったら、「そんなことを言って、これから生活が大変だぞ」と。だけど、大学や高等学校のときに見た中原中也や吉田一穂みたいに、そんなことをしなくても、何とか生きていかれるだろうと思っていました。それで、家で、音楽のことを書き始めました。」(43頁)

  音楽評論家吉田秀和はこうした誕生した。
  吉田秀和は1913年(大正2年)の生まれ。今年で98歳になる。