劇団「獣の仕業」第4回公演「飛龍伝」(原作:つかこうへい、演出:立夏)を観に西荻窪の「遊空間がざびぃ」に妻と出かける。西荻窪の駅から会場までの道はナントカ銀座という名前の商店街になっていて、途中、善福寺川を渡る。杉並区にある善福寺池が水源で、神田川に合流する4キロほどの川である。関根橋の上から見ると、水はきれいで、鯉が泳いでいるのが見える。
開演は午後1時。つかこうへいが亡くなってちょうど1年。いま、あちこちで彼の作品が上演されている。劇団獣の仕業も劇空間がざびぃの企画に参加させてもらって、『飛龍伝』に取り組みことになったのである。脚本はあらかじめ存在するわけだから(手を加えることはできるとしても)、演出でどう劇団らしさを出すかということになる。開演30分に前に会場に入ると、すでに舞台には役者たちが勢ぞろいしていた。観客を出迎えるためではなく、それぞれの場所に留まって、オブジェのようにじっとしている(手足はときどきストレッチをするように動かす)。だんだん増えてくる観客たちは、開演前のおしゃべりをしながら、目の前の役者たちを観ている。開演前なのだが、すでに芝居は始まっているような、不思議な時間である。やがて、娘(今回は演出のみ)が舞台の袖に立って、開演を告げた。
『飛龍伝』は、70年安保闘争を描いた作品である。全共闘と機動隊という二つの敵対する集団があり、全共闘作戦参謀長の桂木順一郎と第四機動隊の山崎一平は中学校時代の同級生で、全共闘のメンバーでやがて委員長に祭り上げられる神林美智子は桂木の女であると同時にスパイとして山崎の元に送り込まれてやがて愛し合い彼の子どもを産むという入り組んだ関係がある。組織への個人の忠誠と裏切り、男同士の友情の虚実、男女の愛情の虚実、この3つの軸が絡み合いながら物語は進行していく。つかこうへいの紡ぎだす台詞は、執拗で、過剰である。これでもか、これでもかとたたみかけてくる。その緊張からの弛緩としてつかこうへいの演出では、役者に歌謡曲を歌わせたりするのだが、立夏の演出はそれを踏襲しない。代わりに、役者たちの舞踏的な身体所作が言葉の時間の隙間に無言の時間を挿入している。獣の仕業らしさがよく表れているところであるが、無言の時間は弛緩ではなく言葉とは別の緊張に満ちているので、結局、舞台は終始緊張をはらんでいた。可笑しみのある台詞はところどころに出てくるが、それは不安や怒りと隣合せの可笑しみだから、うっかり笑うわけにはいかない。90分という上演時間は緊張の持続時間としては適当だろう。
つかこうへいの世界を、70年安保闘争の時代を、若い演出家や役者たちがどう受け止めて舞台に臨むのか、都市と農村の格差、金持ちの家庭と普通の家庭と貧しい家庭の格差、学歴による格差(全共闘の若者は大卒で―ただしニセ学生もいる―、機動隊の若者は中卒だ)を彼らはリアリティをもって演じることができるのか、そういう気持ちがないではなかった。しかし、今日の舞台を観る限りでは、時代こそ違え、若者であることのシンパシーの方がずっと大きかったと思う。「現代社会」はいつも危機の時代として語られてきたし(社会学者もそれに加担してきた)、青年期はいつも危機の時代として語られてきた。つまり、いつも若者は危機の渦中にあるのである。ほとばしる台詞の端々に私はそれを改めて感じた。
登場した役者は9人。おなじみの人、初めて見る人、それぞれに個性と演技力があり、劇団としての底力と厚味を感じることができた。次回の公演は今年の秋、「せかいでいちばんきれいなものに」とすでに決まっているらしい。楽しみに待ちたい。
帰り道、妻と「甘味あらい」に寄って(蒲田駅からまだ営業中であることを確かめて)、カキ氷を食べた。私はいちごミルク、妻は白くま。
どこかで早めの夕食をとって帰ろうということになり、自宅に電話して息子を呼びだし、「天味」に行く(電話をして5時から営業していることを確認した)。天ぷら定食(かきあげ付)を注文し、3人でカウンターに並んで食べた。海老、キス、穴子、舞茸、海老、隠元、この順序で出てきたものを塩と天つゆで食べる。最後のかきあげは小天丼にしたもらった。
家の前の帰り道、まだまだ西の空は明るかった。