8時半、起床。
お汁粉の朝食。朝からお汁粉かと思う方もいるだろうが、母があんこをたくさんつくったので、消費しないといけないのである。
年始の墓参りに行く。年末以来の好天もひと段落で、薄曇りの空の下、今日は寒い。
正月三が日は墓参の人も多かったらしいが、今日のお寺には私のほかに誰もいない。
墓参りに後の昼食は年末のときと同じ「川しま」の鴨つくねそば。続けて食べてもやっぱり美味しい。支払いのときお年始に「やげん掘」の七味唐辛子をいただく。日本橋薬研掘は清水幾太郎の生家のあった場所だが、七味唐辛子の老舗「山徳」があり(現在は浅草に移った)、それで七味唐辛子のことを薬研掘と呼ぶようになったのだ。
食後のコーヒーを飲むためのカフェを探して商店街(うぐいす通り)を歩く。
「デン」が開いていた。『孤独のグルメ』シーズン3第8話で鶯谷が取り上げられたときに登場したカフェである。となれば、コーヒーだけですますわけにはいかない。井之頭五郎が食べたソフトクリームののったプリンも注文する。・・・というのは私の勘違いで、あとからネットで調べたら、五郎が注文したのはソフトクリームののったコーヒーフロートだった。
帰宅途中、東京駅で下車して、東京ステーションギャラリーに寄って行く。「植田正治のつくりかた」は初日(10月12日)に来て観ているが、今日が最終日なので、もう一度観ておくことにした。
植田の写真は「構図」と「演出」だ。「構図」だけなら多かれ少なかれどんな写真家も意識しているだろうが、植田は「演出」して「構図」を作る。たとえばアンリ・カルティエ=ブレッソンは「構図」の人だが、彼の作品は演出を感じない。そういう決定的な構図の瞬間を偶然、あるいは辛抱強く待って、撮ったような印象を与える。だからその「構図」は「決定的瞬間」となる。しかし、もしかしたら自転車に乗っているのは彼の撮影助手なのかもしれない。だとすれば、彼は「演出」の痕跡を残さずに「構図」を「演出」をしているのだといういい方ができるだろう。植田の場合は、実にあっけらかんと「構図」を「演出」してみせるのだ。有名な家族写真もそうだが、チラシに使われている「小狐登場」(1934)にしても、林ナツミの「本日の浮遊」と同じことを80年の昔にすでにやっているのである。
アンリ・カルティエ=ブレッソンの作品
東京ステーションギャラリーは2階の展示場から東京駅の丸の内北口の改札口を見下ろす回廊にという構造になっている。ここからの眺めは一見の価値がある。人々の動きを「演出」することはできないが、人々の配置は常に変化しているので、ある瞬間の「構図」を写真に撮ることはできる。「東京砂漠」といういい方もあるくらいだから、植田が「砂丘」でしようとしたことは、ここでもできるのではないかと思う。
東京ステーションギャラリーを出ると、さきほど二階の回廊から見下ろした場所に出る。
ここでは人々は天上を見上げる。(通勤客はもう飽きて見上げないが)
その真下の場所は、一段と照明が明るくなっている。まるでスポットライトのあたる舞台の中央のようである。
大井町で途中下車して、ヤマダ電機に寄る。
長年使っていたCDコンポがいよいよ壊れてしまったようなので、とりあえず、机上で使っているノートパソコンに接続するスピーカーを購入した。これ、信じられないことに、580円である。音には何の問題もない。現在の主流は一本のUSBでPCから電源と音源を同時に取り込むタイプだが、これはUSBで電源を取り込み、3.5ミリのステレオミニプラグで音源を取り込むという二本立てである。なので時代遅れになって、正月のセール商品に回されたのだろうが、音質はUSB一本のものよりむしろいいような気がする。いい買い物をした。これならわざわざ新品のCDコンポを購入する必要もないように思う。
蒲田に着いたときは6時近くになっていた。
今夜の献立はポトフ。
「今夜は『のぼうの城』をテレビでやるのよ」と妻が言っていた。私は録画をして後から見ようと思っていたら、妻が書斎のテレビで見始めていた。「主人公はまだ登場していないわ。子どものときの話からするのかしら」と妻が言っている。私は妻に教えるてやるべきかどうか一瞬迷ったが、ここはやはり真実を教えてやらねばならないと思い、言った。「君がいま見ているのは『のぼうの城』ではなくて、大河ドラマ『軍師官兵衛』だよ。『のぼうの城』はまだ始まっていないから。」どうして30分も経過してそのことに気づかないのだろうか。不思議だ。