7時、起床。
昨夜の残りのロールキャベツとパンの朝食。
10時過ぎに家を出て大学へ。今日は会議日。
11時半から大学院の社会学コース会議。いつもは出前の「たかはし」の弁当を食べながらの会議なのだが、今日は議論が白熱して、弁当は会議が終わってから、研究室で食べた。
2時から教授会。議論になりそうな議題もあったが、案外スラスラと進み、4時半頃に終わる。
研究室で雑用を片付けて、5時過ぎに大学を出る。
「maruharu」に寄ってコーヒーを飲んでいく。ショーケースの中にりんごとチョコレートのタルトがあったが、お八つには遅い時間帯なので(夕食は腹ペコで食べたい)、我慢する。客は私だけで、はるさんと世間話をしながら、少ししんみりとした気分でコーヒーを飲んでいたら、こーちゃん一家がやってきた。ちょうどこーちゃん一家の話をしているところだったので、噂をすれば影というやつである。こーちゃん一家と書いたが、それはまだこーちゃん一人だけだったときの呼び名で、いまは、こーちゃん、あおいちゃん、しんちゃん一家、いや、3人のお母さんであるあやかさんの名前も加えるべきだなのだが、それではあまりに長いので、便宜上、こーちゃん一家と呼んでいる。こーちゃんとあおいちゃんは競うようによく喋る。しんちゃんはまだ7か月だから喋らないが、これでしんちゃんが喋り始めたらどうなることやら。昔は珍しくなかった3人きょうだいだが、少子化の進行する現在では、小さな3人の子どもを従えて街を行くあやかさんがとてもたくましく見える。
7時、帰宅。夕食のメイン料理は鶏とじゃがいものスープ煮(鶏じゃが)。
食事をしながら「私の嫌いな探偵」の初回(録画)を観る。浮気調査と行方不明のペットの捜査が専門の探偵(玉木浩二)とミステリー好きの女子大生(剛力彩芽)のコンビが殺人事件の真相解明に挑むという話。二人のコミカルなやりとりは「リーガルハイ」の堺雅人と新垣結衣を思わせるところがある。
だんだん句会の日が近づいてきたということもあり、『漱石俳句集』(岩波文庫)を読みたくなる。漱石が生涯に作った俳句は約2600句。本書にはその3分の1にあたる848句が収められている。編者の坪内稔典は私の参加している句会の主宰である紀本直美さんの先生にあたる人である。私にとっては俳句の先生の先生であるから大先生である。
漱石は小説家になる前は大学教師(英文学者)であったが、さらにその前(留学前)は新進気鋭の俳人であった。それは同郷の友人、正岡子規との交流によるものだが、子規は「明治二十九年の俳句界」という評論の中で河東碧梧桐や高浜虚子といったこれからの俳句界を背負う若手の俳人たちの一人として漱石をあげ、「漱石は明治二十八年始めて俳句を作る。始めて作る時より既に意匠において句法において特色を見(あら)はせり」と述べている。そのとき紹介された漱石の句は次のようなものであった。
紡績の笛が鳴るなり冬の雨
長けれど何の糸瓜(へちま)とさがりけり
底見ゆる一枚岩や秋の水
生垣の上より語る小春かな
紡績工場の何かの合図のホイッスルに着目するモダンさ、糸瓜の描写の滑稽さ、水底の一枚岩を見つめるまなざしの真摯さ、そして市井の人々の日常に目を向ける精神の健全さ、漱石の句にはそうした特色があった。
しかし、結局、漱石は俳句の道一筋という人生は送らなかった。俳句は句会に象徴されるように「仲間の文学」であるが、英国への留学(明治33年)、そして留学中の子規の死(明治35年)によって、漱石は「仲間の文学」からは遠ざかることになった。ただし、遠ざかることにはなったが、捨てたわけではない。漱石は文学研究や創作の傍らで、精神のバランスをとるかのように、句作は続けた。世評に高い漱石の句は主として修善寺での大患の回復期(明治43年秋)の作である。
別るるや夢一筋の天の川
秋の江に打ち込む杭の響かな
肩に来て人懐かしや赤蜻蛉(とんぼ)
「漱石や子規は俳句に過重な期待をしなかった。それが彼らのいちじるしい特色であった」と坪内は述べている(「解説」232頁)。 子規のことはよくわからないが、確かに、漱石についてはそういうことが言えるだろう。漱石が過重な期待をしたのは、まず文学研究であり、その息苦しさから逃れるように余技で始めた軽妙洒脱な小説もしだいに過重なものになっていったが、俳句については終始「軽み」を失うことはなかった。
ちなみに今年の年賀状に添えた漱石の句「馬の背で船漕ぎ出すや春の旅」は『漱石俳句集』には採られていない。この句は明治24年8月3日付の子規宛ての書簡の中に書かれたものである。