8時、起床。
トースト、ベーコン&エッグ、サラダ、牛乳、紅茶の朝食。
お昼に家を出て、妻と吉祥寺へ。
2時から劇団「獣の仕業」の公演が「櫂スタジオ」である。
第13回公演「THE BEAST」。劇団創設10周年ということで、劇団名から取ったタイトルの芝居である。
開演の20分ほど前に劇場に入ると、いつものように役者たちはすべに舞台の上にいて、ウォーミングアップのようなパファーマンをしている(上演中ではないのでカメラはOKとのこと)。
平田オリザによると、演劇は3種類の対話を内包している。第一に、舞台上での登場人物同士の対話。第二に、劇団内における(稽古を通しての)作家、演出家、役者相互の対話。第三に、劇場における表現する側とそれを観る側の対話である(平田オリザ『演劇入門』1998)。彼がその本を書いた20年前は、SNSはまだ普及していなかったから、いまならば第四に、芝居の後に後にネット空間で交わされる対話を加えるべきだろう。今回の公演『THE BEAST』は第二の対話、すなわち劇団内における作家、演出家、役者相互の対話を主要なモチーフにしている。通常の公演では、一番表に出ない、観客には聞こえてこない舞台裏の対話である。それを今回、表舞台上に持ち出したのだ。ある意味、内輪ネタであり、自己言及的な危うさ(「クレタ人はみんな嘘つきだ」と一人のクレタ人が言った、みたいな)の漂うテーマである。
劇団「獣の仕業」は同じ大学の演劇部のメンバーを中心にして(彼らの卒業直後に)発足し、公演ごとに客演のメンバーを得て、今日まで芝居を続けてきた。発足時20代前半であった中心メンバーはいま30代前半であるが、この10年間で舞台を去った(劇団を離れた)者もいる。私は全13公演すべてを観て来たので、メンバーの出入りについてはわかっているが、個々の事情については知らない。しかし、学生の頃とは違い、社会人となった彼らが、職業生活や家庭生活と演劇活動を両立或いは鼎立させていくことは簡単ではあるまいということは簡単に想像がつく。彼らにとって演劇を続けること、演劇人でありつづけることの意味は何なのか。それを自ら問おうとしたのが、今回の芝居である。
ストーリーはSF的である。「かつて地球に多く生息していた“エンゲキジン”という動物が滅びようとしていた。あるものは子供ができたため、あるものは演劇で食っていけず、あるものは・・・・そして千年後。とうとう地球上のエンゲキジンはある男ひとりになってしまった。男はかつて十年続いたある劇団のメンバーだったが、昔の仲間との思い出を忘れることができずに、滅んだ仲間を泥で作り稽古を繰り返していた。そんな彼の元にひとりの女がやってくる。女は言う。「私の名はシュジンコウ。月からやってきた“カンキャク”最後の生き残りです」 千年の時を越え、エンゲキジンとカンキャクが出会う。そして再び演劇が始まる―」(本公演のチラシより転載)
最後のエンゲキジンと最後のカンキャクとの間でこんな会話が交わされる場面がある。
最後のカンキャク「エンゲキジンは死んだらどうなるの。」
最後のエンゲキジン「シャカイジンという動物に変わる。」
最後のカンキャク「シャカイジン? 死んだわけではないの。」
最後のエンギジン「いいじゃないか、泥も結構いいもんだよ。」
私は思わず吹き出しそうになった。しかし、グッとこらえた。もし笑えば、それは自らに返ってきて、自嘲的な笑いになるからだ。私は泥人形の一体かもしれないのだ。
論理的に考えれば、ほとんどのエンゲキジンは同時にシャカイジンでもある。日常用語で社会人とは労働市場(社会)に出て自らの生活の糧を得ている人のことである。実際、獣の仕業のメンバーも定職にしろアルバイトにしろ職業生活を送りなら劇団員としての活動を続けてきた。ここでいう「エンゲキジンが死ぬとシャカイジンになる」というのは、演劇活動が生活(人生)の中心から消失することを意味する。演劇活動の消失は、エンゲキジンにとって心臓の鼓動の停止であり、ただのシャカイジン(=泥人形)になることである、と。ここには「演劇」というものに至高の価値を置く少々高慢な考え方がある。おそらくエンゲキジンたちもそのことは自覚しているだろう。しかし、「演劇」をオンガクジンにとっての「音楽」、エカキジンにとっての「絵画」、ガクモンジンにとっての「研究」などと等価なものであると考えるならば、「エンゲキジンが死ぬとシャイジンになる」という表現は、それほど突飛なものとはいえなくなる。ただし、「演劇」がいま挙げた他の至高の価値に比べて、「金にならない」という点と「一人ではできない」という点でより際立っているということは忘れてはなるまい。「金にならない」ことに時間とエネルギーを注ぐことは反資本主義的であり、「一人ではできない」ことに時間とエネルギーを注ぐことは反個人主義的である。つまり現代社会のあり方への批判的スタンスがここにはある。だからこそエンゲキジンであることを止めることは、一種の「転向」、社会体制への屈服であるように感じられるのだろう。
ここで社会学的な視点を導入すると、「演劇」はエンゲキジンだけのものではない。泥人形であるただのシャカイジンも日々の生活の中で「演劇」を続けている。家庭という舞台、学校という舞台、職場という舞台、電車内という舞台、カフェという舞台・・・ただのシャカイジンもさまざまな舞台を掛け持ちしながら、日々、「演劇」を続けている。ある舞台では主人公として、ある舞台では脇役として、ある舞台ではエキストラとして、というのは正確な言い方ではなく、それらを通して、その人が主人公であるような「私の生活(人生)」という「演劇」をしているのだ。エンゲキジンは、「私の生活(人生)」というリアルな(そして無自覚な)「演劇」の中で、劇中劇のように、フィクションとしての(自覚的な)「演劇」をしているわけである。
リアルな「演劇」には不純物が多く含まれる。つまらない台詞、くだらないストーリー。そして純粋な観客の不在。そこでは役者はすべて同時に観客であり、純粋な観客というものはいない。誰もが自分の演技に夢中で、他者の演技をちゃんと観ていない。しかし、フィクションとしての「演劇」には洗練された台詞、練られたストーリー、そして純粋な観客が存在する。リアルな「演劇」からはめったに得られないエクスタシーをフィクションとしての「演劇」はもたらしてくれる。それが「演劇」の魅力であり、魔力である。
このことはわれわれがなぜ「演劇」を観るのかの説明にもなっている。われわれは不純物の多いリアルな「演劇」の主人公であるが、フィクションとしての「演劇」の観客となることで、エンゲキジンとエクスタシーを分かち合っているのだ(その取り分はエンゲキジンよりも少ないものであるけれども)。本日の公演時間は85分。いつものように純度の高い時間と空間であった。 フィクションとしての「演劇」はリアルな「演劇」の世界とは明確に時間と空間によって仕切られている。私たちはそこに入り込み、そしてそこらか出て来る。そしてリアルな「演劇」の世界に戻って行く。その前後で、リアルな「演劇」の世界は少しばかり違ったものになっているはずである。なぜなら、フィクションとしての「演劇」はリアルな「演劇」の外側にあるわけではなく、実は、リアルな「演劇」の内部にあるからである。劇中劇というのはそういう意味である。フィクションとしての「演劇」にはリアルな「演劇」の世界をその内部から活性化する作用がある。
手塚優希はますます演技の幅を広げている。
小林龍二は、その初期を知っている観客からすると、予想もできなかったほどの演技力を身に付けた。
雑賀玲衣はいつも輝いている。
きえるの役への没入の仕方には息を飲むものがある。
客演の二人、松本真菜美と松村瀬里香は、私は初めて観る役者であったが、松本は小生意気なエンゲキジンを、松村は「たまたま」のエンゲキジンを、獣のテイストで演じ切っていた。
メリハリの効いた照明(寺田香織)と音響(新直人)はシンプルな舞台に広がりと奥行きを与えていた。
脚本と演出の立夏は、今回の芝居で10年間のエンゲキジン生活で溜まったおりのようなものを吐きだして(間接話法によってだが)、次の10年(未定だが)に向かって歩みを進めていくだろう。
お疲れ様。次回作も楽しみにしています。
駅に戻る途中にあるレストランカフェ「ハティフナット」で食事をする。
「櫂スタジオ」に来たときはいつもここに立ち寄っている。
私は茄子のカレードリア(正確な名前ではないと思います)。
妻はミートドリア(同じく)。
トマトとモッツァレラチーズのサラダ。
タコのマリネ。
食後のドリンクは、私はクリームソーダ(イチゴ)。妻はロイヤルミルクティー(お酒入り)。
店を出るともう日が暮れていた。
夕食としては早い時間だったので、蒲田に着いてから駅の構内の弁当屋で、マイセンのカツサンドを買って帰る。
エンゲキジンは差し入れを糧に生きていて、マイセンのカツサンドはその定番らしい。
2時、就寝。