フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

8月28日(水) 雨、夕方には上がる

2019-08-29 21:51:00 | Weblog

8時半、起床。就寝(2時)時に薬を飲んで、途中で目が覚めることなく、6時間眠った。まだ眠いけど。30分ほど居間の15分ほど居間のソファーでボッーとする。

耳鳴りは起き抜けが一番大きく、しばらくするとトーンダウンしてくる。耳鳴りといってもいろいろなタイプがあるようだが、私は「シーンとした静けさ」などと表現される「シーン」が実際に音になったような感じ。長年の付き合いということあって、馴れてしまって、そんなにうるさくは感じない。ただ、疲れていたり、寝不足だったりすると、音が大きくなり、音色も「シーン」が「ジーン」になったり、「キーン」となったりする。

トースト、サラダ、牛乳、紅茶の朝食。

『なつぞら』の主題歌はスピッツの歌う「優しいあの子」だが、これまで耳だけで聞いていた、歌詞を文字で確認したことはなかたが、今日初めて確認して、自分が勘違いしていたことに気付いた。

 重いとびらを 押し開けたら

 暗い道が 続いてて 

 めげずに歩いた その先に

 知らなかった世界 

 氷を散らす 風すら

 味方にも できるんだなあ 

 切り取られる ことのない

 丸い大空の 色を 

 優しいあの子にも 教えたい

 ルルルル ルルルル ルル ルルル~ 

 口にするたびに 泣けるほど

 憧れて 砕かれて 

 消えかけた火を 胸に抱き

 たどり着いた コタン

私が勘違いしていたのは、5行目の「氷を散らす風にも」のところ。「氷を散らす」を「恋を知らず」と聴いていた。ただ、恋を知らないことと風を見方につけられることとの関連はわからなかった。ナウシカは恋を知らないのだろうか、と思ったりした。そうか、「氷を散らす」だったのか。日本語の自然なイントネーションと歌い方のイントネーションが呼応していなのでそう聞こえなかったのだろう。念のため、妻にも確認したところ、妻は「恋を散らす」と思っていたそうだ。

今日は朝から雨が降っている。午後から外出する予定があるのだが、止みそうになり。窓を濡らす雨を味方にはできないようである。

午後1時に家を出る。

しばらく夏休みだった「ティースプーン」が今日から再開したので、昼食はここで食べることにしよう。 

再開初日が雨というのはパッとしないけれど、夏休み明けですから、今日は試運転ということでしょう。

パンサラダセットを注文。おっ、休み前は紙コップだったホットティーが白いカップに入ってますね。店主のシマダさんが休み中に河童橋に出かけて行って、買いそろえたそうである。リクエストにお応えいただき、ありがとうございます。 

パンサラダの方も、前回食べたときは最初からドレッシングが全体にかかっていたが、いまはドレッシングは容器に入って出てきて、客が自分の好みでかけれれるようになっている。これもありがたい。パンは少し濡れている程度がいい。 

美味しかったです。ごちそう様でした。秋はパンと紅茶がいっそう美味しい季節ですね。 

 大学へ。

今日はゼミ論相談の予約が2件入っている。 

 3時からIさんのゼミ論相談。差し入れにクリーム白玉をいただいた。

続いて4時からAさんのゼミ論相談。フルーツゼリーを差し入れていただいた。とても美味しかったが、今日は2人だからよかったものの、次回(9月2日)は4名予約が入っている。もし今日のように各自がスイーツを差し入れていただくと大変なことになる。個々人の善意の総和は、意図ざる結果として、私のカロリーの過剰摂取につながる。スイーツ四連発ではなく、途中にお煎餅などを挟むなどしていただくとありがたいです。あっ、こんな風に書くと、まるで差し入れを催促しているみたですね。    

差し入れはありがたいですが、2人ともレジュメを用意してこないのはいけませんね。レジュメを作ることで頭の中が整理されますから、これから相談に来る人はぜひレジュメ、せめてメモ書きを用意してきて下さい。 

5時半に大学を出る。今日はこの後、もう一つ用事がある。江古田の「兎亭」で芝居を観るのだ。劇団「獣の仕業」のThe Out of  Beast 2019 ひとりふたり芝居3ヵ月連続上演企画「よくない噂」の第2回、岸田國士の「紙風船」である。

6時半に江古田駅で妻と待ち合わせる。開園は8時なので、その前に夕食を取る。この前と同じタイ料理の店に行く。 

店の人も客もタイの人が多いようである。

私はパッタイ。 焼きそばですね。

妻はカオクックカビ(海老のペーストを使ったチャーハン)。「混ぜて食べてください」と言われる。 

真っ赤な唐辛子。「辛いですよ」と言われたので、ちょっと口に入れてみたが、すごーく辛い。でも、チャーハンは甘めの味付けなので、混ぜた方がいいみたい(ただしまんべんなく混ざるようにしないと、まとめて口に入ったら火を噴くことにある)。 

セットの野菜スープ。 

 

食後にコーヒーを注文。私は勘違いしていたのだが、元々メニューに載っているコーヒーは、コーヒーの投入割りのサワーみたいなアルコール飲料だった。それを普通のコーヒーで出してもらった。

妻もカシスのジュースを頼んだつもりだったが、ジョッキで出てきたので、アルコールドリンクであることは間違いない。「アルコール入ってます?」と妻が店員さんに聞いたところ、彼は「薄いよ」と文句を言われたと思ったようで、「もうワンプッシュ入れましょうか?」と聞き返してきた。いえいえ、それには及びません。 

お腹もよくなり、妻は少々アルコールが入り、「兎亭」へ向かう。 

本日の演目は「紙風船」。岸田國士が大正14年に発表した作品である。小林龍二(獣の仕業)と斉藤可南子(兎団)による二人芝居である。 

会場は地下1階。

二人の役者はすでにフロアーの中央に座っている。 

子どものおもちゃの類によってがサークルがつくられ、二人はその中にいる。

日曜日の庭に面した座敷で新婚夫婦が話をしているという設定だが、そういう開放的な空間で交わされる会話ではなく、密室劇のような雰囲気が漂うのは、二人の会話にくつろいだ雰囲気がない(むしろちょっと張りつめている)のと、そして二人がサークル=家庭の中に閉じこもっているからだろう。 二人は日曜日の過ごし方について話をしている。日曜日をいかに退屈せずに過ごすかということである。

「紙風船」は青空文庫で読むことができる→こちら (ちなみに今回の芝居は原作通りである)

ここでちょっと注釈を加えておくと、佐藤春夫が随筆『退屈読本』を書いたのは大正15年のことだ。退屈なときに読む本、読者を退屈させない本というような意味だが、「退屈」というのは時代のキーワードの1つだった。食うや食わずで働いている人には「退屈」というものがない。「退屈」は「豊かな社会」の軽度の精神病理的現象なのだ。人々は退屈を恐れていた。大正末期というのはそういう時代だったのだ。

夫は妻を退屈させてはいけないと思い、妻は夫に迷惑をかけてはいけないと思っている。つまり相手に気を使っている。にもかかわらずではなく、まさにその故に、二人の会話はギクシャクしている。二人は「夫婦」を演じることに初心者なのだ。これを「新婚さん、かわいい」と受け止めるのは表層的な理解といわざるをえない。夫婦が向き合って、会話を交わすというのは、なかなかに大変なことなのだ。まだテレビというものがない時代である。そして二人にはまだ子どもがいない。夫婦が直接に向き合わざるをえないのである(夫は新聞を読むのが精いっぱいの逃げ道である)。二人で会話をするということは、二人は話し手であるか聞き手であるか、常にどちらかの役割を演じているということだ。そしてそれはしょっちゅう入れ替わる。タイミングよく入れ替わるためには相手の話をボーっと聞いていてはだめである。相手の話が一段落して、バトンをこちらに渡そうとしていることを察知しなければならない。「ねえ、私の話聞いている?」と言われないために。

前回の芝居は一人芝居だったが、今回は二人芝居である。なぜ「紙風船」を選んだのかを演出の立夏に直接聞いたわけではないが、「夫婦」初心者の二人を主役にした会話劇ということで、そこに演劇にとっての本質的なもの、いや、人と人とのコミュニケーションにとっての本質的なものを察知したからではないだろうか。私たちは、「紙風船」の若い夫婦のギクシャクした会話を笑えるだろうか。私たちは目の前の相手とちゃんと会話しているだろうか。夫婦のちゃんとした会話から目をそらせるのに便利なアイテム(テレビとスマホ)や、子供という存在のおかげで、ちゃんとした会話なしでもそれなりにやっていけているだけではないのか。「紙風船」の時代は週休一日だったが、いまは週休二日だ。日曜だけでなく、土曜日もいかに退屈せずに過ごすかを考えなくてはならなくなった。そして定年後の夫婦であれば、毎日が日曜日(サンデー毎日)である。「夫婦なんてものは黙っていても心が通じるのだ」と思える人は幸いである。

小林龍二は前回の一人芝居「Eli、Eli」に続いての登場である。いまや劇団獣の仕業の看板役者である。これから彼がどのような成長あるいは成熟、あるいは変容をしていくのか、予想することは難しい。「こんな引出ももっていたのか」と驚かせてほしい。

客演の斉藤可南子は実力のある役者である。今回は初々しい若妻の役だったが、本人は「男前」の人である。細身だが、体幹のしっかりした人である。つまりエンゲキジンの鍛えた身体をしている。後で話を聞いたら、彼女の芝居の原点は80年代のつかこうへいや野田秀樹だそうである。エンゲキジンたちがキラキラとはじけていた時代である。

この二人が組んで二人芝居をやるとは思わなかった。それも新婚夫婦なんて。意表を突かれた。そして役者というのはどんな役でもやれるのだと改めて感心した。

演出の立夏、会場に顔を出した役者のきえるとも少し話をした。

3部作の最後は9月19日(木)、20時からここ兎亭で。演目は「楽屋~或いはとどまり続けることしか出来ない者たちへの歌~」(脚本:伊織夏生、脚色・演出:立夏、出演:松本真菜実・手塚優希)。楽しみにしています。

11時、帰宅。

卒業生のナオさんのブログの話を先日したばかりだが、今日アップされた「つらいといって、よいときが」には驚いた。 先日の「二度めの下田」はいい文章だったが、今回はすごい文章である。「もう暫く前から何度も 書いてはデリートし、書いてはデリートしてきたこと」を彼女はついに書いたのである。いや、書けたのである。ついらいと言ってはいけない、そもそもつらいと思ってはいけない、と世間が彼女(たち)に押し付けてきたことが、4つのエピソードの形で語られている。

「つらいといって、よいときが」は→こちら

2時半、就寝。