7時、居間の電話が鳴った。妻が出ると、妻のお姉さんからだった。お母さんが入っている介護施設からさきほど連絡があり、お母さんが危ない状態だという。お母さんは99歳で、12月に体調を崩して、介護施設から病院に搬送され、いつ何があってもおかしくない状態と医師から言われていた。しかし、持ち直し、再び施設に戻り、新年を迎えた(なので数えで100歳となった)。ただ、年齢が年齢なので、「いつ何があっても・・・」という覚悟は我々もしていた。私と妻は朝食をとり、施設に向かう支度をした。そのとき姉から再び電話があり、いまお母さんが亡くなったという連絡が施設からあったそうだ。臨終に立ち会うことはできなくなったが、とにかく妻と施設に向かうことにした。
妻のお父様がなくなったのは20年前の2005年1月29日だった。施設に向かう電車の中で、私はその日の自分が書いたブログを読み返した。今回とは違い、臨終の場面に立ち会えたのだが、そのときの情景が鮮明によみがえり、目頭が熱くなった。
1.29(土)
昨日(28日)、妻の父親が亡くなった。その4日前に自宅で倒れ、すぐに救急車で昭和医大横浜市北部病院に運ばれたが、脳梗塞で左脳の大部分が致命的なダメージを受けており、「ここ一週間」が山であると医者から宣告されていた。それが一昨日の夕方の段階で「ここ24時間」に変わったので、入院初日から病院に詰めている妻や義母・義姉と合流すべく、私も予定をすべてキャンセルして、病院に向かった。
私が病院に着いたのが午前11時。義父が亡くなったのはそれから8時間後だった。その間、義父の意識が戻ることは一度もなかった。ただ、ベッドの側に置かれたディスプレイに表示される心拍、血圧、呼吸の数値だけが、義父の生命が緩慢ではあるが不可逆的な過程にあることをわれわれに告げていた。われわれは予想される事態の到来を待ちながら、病室内の折り畳み式の椅子に座って話をしたり、最上階の見晴らしのいいレストランのテーブルで話をしたりしながら、経過していく時間をやり過ごしていた。夕方、予告されていた「24時間」が経過した。ディスプレイの数値は午前中より悪くなってはいたものの、義父はそんなに苦しげではなく、予想される事態は明日に持ち越されるかもしれないとわれわれは思った。しかし、それから4時間後、われわれが今夜はいったん引き上げようかと相談していたときに、すべての数値が急激な変化を始めた。当初、落ち着いて対処をしていた看護師がしだいに落ち着きを失い、様子を見に来た別の看護師と相談して、主治医が呼ばれた。医師は義父の眼をペンライトで照らしてから、すでに瞳孔が開いていることを告げた。医師と看護師がベッドの脇に為す術なくたたずむ姿勢に入ったのを見て、それまで椅子に座っていた妻・義母・義姉も立ち上がって、同じ姿勢に入った。ただ、私ひとりだけが、立ち上がらずにいた。不謹慎だろうかと思いつつ、まだ立ち上がるのは早いように思えて、心拍を示す数字が20を切ったら立ち上がろうとじっとディスプレイをにらんでいた。呼吸はすでに停止していたが、心臓は動き続けていた。生と死の境界が不確かな時間帯である。やがて立ち上がるべきときがきた。19、18、17・・・・下降のスピードは緩慢で、医師は息苦しさを紛らわすためだけに、途中で何度か聴診器を胸に当てたり、ペンライトで眼を照らしたりした。10、9、8・・・・心拍を示す数字が10を切ったとき、私は義父に初めて会ったときのことを思い返した。妻(当時はまだ妻ではなかったが)を家まで送っていって、玄関先でご挨拶をした。口数の少ない方だったが、笑顔で迎えてくれた。将来の不確かな大学院生の私が、結婚を前提とした交際をしていますと告げたときも、笑顔で頷いてくれた。心中、さぞかしご心配であったに違いない。「どうかご心配なく。貴方の娘や孫たちは私が・・・・」と心の中で語りかけたときに、心拍を示す数字が0になり、ピーという機械音が鳴ったので、あわてて「・・・・必ず守りますから」と言葉を足した。医師が臨終を告げ、看護師が時刻を医師に伝えた。義父は大正11年8月15日の生まれで、享年82歳だった。
施設の最寄り駅の横浜市営地下鉄の中川駅で降りて、一足先に施設に着いているお姉さん夫婦が車で迎えに来てくれるのを待った。
介護施設は4階建てのきれいな建物だった。お母さまは1階の自室(少し広めのビジネスホテルの部屋くらい)のベットの上に横たわっていた。久しぶりでお会いするお母さまは(妻とお姉さん夫婦は何度も面会に来ているが、私は今回が初めてだった)小柄で色白なのは昔からだが、ずいぶんと痩せられていた。いわゆる老衰による、痛みのない死であったのは幸いだった。私はお母さまの傍らに立ち、手を合わせて「どうぞ安らかにお眠りください」と心の中で言った。1階のフロアーの担当だったという若い女性の介護士さんが部屋に入って来られて、ベットの横にしゃがんで、お母さまの手を取って、涙ぐみながらお別れの言葉を(けっこうな時間)語りかけて下さった。ありがたいことである。
葬儀社が手配した車が到着し、お母さまを乗せて、日吉の会館に運んだ。私たちも車で会館に移動。葬儀自体はたまプラーザの会館で行うのだが、いま安置室に空きがないために、数日間、日吉の会館に安置するということだった。安置室は和室で、ご遺体は透明なケースの中に安置された。SF映画に登場する、宇宙船の中で長い旅をする乗組員が眠るカプセルのようであった。
これから担当の方と葬儀の具体的な打ち合わせが始まるのだが、2時間くらいはかかるだろうということで、先に昼食を済ませることにした。会館の近くの「銚子丸」という寿司屋に行く。日曜日ということもあるのだろう、けっこう行列ができていた。30分ほど待って入る。注文はパネル式で、注文したものはあまり待つことなく運ばれてきた。
食事を済ませ、会館に戻る。私はここで失礼させていただく。
最寄り駅の日吉駅まで歩く。
駅前には慶応義塾大学の日吉キャンパス。三田キャンパスには何度も行っているが、日吉キャンパスは初めて。
東横線に乗り、多摩川を越え、多摩川駅で多摩川線に乗り換えて、蒲田まで帰る。
ただいま。
少し休んでから、まだ書いていなかった昨日のブログを書く。
そして明日の博士学位申請論文公開審査会の準備。昨日と今日の二日間をそのために空けておいたのはよかった。
王将戦第二局は先手藤井の勝利に終わった(図は投了図)。これで藤井の二連勝である。
夕食は鶏肉団子スープ。
食事をしながら『東京サラダボウル』第3話(録画)を観る。「赤ちゃんとバインミー」前編。よく作りこまれたドラマである。
明日の準備。
風呂から出て、今日の日記を付ける。
1時半、就寝。