フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

11月19日(木) 晴れ

2009-11-20 09:51:41 | Weblog

  9時、起床。オムレツ、トースト、アップルティーの朝食。事務的なメールを数本書いてから、大学へ。しっかりと寒い。
  3限は大学院の演習。Lさんのお母様が来週アメリカからやってくるという。海外自体が初めてで、日本が気に入ってもらえるか、Lさんはしきりに気にしている。Lさんはこれからも日本の大学院で勉強を続けたいので、お母様に日本を気に入ってもらいたいのだ。「どこに連れて行ったらいいでしょう?」と聞かれたので、「甘味あらい」と答える。お肉が好きなら「鈴文」もいい。食後の珈琲は「テラス・ドルチェ」で。異文化理解はまず食文化からである。すき焼、天ぷら、お鮨・・・だけが日本食ではありません(お金もかかるしね)。
  4限は空き時間。昼食は「ごんべえ」のカレー南蛮。5限は卒論指導。Fさんは会社の内定式、H君は風邪でダウンで、今日はK君ひとり。彼の卒論ノートのタイトルは「しん よげんのしょ」である。尋常な精神状態ではないというのがよくわかる。

  指導が終盤にさしかかったころ、妻からケータイにメールが届く。件名は「チュンが危機一髪」とある。なにっ? 「講習会の最中にハルが書斎に侵入! 鳥篭、台より落下! 入口が開かなかったためか、奇跡的にチュンは無事でした。あー、怖かった」。注釈をすると、「講習会」とは妻が近所のご婦人たちを集めてやっているビーズの講習会、「ハル」とは我が家の飼い猫、「チュン」とは我が家の子雀である。これまでハルは一度も書斎に無断で入ることはなかった。入れないように(ドアノブに飛びつけないように)ドアの前に円筒形のゴミ箱を置いてあるのだが、今日はゴミ箱をどかしてから、ドアノブに飛びついて、開けたらしい。子雀はたまたま今日は籠の中に入れておいたが、籠の外にいたら危なかったかもしれない。ハルは当然籠の外からチュンに襲い掛かったのであろう。籠はファイルキャビネットの上に置いてあるのだが、それが落下してゴミ箱代わりの段ボール箱の中に斜めになって入っている。幸いチュンは無事だったが、妻は、書斎に入るとき、凄惨な場面を想像して血の気が引く思いがしたそうだ。猫というのは獲物を口にくわえて飼い主のところに見せにくる習性がある。もしもチュンをくわえてハルが妻のところに来たら、妻の絶叫が家中に響いたことであろう。私も、メールで子雀の死を知らされたら、6限の授業は遂行不能な精神状態に陥ったことだろう。現代人にとってペットロスはいまや家族の死に準じるものだが、制度的には「忌引き」の対象にはならない。飼っている小鳥が不慮の死を遂げたので授業を休講にして家に帰ったとなったら、処罰の対象になるだろう。「譴責」くらいだろうか。なら、私は甘んじて処罰は受けますけどね。
  6限の演習「ケーススタディの方法」を終えて、「満月」で夕食(天ざる)をとってから、帰宅。子雀はさぞかしショックを受けているだろうと思ったが、餌も普通に食べており、怪我もしていないと妻は言った。いや、わからないぞ、籠が落下したときに、頭を打っているかもしれない。「チュン!」と読んでみたが、反応が鈍いような気がした。もしかして一時的な記憶障害で、自分の名前を忘れてしまったのではないか。私がそういうと、妻は「もう眠いのよ」と言った。事故現場の責任者としての自覚が足りないように思える。尼寺へ行け。


無事でなにより


11月18日(水) 晴れ

2009-11-19 02:02:04 | Weblog

  8時ちょっと前に起床。そそくさと仕度をして8時半に家を出る。今日は午前中から現代人間論系の教室会議があるのだ。
  キャンパスのスロープを登ったところに1年生対象の現代人間論系の進級オリエンテーションの案内板が立っている。立て看用の木枠が出払ってしまっていて、なかなか使えそうになかったので、助手の人に言って、イーゼルを購入してもらったのである。


11月24日(火)昼休み 36-382教室です

  今日は来年度のゼミの一次選考の発表があった。現代人間論系は、ゼミ希望者が162名いて、そのうち123名が希望したゼミへ入ることができた。123÷162=0.759。第一希望のゼミへ入れる確率である。8割を切ってしまったのは残念だが、7割を切らなくてよかった。論系進級は、いまの2年生の場合、192名の希望があって、進級できたのは169名(88%)であった。つまり論系進級は普通にやっていればまず希望通りいくと考えてよいが、ゼミとなるとそれよりもハードルが高くなる。せっかく希望の論系に進めても希望のゼミに必ずしも入れるわけではないので、論系進級にあたっては、自分が所属を希望しているゼミの倍率を考慮しておいた方がいい。
  9時半から現代人間論系教室会議。12時45分から大学院の社会学コースの会議。「たかはし」のお弁当を食べながら行う。2時から教授会。6時を過ぎてもまだ続いていたが、研究室で面談の予定があるので、途中で退出する。


11月17日(火) 雨

2009-11-18 02:43:29 | Weblog

  9時、起床。寒さのレベルが一段階アップした感じなり。フィールドノートの更新をすませて、11時に家を出る。厚手のジャケットに厚手のセーター。でも、コートはまだまだ。JR東京駅から地下鉄大手町駅へ移動する途中、昼食用のお弁当を購入。研究室で食べる。


ヒレカツと銀ダラの西京焼がメイン

  3限は「現代人間論系総合講座2」。今日はゲストスピーカーに星加良司さん(東大助教)をお迎えした。冒頭、クイズのような質問を星加さんは学生たちにした。女性問題、高齢者問題、ニート問題、派遣切り問題、在日外国人問題、この中で障害問題と類似しているのはどれか? これ、けっこう難しい。高齢者問題というのが最多の回答のようだが、それは身体的・知的な不具合というものが両者に共通だからである。でも、他の問題も当事者が差別や不利益を被る点は共通だ。おそらく星加さんはこの質問を通して障害問題を身近な問題として考えてもらおうとしたのであろう。ただし、これは星加さんが『障害とは何か』の中で書いていることだが、障害問題と他の問題との違い(障害問題の固有性・特殊性)についても考えるということが一方で必要だ。そうでないと、障害問題が他の問題と横並びになってしまい、「不利益の政治」と星加さんが呼ぶところの不利益解消の優先順位争い(不利益解消のためには費用がかかるのだ)で障害問題が後回しにされる恐れがあるからだ(まず費用がそれほどかからない問題から解決していきましょうと)。この点は時間があれば質問という形で確認しておこうと思ったが、残念ながらその時間はなかった。
  思うに、高齢者問題と障害問題が違うところは、たとえば、(1)高齢者問題はほとんどの人が経験する(自身の問題として、あるいは家族の問題として)ものであるのに対し、障害問題は一部の人しか経験しない問題である。(2)高齢者問題はそれまで何かができていた人がしだいにそれができなくなっていく問題であるのに対して、障害問題の多くは生まれつき、あるいは人生の早い段階から、何かができないという問題である。つまり高齢者はしだいに社会から排除されるが、障害者は最初から、あるいはある日突然、社会から排除される。(3)高齢者は子どもから援助を受けることが期待できる場合が多いが、障害者は結婚や出産のチャンスが健常者よりも小さいため、親からの援助は期待できても、子どもからの援助が期待しずらいということもある。ほかにもまだ考えると出てきそうだ。
  時間がなくて学生からの質問は1人しか行えなかったが、その唯一の質問(というよりもコメント)をしたのは私の基礎演習の学生(1年生)だった。物怖じしないで手をあげたのは立派である。先が楽しみだ。
  なお、今日の星加さんのお話は、あくまでも障害学の入門篇なので、中級以上の勉強がしたい人は、『障害とは何か』を読むことを勧める。


11月16日(月) 晴れ

2009-11-17 10:34:01 | Weblog

  午前中、歯科。虫歯の治療は今日で終わり、2週間後に左上の親不知を抜くことになった。
  午後、散歩に出る。「満月」で昼食(天ざる)をとり、食後の珈琲は「シャノアール」で。蒲田宝塚で「沈まぬ太陽」を観る。正味3時間10分の作品で、途中で10分の休憩が入る。バレエの公演では、舞台の都合もあり、途中休憩がたいてい2回はあるが、映画の途中休憩は珍しい。個人的には、大学生の頃に、ベルトリッチ監督の『1900年』という作品を観たとき以来だ。あの映画は316分、つまり5時間ちょっとあった。それにくらべれば3時間10分なんてどうってことはないが、年配の客が多かったから、トイレ休憩はあっていいだろう。私は休憩時間は一応トイレにいき、自販機でアイスカフェラテ、売店でポテトチップスを買って、座席で飲食をした。


  日本航空の御巣鷹山でのジャンボ機墜落事故(1985年)を題材にして、日本航空という会社の体質を問題として描いた作品だが、他の山崎豊子の作品がそうであるように、「登場人物、団体は全て架空のものであり、実在の人物、団体等とは関係がありません」という注釈が付いている。しかし、航空会社の名前を「国民航空」としたろころで、1985年の御巣鷹山で起こったジャンボ機の墜落事故といえば誰がどう考えたってあの実在の事故以外にはないわけで(実際、やはり同事故を題材にした映画『クライマーズ・ハイ』でも使われた墜落する機内で乗客が手帳に書いた遺書が原文どおりで使われている)、では、一体、上記の注釈はどういう意味があるのだろう。おそらくそれは、登場人物たちを善玉(元労組委員長の恩地や新会長の国見)と悪玉(重役たち)にはっきりと区別して描く上でのさまざまのエピソードに関して、「あれは事実無根だ」という反論に、「これはフィクションですから」と対処するための防御壁なのだろう。しかし、この防御壁は有効なのだろうか。有効だとしても、フェアなのだろうか。 『沈まぬ太陽』は大作だが、私にとって必ずしも感動作ではないのは、こうした疑問のためである。事実の世界とフィクションの世界を仕切る隔壁はとても脆弱であるように見える。
  遺族との補償金交渉を事務的に進めようとして恩地に非難される社員を山田辰夫が演じている。彼の遺作である。明らかに顔がやつれている(撮影は今年4月。亡くなったのは7月)。彼が最後に演じた役が悪玉の手下であるというのが悲しい。主演級での最後の作品は先月(『沈まぬ太陽』と同日)、渋谷のユーロスペースでレイトショー公開された『代行のススメ』だが、すでに先週で終了している。どこかでやってくれないだろうか。


11月15日(日) 晴れ

2009-11-16 02:08:10 | Weblog

  小春日和の一日だった。午後、散歩に出る。自転車に乗って梅屋敷の「東行」へ行く。前回と同じ東行うどんに(850円)、かき揚げ(250円)と大根おろし(50円)を追加で注文する。運ばれてきた人参と玉葱のかき揚げの大きさにびっくり。立ち食いうどんのかき揚げの3倍はあろうか。これを一人で食べるのはけっこう大変だった。次回はかき揚げの代わりに揚げ茄子をもう1つ追加でよしとしよう。揚げ茄子に大根おろしが実に合うのだ。


東行うどん(揚げ茄子、揚げ餅、油揚げ、味付け玉子、ホウレン草が入っている)

  当初の予定では、食後の甘味を「福田屋」あるいは「あらい」でと考えていたのだが、お腹がいっぱいになったので、「琵琶湖」でココアを飲むことにした。持参した星加良司『障害とは何か』の続きを読む。「不利益概念の再定式化」についての説明を読んでいて思ったのだが、ここで登場するさまざまな概念の関係を図示してくれると理解の助けになるのにそれをしない(文章だけで説明しようとする)のは、星加さんが全盲で、したがって図示という視覚的な方法とは無縁だからだろうということだ。実際、本書には一枚の図もグラフも使われていない。理論的な本であり、統計的資料は使われていないので、グラフがないのはわかるとして、抽象的なことがらを図を使って説明するというのはわれわれがしばしば使う方法だ。おそらく星加さんは頭の中でものを考えるときも、純粋に概念(言葉)だけで考え、図形的なイメージは使わないのであろう。ただ、私が編集者なら、本書のところどころに概念間の関係を示す図を入れたらどうでしょう(図の作成は有能な助手が行う)という提案を星加さんにしただろう。

  帰宅して、「不毛地帯」(録画)を観てから、書斎の掃除。子雀を室内で放し飼いにしていると、普段より部屋が汚れる。餌や抜けた羽が床に落ちるし、あちこちに糞をする(猫のようにトイレの躾は無理である)。おそらく私の部屋は鶏小屋のような臭いがしているのではないか。
  夜、書庫で、高見順の全集をぱらぱらと読んでいたら、「出前好き」と題するエッセイにこんなことが書いてあった。

  「この夏前に、二月ほど外国旅行をした。ほんの二月ほど日本を留守にしただけだが、日本に帰つて私の一番驚いたことは、出前といふものの存在だった。改めてその便利さを知らされた。電話一本で、たちどころに、そばでもスシでも、持つてきてくれる。よその国では、ああはいかない。すわつたままで、ラーメン一丁と注文すると、たちまち眼前に、奇跡のやうに、ドンブリが現はれる。こんな便利な国はない。人件費の高いよそでは、出前持ちなどは雇へない。」(全集第18巻、241頁)

  昭和33年(1958年)に書かれた文章である。映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の時代である。一般の家庭に電話が普及したのは1960年代に入ってからだから、、高見が電話で蕎麦や鮨の出前を頼んでいたのは庶民レベルからするとちょっとした贅沢だったろう。