ブラインド・ボーイ・フラー(Blind Boy Fuller)は、本名フルトン・アレン(Fulton Allen)。1907年7月10日にノース・キャロライナ州Wadesboroで生まれ、としている資料が多いが、下のLPのポール・オリバーによる解説では1903年サウスカロライナ州Milledgevilleの生まれ、としている。亡くなったのは、1941年2月13日にノース・キャロライナ州Durhamで。30歳代の若さだったが、大酒飲みで、それが為の慢性腎臓病だったと言われている。
この人は短い人生だったにもかかわらず、約150曲の録音を残しており、影響力のある人でもある。ギターの腕はしっかりしたもので、かなりポップな曲も多く手掛け、当時の人達には新鮮な音楽に聞こえたことだろう。ただ、我が家にある音源から判断すると、けっこう露骨に受けを狙ったものも多い気がする。少し例を挙げると、「Shake It Baby」などはまだいいにしても、「I'm A Rattlesnake Daddy」や「Sweet Honey Hole」などは性的なものを連想させ、少しウンザリする。もう少し詩的に表現して欲しいところだが、まあ、ストリートで、通りゆく人の足を止め、コインを投げ入れてもらうためにはこうなるのかもしれない。
下のCD解説によると、この人は生まれつきの盲目ではなく、20歳近くになってから徐々に視力をなくし、1929年頃には完全に見えなくなっていたという。その頃すでに結婚しており、生活のためタバコの生産地であったダーラムに引っ越し、妻はタバコ工場で働き、フラーはゲーリー・デイビスなどからギターを習い、街角でギター演奏をしていたらしい。
このCD解説内に興味深い話がある。ある1933年の書類が残っていて、それは公共福祉局が地元の警察署長にあてたもので、フラーが警察署管内の許された場所で演奏をする許可を求めたもの、だという。ストリートでの演奏は、「ゲリラ的」と言っては言い過ぎかもしれないが、人の集まるところを狙って小銭を稼ぐために邪魔にされてもめげずに神出鬼没で演奏する、そんなイメージだった。が、少なくともノースカロライナでは、それなりの理由があるものには、しかるべき公共機関が許可を出し、ある意味その保護下になされたものだったのだ。「演奏許可証」のようなものもあったのかもしれない。
ソニーのCDで、SRCS5508。国内盤で、ブルース・バスティンの解説(三井徹訳)と歌詞(対訳)つき。1935年から1937年までの、ヴォキャリオンへの録音20曲を収録。
ARHOOLIEレーベルのLPで、BLUES CLASSICS11。1935年から1940年までの14曲を収録。ウォシュボードのブル・シティ・レッドやブルースハープのサニ・テリーが加わったものを集めた名盤。
1911年ノースカロライナ生まれのサニ・テリーは、すでにこの時に円熟の演奏を聴かせている。フラーの死後は、ブラウニー・マギーがその後の相棒となり、戦後も長く活躍した。ちなみに、ブラウニー・マギーは1915年テネシー州の生まれだが、若い頃からテントショーなどで旅回りのギターリストをつとめ、フラーに強く影響を受けており、その演奏スタイルはイーストコーストのものと言える。マギーは、当初「Blind Boy Fuller #2」を名乗り、フラーの死後『The Death Of Blind Boy Fuller』という曲を歌ったりしているほどである。
この人は短い人生だったにもかかわらず、約150曲の録音を残しており、影響力のある人でもある。ギターの腕はしっかりしたもので、かなりポップな曲も多く手掛け、当時の人達には新鮮な音楽に聞こえたことだろう。ただ、我が家にある音源から判断すると、けっこう露骨に受けを狙ったものも多い気がする。少し例を挙げると、「Shake It Baby」などはまだいいにしても、「I'm A Rattlesnake Daddy」や「Sweet Honey Hole」などは性的なものを連想させ、少しウンザリする。もう少し詩的に表現して欲しいところだが、まあ、ストリートで、通りゆく人の足を止め、コインを投げ入れてもらうためにはこうなるのかもしれない。
下のCD解説によると、この人は生まれつきの盲目ではなく、20歳近くになってから徐々に視力をなくし、1929年頃には完全に見えなくなっていたという。その頃すでに結婚しており、生活のためタバコの生産地であったダーラムに引っ越し、妻はタバコ工場で働き、フラーはゲーリー・デイビスなどからギターを習い、街角でギター演奏をしていたらしい。
このCD解説内に興味深い話がある。ある1933年の書類が残っていて、それは公共福祉局が地元の警察署長にあてたもので、フラーが警察署管内の許された場所で演奏をする許可を求めたもの、だという。ストリートでの演奏は、「ゲリラ的」と言っては言い過ぎかもしれないが、人の集まるところを狙って小銭を稼ぐために邪魔にされてもめげずに神出鬼没で演奏する、そんなイメージだった。が、少なくともノースカロライナでは、それなりの理由があるものには、しかるべき公共機関が許可を出し、ある意味その保護下になされたものだったのだ。「演奏許可証」のようなものもあったのかもしれない。
ソニーのCDで、SRCS5508。国内盤で、ブルース・バスティンの解説(三井徹訳)と歌詞(対訳)つき。1935年から1937年までの、ヴォキャリオンへの録音20曲を収録。
ARHOOLIEレーベルのLPで、BLUES CLASSICS11。1935年から1940年までの14曲を収録。ウォシュボードのブル・シティ・レッドやブルースハープのサニ・テリーが加わったものを集めた名盤。
1911年ノースカロライナ生まれのサニ・テリーは、すでにこの時に円熟の演奏を聴かせている。フラーの死後は、ブラウニー・マギーがその後の相棒となり、戦後も長く活躍した。ちなみに、ブラウニー・マギーは1915年テネシー州の生まれだが、若い頃からテントショーなどで旅回りのギターリストをつとめ、フラーに強く影響を受けており、その演奏スタイルはイーストコーストのものと言える。マギーは、当初「Blind Boy Fuller #2」を名乗り、フラーの死後『The Death Of Blind Boy Fuller』という曲を歌ったりしているほどである。