King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

魂萌え

2006年12月23日 23時08分43秒 | 日々のこと
朝日新聞の朝の連載小説『メタボラ』が終わりました。
それと同時に魂萌えも文庫で売っていたので読みました。
両方とも同じ時期に終わった感じでした。
一時メタボラは毎日楽しみにして読んだ時期もありましたが、
沖縄の話や方言が多く出てくるとやはり読みづらく、最初の方は
読んでなかったので、結末にどうしてこんなことになるのかよく解らない
のでした。
桐野夏生は、ダークでもう留めを打ったのではと感じました。
つまりもうあまり面白くないのです。

確かに、魂萌えでは今一番旬の人たちの恋話であり、人生であり
世の話題にもなりました。新聞小説も今話題のネット自殺や
派遣社員の残酷物語であり、格差問題にも触れています。
ただそれはそれです。かつての衝撃や作者から問われる問題提起も
突きつけられるようなストーリー展開も、壊れていく人格や破壊の中に
垣間見れる人生の核心の様なものがなくなっています。

もともと女性の壊れ方を書くとその迫力ともろさや弱さを男が持つ
理想を打ち砕くことにより、より女性を描ききり、現代を描いてきた
と思いました。それが最先端の世相を書けば書くほど物語が
うそ臭く、訴えてくる命題も感じなくなりました。所詮そうだったのか
その程度かというのが物語に対峙させる力がないような感じです。

山田洋次の『たそがれ清兵衛』をテレビで見ました。
時代に翻弄される生真面目な男の苦労話ですが、山田作品によく
みられる共産主義礼賛的な弱者にスポット当て権力層を皮肉ったり
権力を支えるストイックな主人公をかっこよく描いたり、地方をとにかく
取り上げたりという特徴がこれら今まで最近読んだ本と衝突して様々な
事を考えさせてくれました。

この映画で、何度も飢饉で百姓が川で流されて来るシーンがあり、
そうすると引き上げもせず、そのまま下流に流してしまうというところは
本当に史実に基づいているのかかなり疑問に思いました。江戸時代から
日本には戸籍があり、寺には過去帳があるのですから、百姓でも
人知れず川に流すという事があるでしょうか。楢山節考でも百姓が
田んぼの畦に子供を生み捨てるというシーンがありましたが、そんな
粗末な事を日常的にしていたとは到底思われません。

飢饉で末法思想があふれた羅生門の時代なら、川に死体が多く
流れてきたというのは解るのですが、明治維新の直前でそんな
状態だったのでしょうか。昭和時代でも子供を芸者に売り飛ばす
というのは頻繁にあったのですから、まったくの事実無根とも言い切れ
ません。現代でも一見豊になったようでも、鬱病で働けなくなったり
自殺してしまう人が3万人もいる国です。餓死して死んでしまう人が
いてそれが川に浮いているほどでも現代でも生きていくことに対して
難しさは左程の変化もないのかもしれません。

そういう生きることの困難さや失敗してしまった人たちへのやさしさを
山田監督はスポットをあて人生を問うわけですが、真っ直ぐな気持ちが
救われると言うところと共産主義臭いところはちょっとその臭気が鼻を
つく事があります。それにあわせて『世界の中心で愛を叫ぶ』も読んで
御伽噺のような恋の物語もその魂萌えやメタボラやたそがれ清兵衛
とそれぞれの作品の主張と考え合わせていました。

テーマとしては別でも主張しているところが神ならぬものに述べている
というところが注目されます。物語は結局そこに行きつくのか。おおいなる
ものにお願いしたという共通の内部行動は結局何も生まないという
返答が帰ってきます。それでは我々の選択は、生きる主張は山田監督の
共産主義や反権力主義でよいのか。きよらかな幼い愛を感じてそれで
癒されるのか。女が壊れていくところに生のすさまじさを見るのか。大いなる
ものや人ならぬものは今日もそれに対して無言です。
コメント
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