昨日のコーヒー探訪は強烈な印象でした。
特に古民家再生については夢までみてしまい
ました。
夢の中で、有名な絵描きの方が秩父に別荘を建てる
プランを語り、それについてどういうものを建てる
か私に聞いてくるのです。
不動産屋としての物件紹介というより、表現者として
趣味の人として何がよくて何がだめか聞かれたのです。
ここで私の一番言いたいことが出てくるのです。
ただ古いものや古来の工法が本当にいいことなのか
ということです。
世界遺産西本願寺御影堂・10年大修復という番組でやった
ように、ここは古来の建設技術、技法、建材が使われ
瓦も昔ながらの焼き物でできています。
ところが、瓦を葺くのに丸一年かかり、その下地の板は
古来の方法の竹釘で留めるという技術で手作業で作業
されました。が、その上の瓦は現在どの家の瓦もそう
されているように屋根に直接釘で留められています。
竹釘は何百年も経っても腐りもせず、その美しいカープを
保つといいます。ただ、金属の釘はそういうわけに行かず
せいぜい15-20年でしょう。
何でそんな画竜点睛を欠くようなことをとずっと疑問
なのです。
それだけを知りたくて、京都に行って見たいくらい
です。
かといって昔の家のように、土を屋根の上に敷いて、
その上に瓦を重ねるだけという工法がいいのかというと
昨今の耐震性とか建物全体に与える負担などを考えると
合理的とも思えません。
つまりは、20年後にはまた屋根の改修が行われるという
ことです。
何百年も持つ建物とはいえそれは主要躯体だけで、常に
何らかの補修が必要なのです。
古代の建物が今でも残るというすばらしい現実がある
反面、人間の作ったものはいずれ時代にそぐわなくなって
きて、どこかしら変えて行きたくなる物なのです。
かつてはエタニティ性とか、永遠の命とか真実とか求め
ていましたが、時という連続性を見つめれば、その実に
意味のないことか解ってきてしまうのです。
だから、私は漆喰と木で作る日本建築の家がいいとは
思うのですが、最近では壁は漆喰でもその下は石膏ボード
ですから、100-200年もつとは限りません。
西洋建築では、ツーバイフォーなどといって薄い板を
ぺたぺた貼ったような家ですが、日本の住宅よりずっと
耐用年数が高く100年以上の家が多いのです。
西本願寺のように藁を入れて寝かせた土を使わなくても
いいですが、いつまでも手を入れて住み続けられる家を
建てたいものです。
その話をすると施主の画家は納得するというストーリー
なのです。
そういう意味では、昨今流行の古民家再生という建築物は
私の理にかなっているはずです。
ところが、こういう建物や作られてまた利用している例を
みると果たしてこれがいいのかという疑問を持ってしまう
のです。
昨日の建物の印象でもそうでした。
太い梁や臍だらけの柱。それがかっこいいか。
何の意味があるのか。
高い屋根を支えるにはこの古い木しかなかったとか
この柱でなければこの家が建たないというような
必然がなければならないのです。
無意味な古けりゃいいというような建て方や昔の
木を寄せ集めたつくりなんて魅力ないのです。
同様に色々考えて昔感じた古い豆の酸化した味と
珈琲豆の持つ特色のひとつの酸味を取り違えていた
のではというひとつの考察も最近の珈琲店めぐりで
いややはり自家焙煎珈琲店でもかなりすっぱい珈琲が
あることから、焙煎が深くなっても新鮮な豆でも
消せないいやらしい酸味を出してしまっている店は
結構あるのです。
モカマタリの持つ酸味は、時に強烈に感じる時も
ありますが、概ね甘みを伴っていて、ただすっぱい
だけではなく、本来持っているコクとか深みとか
いうコーヒーの醍醐味の中で、上品な味わいと称する
に足る味の厳選があり、あえて狭いレンジに収斂した
切れ味と香りの相乗効果がなければならないのです。
ところがモカとはすっぱいものという先入観が根付いて
いて淹れている人もモカだから酸味がありますとか
独特の酸味とか表現していて、実は失敗で出てしまって
いる部分は解っているのかと時に疑問に思うのです。
多分、ペーパーフィルターを使っている時点で本人は
解っていないのかもしれません。
ペーパーフィルターを使っても他の淹れ方よりうまい味
を出すことも可能ですが、こんなばからしいことという
ささいなことの積み重ねで出来ているのです。
味というのは、主感的な物であり、人それぞれの思い
込みであり、感じ方は千差万別であります。
しかし、万人がうまいと感じることも実に存在し。
あそこで飲むとあの人が淹れるとと言うことは事実
としてあるのです。そうすればプロならばそれが
出来ないといけないと思うのが当然です。
当然が当然として起こらないのがこの人生です。
特に古民家再生については夢までみてしまい
ました。
夢の中で、有名な絵描きの方が秩父に別荘を建てる
プランを語り、それについてどういうものを建てる
か私に聞いてくるのです。
不動産屋としての物件紹介というより、表現者として
趣味の人として何がよくて何がだめか聞かれたのです。
ここで私の一番言いたいことが出てくるのです。
ただ古いものや古来の工法が本当にいいことなのか
ということです。
世界遺産西本願寺御影堂・10年大修復という番組でやった
ように、ここは古来の建設技術、技法、建材が使われ
瓦も昔ながらの焼き物でできています。
ところが、瓦を葺くのに丸一年かかり、その下地の板は
古来の方法の竹釘で留めるという技術で手作業で作業
されました。が、その上の瓦は現在どの家の瓦もそう
されているように屋根に直接釘で留められています。
竹釘は何百年も経っても腐りもせず、その美しいカープを
保つといいます。ただ、金属の釘はそういうわけに行かず
せいぜい15-20年でしょう。
何でそんな画竜点睛を欠くようなことをとずっと疑問
なのです。
それだけを知りたくて、京都に行って見たいくらい
です。
かといって昔の家のように、土を屋根の上に敷いて、
その上に瓦を重ねるだけという工法がいいのかというと
昨今の耐震性とか建物全体に与える負担などを考えると
合理的とも思えません。
つまりは、20年後にはまた屋根の改修が行われるという
ことです。
何百年も持つ建物とはいえそれは主要躯体だけで、常に
何らかの補修が必要なのです。
古代の建物が今でも残るというすばらしい現実がある
反面、人間の作ったものはいずれ時代にそぐわなくなって
きて、どこかしら変えて行きたくなる物なのです。
かつてはエタニティ性とか、永遠の命とか真実とか求め
ていましたが、時という連続性を見つめれば、その実に
意味のないことか解ってきてしまうのです。
だから、私は漆喰と木で作る日本建築の家がいいとは
思うのですが、最近では壁は漆喰でもその下は石膏ボード
ですから、100-200年もつとは限りません。
西洋建築では、ツーバイフォーなどといって薄い板を
ぺたぺた貼ったような家ですが、日本の住宅よりずっと
耐用年数が高く100年以上の家が多いのです。
西本願寺のように藁を入れて寝かせた土を使わなくても
いいですが、いつまでも手を入れて住み続けられる家を
建てたいものです。
その話をすると施主の画家は納得するというストーリー
なのです。
そういう意味では、昨今流行の古民家再生という建築物は
私の理にかなっているはずです。
ところが、こういう建物や作られてまた利用している例を
みると果たしてこれがいいのかという疑問を持ってしまう
のです。
昨日の建物の印象でもそうでした。
太い梁や臍だらけの柱。それがかっこいいか。
何の意味があるのか。
高い屋根を支えるにはこの古い木しかなかったとか
この柱でなければこの家が建たないというような
必然がなければならないのです。
無意味な古けりゃいいというような建て方や昔の
木を寄せ集めたつくりなんて魅力ないのです。
同様に色々考えて昔感じた古い豆の酸化した味と
珈琲豆の持つ特色のひとつの酸味を取り違えていた
のではというひとつの考察も最近の珈琲店めぐりで
いややはり自家焙煎珈琲店でもかなりすっぱい珈琲が
あることから、焙煎が深くなっても新鮮な豆でも
消せないいやらしい酸味を出してしまっている店は
結構あるのです。
モカマタリの持つ酸味は、時に強烈に感じる時も
ありますが、概ね甘みを伴っていて、ただすっぱい
だけではなく、本来持っているコクとか深みとか
いうコーヒーの醍醐味の中で、上品な味わいと称する
に足る味の厳選があり、あえて狭いレンジに収斂した
切れ味と香りの相乗効果がなければならないのです。
ところがモカとはすっぱいものという先入観が根付いて
いて淹れている人もモカだから酸味がありますとか
独特の酸味とか表現していて、実は失敗で出てしまって
いる部分は解っているのかと時に疑問に思うのです。
多分、ペーパーフィルターを使っている時点で本人は
解っていないのかもしれません。
ペーパーフィルターを使っても他の淹れ方よりうまい味
を出すことも可能ですが、こんなばからしいことという
ささいなことの積み重ねで出来ているのです。
味というのは、主感的な物であり、人それぞれの思い
込みであり、感じ方は千差万別であります。
しかし、万人がうまいと感じることも実に存在し。
あそこで飲むとあの人が淹れるとと言うことは事実
としてあるのです。そうすればプロならばそれが
出来ないといけないと思うのが当然です。
当然が当然として起こらないのがこの人生です。