King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

レッドマウンテンに見る裸の心

2017年12月13日 10時50分59秒 | 珈琲

冬にレッドマウンテンという当店の推奨も

昨年は入荷できず、一年ぶりの提供です。

今朝も飲みましたが、年末の忙しい最中でも

心の平安と長閑とした心地に落ちていきます。

先日ラジオで聞いたNight Before Christmas

で、改めて知った今更な事実がありました。

St.Nicholasがサンタクロースの元の人で、

それが赤い服を着てホーホーという掛け声をしながら

赤ら顔でプレゼントを配るおじいさんになったという

不思議な話であり、なぜかキリスト教に関係ない国でも

そのクリスマスを祝うというおかしな話です。

そのもとになったのがそもそもこの詩からのこと

らしいのですが、その詩というものが改めてみると

日本での詩のとらえ方が元の漢詩に忠実で韻を踏み

音を揃えたり、使用文字を揃えたりという規則を踏まえて

作られており日本での詩のイメージや短歌や和歌といった

発展とはまるで違い、手元にあるものがまるで違うのに

同じように表現してみようという心とその詩がいまだに

読み継がれているところに妙に心打たれました。

それにつけてもなぜというクリスマスという行事のことが

気にかかってきます。

暖炉につるした靴下。モミの木を山から切ってきて飾り付ける。

エッグノッグを飲んだり、七面鳥を食べる。

ツリーの下にプレゼントを置いたり、ヤドリギの下でキスとか

クリスマスの風景と習慣が紹介されそれを意味もなく宗教が

違うからと拒否するでもなくまねしてきた日本人。

その寛容性が世界も必要なのかもと最近は思います。

トランプ大統領によるエルサレムの首都認定なども人命を危険に

さらすことになるのに自らの政治のために実行されてしまいました。

見境なしに他国の行事をまねする日本人からすれば別に首都が

どこでもいいじゃんと思う人も多いはず。

国連決議に違反する行為であるならそう指摘すればいいだけ

のことです。

もともと神の約束の地だとか聖地とか言っても聖書の時代にも

他の人の生活の場であり、すでに人が住んでいた土地を異教徒だから

うばっていいと神がいったというのはいかにも勝手な言い分です。

人類を創造し万能の力の持ち主であるならそんなお粗末な差配を

するでしょうか。

日本人には及びもつかないすべてを超自然のものに託してしまう

そういう心根にまったく根拠や科学的なものがないからやめろと

言い切れないものもあります。

日本人も正月に初詣をし、パワースポットといっては出かけて

特別なお守りなどといって数千円ほどで何がかなうのか期待を

こめて喜んでお金を払います。

では何を信じて迷信とか非科学的とか言いつつ初詣には行き、

聖地の奪い合いや国の奪い合いには当事者の話し合いでなどと

突き放していられるのでしょうか。

これは戦後された民主主義教育のなされる業なのでしょうが、

イスラエルでの問題はアラブ由来の人とユダヤ人の人口比率は

世界規模で見るとムスリム人口の増加は顕著で所謂民主主義と

いう多数決原理でいくとキリスト教徒やユダヤの人々は今や危機に

あるわけです。

漢詩を完璧に自国文字で再現し新作を作れるだけの理解力があれば

ユダヤ教キリスト教、イスラム教に寄らない世界も提案できるのでは

ないでしょうか。日本も当事者でどうぞ話し合ってなどと遠ざける

ことなく、もっと世界に寄り添い平和な世の中に解決策を提示すべき

なのではと思います。

 

コメント
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