昨日配達で市内に出てみると意外と番場通りなど観光客で満ちており、
深夜にやった絶飯ロードなるドラマで取り上げられた食堂なども行列が
できるほど混んでいたようです。
米でも非常事態宣言が出、イタリアなどの都市でも交通遮断が行われる
など影響が広がり、まったく収まる気配もない騒ぎとなっていますが、
昨日の寒い日から一転今朝は春の日差しでポカポカ陽気です。
米などは非常事態宣言がされても市民生活などそのままでイベント中止などの
個人の行動を規制する指示などは出ません。そもそも日本でも学校閉鎖なども要請で
あり、法的根拠とか命令とかではないので、秩父のように首相の要請をホイホイと聞いて
せっせと何でも中止にした自治体と反発して学校を開け続けるところがあります。
そもそも専門家会議の意向とか案とかいう学校閉鎖も実は首相単独の独断専行だった
ことやいつにない指導力とほめそやす人やまた暴走したとその行動を諫める人と分かれ
ました。
私は何でも後手後手で今は行き過ぎのイベント中止でそれに影響を受けた人は
実に哀れだと思います。しかし、そんなインバウンドでしか活路を見いだせなくなった
観光業とか外国人だらけの観光地に改めて危機感を抱いてみるとかこれもひとつの
契機になったのではないでしょうか。
卒業式や期末試験までなくなってしまった学校などを他所に観客なしで行われている
スポーツイベントなどそれでも行われればオリンピック代表に決まったという勝利者が
ゴールする映像など喜ばしい晴れ晴れとした明るいニュースとなり伝わります。
米などは非常事態宣言下でも選挙集会などが大々的に行われ、その映像でマスクなどして
いる人もなく自由の国と忖度の国の違いを感じます。
ここでもまたマルクスガブリエルの「世界は存在しない」というテーゼを思い受けべないわけ
にはいきません。それぞれの自由と欲望に支配されそれに奴隷のように従属化している現代と
いわれるとまさにそんな中、この災害と疫病は我々の行動を見直す契機になっているのです。
昨日も書きましたが、それらは私の欲望をことごとく破壊して、楽しみにしていたバスケットの試合と
コンサートがなくなりました。噴火によりあのフカフカの本白根の壁も滑れないなくなり、さらに今年は
どこで滑ってもサラサラの粉雪などないのでした。楽しみにしていたものがことごとく破壊されなくなり
より自由になったと考えたらどうでしょうか。
大変だとか広がるコロナの影響など聞くより、どんどん自分は自由に解放されていると考えるとなんと
気持ちの楽になる感じがします。
昨日は次々に失われる自身の楽しみにこれは何かと考えてそれでも珈琲の味はいつもの味でいつもの
安らぎが得られるのは変わりないとその常にある喜びに気付かされましたが、さらにそういうことだったのか
という気持ちは高まりました。
私が『早春賦』という名前を今月のブレンドにしたのはこの三月の気候と季節がまさにこの唱歌の歌詞が
この三月を歌った恨み節のようでとてもよく季節を表していたからで、それを癒す意味で二月の
余寒のテーマを何がそれを表すのかを手をかえてまた挑んだのがこの早春賦なのです。
つまり今感じる閉塞感について欲望という自ら招いた隷属化から逃れることになったという今の自由な
感覚を得るという考える作業と似たようなものです。