「どんな時でも人は笑顔になれる」/渡辺和子さん
思わず手に取ってみた。
キリスト教を習得されて、大学の学長、勲章もいただいている人である。
この本をいくら読んだ所で、自分は「どんな時にも笑顔に」なれたりはしないのだが、それでも心に残ったフレーズをメモしてみる。
●ままならない人生だからこそ、人間としての分際を知り、他の人に寛容になれる。
エドワード・リーンという人の本の中に「他人の行動とか、事物を通して起こる”ままならないこと”に腹を立てた瞬間、私たちは謙虚さを失っている。」という文面があったそうである。
この「ままならない」の中には、他人からの不当な扱い、誤解、不親切、意地悪も含まれている。それさえも腹を立てた瞬間に、その人は謙虚さを失っている、というのである。
そう言われてみると、そうかもしれない。
不当な扱いをされたら、スーっと距離を置いて離れる方法を探ろう。
そこで腹を立てる必要はない。所詮それまでの人なのだから、そこから離れることを考えよう。
怒ると言うことは「自分はこう扱われて当然」という思いがあるから腹が立つのだ。
それは確かに驕りかもしれない。
本当にこの言葉の通りで、ままならない事が起こるたびに思い知らされた。。
何もなく思いのまま結婚できて、望みどおりに子供が授かり育ち、元夫に裏切られることも無く満ち足りた生活を送ったら、自分はどれだけ傲慢な人間になっていたかと思う。
きっと独身の友人を捕まえては、カップルにしようとしていただろう。それも相手の気持も考えずに自己満足の善意で。
人々は、うまいこと結婚して、うまいこと子供を授かって、永久に愛し愛され暮らせることを良しとするけれど、果たしてそれが本当に「善いこと」なのかは定かではない。
そうではなかったから、今の自分になった。
そう思うと、何が「いい」かなんて分かりゃしない。
ましてや人に偉そうに言うことなんてできない。
私の場合は、自分が悩んだり苦しんだりすることでしか、人の気持が分からないから。
(しかもノド元を過ぎればすぐに忘れる。)
それから今与えられたものは大切にしよう。
健康だったり、息子だったり、平和で安定した今の暮らしとか。
思わず手に取ってみた。
キリスト教を習得されて、大学の学長、勲章もいただいている人である。
この本をいくら読んだ所で、自分は「どんな時にも笑顔に」なれたりはしないのだが、それでも心に残ったフレーズをメモしてみる。
●ままならない人生だからこそ、人間としての分際を知り、他の人に寛容になれる。
エドワード・リーンという人の本の中に「他人の行動とか、事物を通して起こる”ままならないこと”に腹を立てた瞬間、私たちは謙虚さを失っている。」という文面があったそうである。
この「ままならない」の中には、他人からの不当な扱い、誤解、不親切、意地悪も含まれている。それさえも腹を立てた瞬間に、その人は謙虚さを失っている、というのである。
そう言われてみると、そうかもしれない。
不当な扱いをされたら、スーっと距離を置いて離れる方法を探ろう。
そこで腹を立てる必要はない。所詮それまでの人なのだから、そこから離れることを考えよう。
怒ると言うことは「自分はこう扱われて当然」という思いがあるから腹が立つのだ。
それは確かに驕りかもしれない。
本当にこの言葉の通りで、ままならない事が起こるたびに思い知らされた。。
何もなく思いのまま結婚できて、望みどおりに子供が授かり育ち、元夫に裏切られることも無く満ち足りた生活を送ったら、自分はどれだけ傲慢な人間になっていたかと思う。
きっと独身の友人を捕まえては、カップルにしようとしていただろう。それも相手の気持も考えずに自己満足の善意で。
人々は、うまいこと結婚して、うまいこと子供を授かって、永久に愛し愛され暮らせることを良しとするけれど、果たしてそれが本当に「善いこと」なのかは定かではない。
そうではなかったから、今の自分になった。
そう思うと、何が「いい」かなんて分かりゃしない。
ましてや人に偉そうに言うことなんてできない。
私の場合は、自分が悩んだり苦しんだりすることでしか、人の気持が分からないから。
(しかもノド元を過ぎればすぐに忘れる。)
それから今与えられたものは大切にしよう。
健康だったり、息子だったり、平和で安定した今の暮らしとか。