きっと、いいことあるよね!

母(sake)と息子(keke)の日々の記録。
お出かけ写真と料理など。

輪切りのワタシ

2019-06-21 | 父の記録と母の思い出

やっぱり一人になると考えてしまう。
「いいじゃないの、こういう人だからどの道いつかはお別れが来たのよ。」と頭では分かっている。それにお金を無くした訳でもないし、住む場所がなくなった訳でもない。生活はいつもと何も変わらない。


あれは21年前の離婚の時だった。

私は父の運転する車の助手席に乗っていた。どこからかの帰り道だったのだろう。
父が私に言った。

「お前の方は、やましいことが無いから(堂々とできて)いいじゃないか。」
そう言った。

(そんなことないよ・・私が悪いからこうなっちゃったのかも・・・)
父が「いいじゃないか」という意味がよく分からないまま、車は走っていった。

お父さん・・またこんなになっちゃったよ。。。
別にどうしても必要なものでもあるまいに、そういうことも平気でできる人なのに、自分のふがいなさに泣ける。

今この瞬間だけを輪切りにしたら悲しいミジメな私。

でもこの先はどうなるか誰も分からない。
人生は終りまで分からないのだ。

批評したがる人は、今この瞬間のその人を切り取って判断しているだけ。。。
たとえ、この状態は変わらなくても、満足している自分に近づくことはできる。

この山を越えたら、次は何が見えるか、楽しみにしよう。。。


2017-09-12 | 父の記録と母の思い出
今日の朝は気持よかった。
窓を開けると涼しい風が入ってきて、気持いいなぁ~~と思わせてくれた。

9月っていいものですね。(^_^;)
私は子供の頃はこの時期が一番好きでした。

しかし・・・年を取るにつれて、日が長くなる夏が好きになり・・その時期の終わりを告げるこの秋という奴が寂しく思われたのです。(ーー;)だから、秋はあまり好きではなかった。。。

でも?
春の桜の頃のあの底冷えするような寒さもなく、5月頃のあのカァーッと暑い日差しでもなく、暑さも峠を越えてこれ以上は暑くならないしという安心感・・まァええかみたいな・・・今日はちょっと蒸しましたけどね。(^_^;)
「9月さん、いらっしゃい~」みたいな気持です。

夕方、nanuさんが「東の空に虹が出てる」と言いながら入ってきたので、スマホ片手に外に出ました。


虹を写真に収めたのは今日が初めてです。(^_^;)

この後、事務所を出た頃は空の雲が赤く色づいて「わぁ~!」と思うような空だったのですが・・・写真を撮れずにいるうちにみるみる暗く夜に落ちて行きました。。
ほんの束の間の間の紅い雲だったのです。

でも、そういう瞬間に出会えたことがうれしいことだと思いませんか。


夢とかそれを手に入れるというのは、いろんな形がありますが・・・・例えばお金をたくさん持っている人ならば、いろんな夢をお金で叶えることができるでしょうね。
でも、お金がなくても「その瞬間」を手に入れることは・・・その瞬間に感動したり喜べることは、同じように・・いやそれ以上に(?)満たしてくれるような気がするのです。


昨日はコロッケのお弁当。

今日はこの残りのコロッケを甘辛醤油味で煮たのを自分のお弁当に入れました。

私は学生時代、この甘辛コロッケのお弁当があまり好きでなかった。「なんでコロッケをわざわざ醤油と砂糖で煮るんだ?」と思ってました。(^_^;)
でもね、揚げたコロッケにもう一度火を通すには(当時はまだ実家に電子レンジがなかったので)、甘辛で煮るのが手っ取り早かったのでしょう。自分が作る側になって分かりました。

私の母は年とったあたりから、「今日は良い陽気だねぇ」とかそんな些細な事で幸せそうにしてました。
だから、私はいつもコバカにしてました。
「あぁ友達もいないし、他に楽しみがないかわいそうな人だな」と思ってたんです。

でも、自分が同じぐらいの年になったら、ホント~に同じことを思って、同じように言っている。
友達も大していないし。

この年になると友達が多い少ないはそれほど大きな問題ではなかったのですね。

きっと母もそうだったんだと思う。
あの人は繊細な人だったから。

今ならば分かることがいろいろある。
いつかあの世に行ったら、語れることが山ほどあるのでしょう。(^_^;)

今日はきれいな虹が見れて、写真も撮れて、本当に楽しかった。

物忘れ

2017-02-23 | 父の記録と母の思い出
もう2月も23日。ぼちぼち月末かぁ~

と言っている傍から社長がカレンダーを破っていた。
昨日現調の予定を3月1日にしていたので、2月の予定はみんな埋まっているのだろう。
「これからは3月の予定だぜっ」って感じでカレンダーを破っていた。

しかしその破いたカレンダーは自分の部屋のカレンダーではなくてAさんの後ろにあるカレンダーだった。

その後で帰ってきたnanuさんがカレンダーに気がついて「このカレンダーもう3月だ。」と言い、「なんで3月になってるの?変なの!」と大きな声で何度も言うので、(社長が破いたんですよ・・・)と目と指で教えると、し~~ん。
とても不自然な沈黙に変わった。


もう2月も終わりだ。

早いと言えば早い、でもお正月はもうとっくに過ぎたような気もする。

最近物忘れがまたひどくなるのを自覚する。
やらなきゃならないことを紙に箇条書きにして書き、受話器に貼る。

去年だか一昨年だったのか、「また老眼が進んだよ!!」と思ったことが何度か段階的にあったが、同じように物忘れもまた進んだ気がする。でもこうしてメモを書いて「あぁあのことね」と思い出せるうちは大丈夫なのだとか。本当にひどくなるとその内容すら分からなくなるらしいから。(と言うのは父が認知症の診察の最初の頃に言われた言葉。)

最近、「この物忘れも老眼と同じなんだ、自然現象なんだ」ということに気がついたら、気持楽になってきた。
老眼も結構進んだが、メガネをつけたりはずしたりして、日常生活はほぼ今まで通りに送っているつもり。歌も高い音はどうしてもだんだん出なくなったけれど、声の出し方でごまかしたりキーを下げて歌ったりしている。

同じように物忘れもこうして全部メモやフセンに書いて電話に貼り付けてみたりして・・・いるものの、できるだけ覚えなくても済むように行動を変えていることでますます頭を使わなくなっているような気もする。老眼と同じようには何となく受け入れにくかったりして。谷村新司は「22歳になれば少しづつ臆病者になるわ」と歌っていたが、52歳の私は自分の記憶力に少しづつ臆病になるのであった。。。


そこで思い出すのが祖母である。

子供の頃は今とうって変わって、自分の記憶力に自信満々だったので、パズルとかトランプとかああいうのが大好きで、よく7並べとか神経衰弱で祖母をコテンパンにして喜んでいた。でも今になって年齢を逆算すると、私が生まれたのが祖母が56歳なので、小学生になった時ではもう63とかだったはずである。

私なんて今ですらこうなのに、63で神経衰弱ができるのだろうか。(+_+)「おばあちゃんてボケてるなぁ」と思っていたけれど、63で小学生とトランプをやろうと言うだけで大したものだったのかもしれない。どうなんだろう。
10年後どんな風に暮らしてるんやろか。。。

鳩サブレー

2017-01-18 | 父の記録と母の思い出
会社にある鳩サブレーを見ているうちに祖母を思い出した。

私が記憶に残っている頃の祖母はすっかり丸くなって、何かにつけ私をほめてくれた。
ドリルや問題を解くたびにほめまくるので、私は自分が「頭がイイ」と勘違いして、祖母が持ってきた問題集やドリルをどんどん解いていったのだった。

小学校低学年の頃ちょっと難しい高学年の本を読んでいると、また祖母がほめてくれたので、私はズンズン難しい本にチャレンジするのだった。(中身はどこまで理解していたか定かではない。)

それからありえない事に、私のこのくすんだ鼻声まで「sakeはきれいな声をしているね~」とほめていた。

しかしだんだん小学生も学年を経ていくに従い、それがアホに思えてきた。
現実的に、友だち一人も作れないいじめられっ子だったのである。

私にはそれがただの「しらじらしいお世辞」にしか思えなかった。

それにかの家は祖母と母親の折り合いが悪く、母は祖母の悪口ばかり言っていたので、思春期的にもだんだん祖母から遠ざかっていった。
何か言うたびにウザイなぁと思っていた。

祖母はだんだん愛想がなくなった孫に「小遣いあげようか」しか言わなくなっていった。
でもそれも冷たく断っていた。

別に祖母が嫌いなわけではなかった。
そんな祖母のお金を無駄にしたくなかったという気持からだったけれど、私は無愛想だった。
冷たくいつもあしらっていた。

妹は祖母とどんなからみをしていたか分からない。

妹はいつも気が利いて優しかったので、両親の愛情を独り占めしていた。
(少なくても私はそう感じていた。)
自分のことより、まずは周りの人のことを思いやる妹だから、いつも親から好かれて比較されて、私は疎んじられていた。(少なくても私はそう感じていた。)

だけど祖母は相変わらず、小遣いあげようかとか、白々しいお世辞を言うのだった。

身体も弱くなり、いつしか祖母は病院に行ったり戻ったりになり(結構ワガママから出たり入ったりだったというウワサもある)、家の中から存在が薄くなっていった。
私は中学生になり、家のことより友達が学校のことが中心になっていったし、帰ってからは部屋にとじこもりきりになった。

祖母が亡くなったのは高校生の頃である。
もう家にはほとんど居なかったので、「あぁそうなのか」と思った。

あの頃は父が働き盛りだったので、いくつも花環が届いた。
あぁすごいなぁと思った。


そんなことをぼんやり思い出す。

それから何十年もしたある日、ブログを通じてお会いした女性に「いい育ち方をしているのね」と言われた。
どこがどうそうだったのか、何となく訊かずに終わってしまった。


でも、私が今こうしてここにあるのは、祖母の存在がたぶん大きいと思う。
何十年も経って、今そんなことを思い出す。


鳩サブレー。
どうして時々、家にあったのだろう。
よく分からないけど。

父の言葉(回想)

2016-09-18 | 父の記録と母の思い出
今日もOMさんと野菜の店へ。

車の中で「親と金」の話題になり、お金が原因で親や兄弟とうまく行かなくなることがあるという話。
OMさんの知り合いでも子供がないまま認知症になってしまった人がいて、お金を持ってないから面倒を見る人はジバラで看なくてはならなくて誰も面倒を看たがらないとか。

sake家では親が自分の年金だけで施設のお金が払えたけれど、そうじゃなかったら妹ともめたかもしれない。金の切れ目が縁の切れ目とはよく言ったものである。


父はガンになった時に見舞いに行くたびに「お金は借りてはダメ、貸してもダメ、欲しいものは貯めてから買いなさい。」と何度も何度も言っていた。私と妹は「またかよ」「うるせぇなぁ」と内心思っていたが、「おじいちゃんの話は間違いなかったねー」とこの前妹とも話したところ。

あのsake家の家訓(?)を守っていこう。
ちなみに父は「どんなに収入が低くても、その範囲内で暮らせばいい。」と言っていた。プライドを捨て、メンツも捨て、時には義理を欠くことがあっても、その範囲内で暮らせばいいと言う。

それにしても今や、貧困家庭があると言う。
年収200万を切る家庭もあるというから深刻だと思う。「どんなに収入が低くてもその範囲内で」にも限界がある。
父が元気だった頃はそう言えたが、今はそれだけでは済まない家庭もあろう。新聞はとらない、服は基本買わない、飲み会は毎回参加しない、冠婚葬祭も時に義理を欠く・・・そう言う覚悟もアリだと私は思う。そもそも冠婚葬祭の金額レベルはひと昔前の時代のものである。貧困家庭のことは考慮されてないのだから合わせる必要があろうか。

それでもお金は借りないで済ませたい。
世間から非常識と言われても、返せないなら借りないで済ませたい。


今日は野菜の店で、また栗を買った。
またささやかに時間をかけて渋皮煮を作ろうと思ったのだ。

ところが、それが大失敗。

今日は今までと違うレシピをみながら、ゆでていたら、ゆでてから渋皮をきれいにしている時に、栗が柔らかくなりすぎて崩れてしまったのである。栗むき器でむいたので、ところどころ渋皮も削れてしまった所があり、そこからどんどん栗が崩れてしまった。
私も扱いが雑だったせいもあるのだが、今までがそれでうまく行っていたので予想してなかった。

(え~)と思って、前のレシピを見てみると、渋皮をきれいにする前に、2~3時間お湯にひたしておくらしい。それをゆでてしまったから、崩れてしまったのだろう。

急に疲れてふて寝をすると、もう夕方。
今日は1日何をしていたんだか、分からなくなった。

餃子は明日にする。

名も知らぬ花で墓参り

2016-03-20 | 父の記録と母の思い出
今日は朝から墓参りに行くことにした。
kekeに声をかけると昨日も今日も「えぇ~」というので、1人で行くことにした。自分は一応墓を作らないつもりでいるので、kekeに墓参りの風習がなくても特に問題はないように思う。(実家の墓は妹達が考えると仮定)

この後も予定があり、時間もそんなに無いので車で行くことにした。
(その前に近所の花屋に行かなくては)と寄ったが、8時半なのに店が開いてない。
しかし、もう1軒あったはずだ、たしか両親が元気だった頃、墓参りに行く前に立ち寄っていた、墓地の近くの花屋があったはず。。。

想像とおり、そこに花屋があった。車をチカチカランプにして停め、花屋に入ったが、そこには墓参り用の花ばかりであった。
(これなら墓地で売ってる花で良かったのに・・)と思ったのは、妹曰く、母は菊の花が好きでないというウワサがあったからである。いつぞや妹が「お墓参りに行こうとしたら、パパが墓参り用のお花を買ってきちゃったの。」とザンネンそうに言い、「おばあちゃん(←私達の母のこと)は菊とか地味な花があまり好きじゃなかったのに。」と言っていたのである。

我ながら長女でありながら、それを聞くまでそんなコト考えたこともなかったが、言われてみれば確かにあの人はラン!とかユリ!とか大振りで派手な花が好きそうな面持ちがあったっけ。お彼岸用の地味な菊の花セットではまたブツブツ文句を言われそうなので、店内の奥に1歩踏み込み、花を探した。

(結構高ぇなぁ~・・・)と思いながら見ていると、何となくピンクの清楚で且つ、おおぶりな花が目についた。(何となく母っぽいな♪)と思って、値段がついてないので「これ幾らですか」とお店の奥さんに尋ねると「1,000円です」と言う。

(これ、1本で1,000円なのぉ~・・・)と思うが、他の花束もチョロイわりにそのぐらいの値段っぽく、組み合わせるにしても結構お高くなりそうな感じ・・・・。うぅ困ったのぉ・・と思っていると、その奥さんが「その花はもちますよ~」と言う。

もつということは長く花が楽しめるっつーことか、それなら母も喜ぶかも知れぬ、と思い、その1,000円のピンクで清楚でちょっと派手さもある母っぽい花(?)を買っていくことにした。花屋の奥さんは「家用ですか?」と訊くので、「いいえ、これからお墓参りに行くんです。母が菊はあまり好きでなかったんです。」と答えると、「丈が判れば下を切るんだけどねぇ」等といいながら紙を巻いてくれる。

そして墓地に着く。ここの墓地は前にも何度か書いているが、駐車の難易度が高く本当に車で行くのが厄介な墓地なのだが、この時期は第2、第3駐車場もあるので助かる。そして買ったばかりの花の包みを開け、ポイとさすが、たしかに寸が長すぎるのだ!長すぎてナナメになってしまう。何とも格好悪い。(あの花屋の奥さんが言っていたのはこのことだったのかっ)と気づくが後の祭りである。(茎を切ればいいのか)とも考えたが、その茎がやたら太くて、下手に折ると水を吸わなくなるかもしれないから、そのままにした。
名前の分からない茎の太い花のナナメ1本ざし・・・マヌケな娘のしたことなのでご先祖さんも許してくださると思う。それに近々妹も来るであろう。まともな花を片手に。。。


帰ってきてまた「豚と小松菜のあんかけ焼きそば」を作る。
この冬いったい何回作っただろう。小松菜があればこれである。(これまたバカの一つ覚え・・・)
レシピはきょうの料理のこちらから。


ちなみに昨日のお昼も、この「豚と小松菜の~~」を作って食べる。

(見た目同じですが昨日はシイタケが入ってなく、あんかけが少ない。)

選挙

2014-12-14 | 父の記録と母の思い出
午後まで待ったが、kekeはオンラインで何かしているようなので一人で出かけた。

こうしてみると選挙は家族(夫婦)で投票に来る人が多いことに気がついた。見回すとひとりで来ているのは自分だけのような気がする。(たまたまかもしれないが)

投票できるようになった二十歳の頃は親が投票に行くと言うのでついて行った。両親は必ず投票に行っていたし、家の中では「投票には行くべきもの」という空気があったように思う。(ただ、妹がここで一緒に行ったことはまったく記憶に無い。)
両親に「誰に入れるの?」と尋ねると、ちゃんと答えてくれたが「そこに入れろ」と言われたことは無い。何となくそこには曖昧な、ぼやけた空気があったように思う。でも私は当時サッパリ政治に関心がなかったので、それでも投票に行かなければならない空気があったので、たぶん親と同じ投票をしていたように思う。

そして実家を離れて、結婚していた頃は選挙に行っていないように思う。
そもそも元夫はそういうことに関心がない人であった。家人でそういう空気があると、強い動機(支持)が無い限り「それじゃ一人で選挙に行ってくるわ」とはなかなかなりにくい。ハナから政治の事は分からないのだから、下手に行ったところでそれが正しいことなのかどうかも分からない。

だから、投票所に行くと夫婦連れが目立つのではなかろうか。
今日はそんなことを考えてしまった。

それから離婚して勤めた先は、社長の遠い親戚が立候補していることもあって会社ぐるみでその人を応援していた。「知り合いには誰それさんに投票するように声をかけろ」と言われ、私はそのまんま素直に実家に行った時に「社長の親戚の○○サンに入れてほしいの」と両親に言った。

すると二人は「分かったよ」「私のあの人はいいと思ってたよ」「あの人は悪い人じゃないよ」等とニコニコしていた。
その人は与党でもなければ第二政党でもない。明らかに落選するようなポジションであったし実際に落選した。今振り返ると、そうでもなければ両親が入れるとはとても思えない人である(ように思う)。

そんなことを思い出して今になると泣けてくる。

あの頃は大変だったと思う。
初めての子育ても、(一方的に責めるつもりはないが)家庭的とは言えない元夫や離婚したこと。
1人で子供を育てたこと。

淋しかった。

でも両親に会えること楽しみだった。

帰れるものなら、もう一度あの日に戻って両親に会いたい。
(でも、もうそれは叶わない。)


昨日のボルシチはパスタにして1人で食べる。

暖房を入れあのヤドカリ生活を思い出す

2014-12-09 | 父の記録と母の思い出
今シーズン、昨日初めてエアコンを入れてしまう。


実家は暖房をつけない家であった。
つけるのは早朝だけ。
ガスストーブのエアコンだけが入っており、私はその真ん前でふるえながら着替えるのであった。そしてそんなにブルブルしているのは自分だけで、あとの家族は軒並み平然としていたような印象がある。

他の部屋にはストーブもエアコンもなかった。
でも、母は普通に台所に立っていた。父も普通に洗面所で身支度をして出て行った。
私も妹も学校に行く頃になると、母はサッサとストーブを消していたと思う。そういう家であった。

私一人が寒がりでこたつにうずくまり、或いは布団にうずくまっていた。
勉強も当然布団の中でしていたので、よくそのまま寝ていたものだ。うつぶせで参考書を読みテキストを解き、布団の中で寝たり起きたりしていた。まるでヤドカリのようであった。
唯一ヤドカリのカラから出るのはピアノを弾く時である。ピアノを弾くと寒さを忘れた。(全身運動になっているのだろうか。)あとはカラオケ練習である。当時は妹とカラオケ伴奏と歌う方を交互にしていたので、それで寒さを乗り切ることができた。

そして私は嫁に行き、kekeが生まれてちょっとした頃、実家は建替えることになった。
そしたら、何てことだろう。
あちこちの部屋にエアコンが配置され、年中エアコンをつけてポカポカ暮らしているのである。
ちょっとしたカルチャーショックであった。

私が出て行ってから、父も母も妹も年中エアコンをつけハワイのように暮らしていたようだが、私だけはあのヤドカリ生活が抜けきらない。
暖房をつけることに常に罪悪感がつきまとうのである。


だから我が家はエアコンを入れない。
夏は35度を超えるまで。冬は雪が降る日だけである。
あとはこたつにうずくまっている。

でも、昨日はエアコンを入れてしまった。
もう寒くてかなわん。

それから今年に入ってから、冷たいドリンクが飲めなくなった。
もともとが猫舌なので、熱いお茶が飲めないのだ。だから冬でも氷を入れてガンガン、コールドドリンクを飲んでいた。
(ちなみに実家の両親も、妹も、熱いお茶を飲むことはほとんどなかったと思う。)

でも今年はダメだ。体が受け付けない。
冷たいものが飲めなくて、だけど熱いものも飲みたくないので、熱いお茶または冷たいドリンクを部屋の温度で常温にしてから飲んでいる。おかげでビールもここずっと飲んでいない。

昨日は(このままアルコールをやめちゃおうか)と思い、かなり真剣にそのつもりだった。しかし台所にずっと立っているうちに何か飲まねばやってられんわい、と言う気持になって、自作の梅酒を飲んだ。でも氷は2個しか入れられなかった。寒くて昔のように氷いっぱい入れて注ぐことなどもうできない。だから梅酒はやたら濃かった。

本当に冷えに弱くなった。もともと家族内で一番弱かったのだが、もう冷えることに耐えられない。

だから私はエアコンをつけた。
しばらくすると台所にも温かい風が流れ、しあわせな気分になった。

これからは朝晩暖房を入れよう、そしてささやかな幸せを感じるのだと心に誓いながら、料理がもうできそうなので余熱が残っているうちにサッサとエアコンを切って、kekeに「食事だよ」と声をかけた。(こたつとエアコン両方は要らないから。)

素晴らしい人生

2014-10-21 | 父の記録と母の思い出
今日はある方の訃報が届く。
前に一緒の職場であった。10年以上前に定年退職されていた。

たしか母と同じ年だから70半ばなのだろうか。
社長も「そこまで生きれば充分だろう」みたいなことを言う。
えっ、と一瞬思うが、同調している自分がいるのも事実。父を振り返ると10年の闘病生活だった。自分の意思のままピンピンしていたのは亡くなる10年前なのだ。そう思うと70半ばで亡くなることは驚くことではない。むしろ80代になってもピンピンしている方が今の私は(素晴らしいと言う意味で)驚く。

父親が亡くなってからなのか「死」に対する考え方が変わった。
今までは心底悪いこと、悲しいこと、だと思っていたが、今では逃れられないものだと思う。避けようがないもの。当たり前にやってくること。いつか社長も私もみんな死んで行く。父に近い経過をたどって。

みんながそうやっていつか死んでしまうことを想像すると、地球がひっくり返ったかのような気分になる。でも必ずいつかその世界は訪れる。徐々にかもしれないし、あっという間かもしれない。
そしてまた違う世代が時代を作っていくのか、ひょっとしたら人間そのものが絶えてしまうのかも分からない。

この前の噴火で亡くなられた人のことを、Aさんは「運命だったんだよ」と言う。私もそれに賛成。「可哀想」とか「あの時あんな場所に行かなければ」とかではなく、その人の行動は全て正しかった、と思う。だって自分がもしも死ぬ時に「あんなことをしなければ」と言われるより「アナタのその行動はそれでも間違っていなかった」と言われる方がうれしいから。

死ぬことを悪く、若くして亡くなることに同情することがありがちだが、その長さで優劣が決まるようなものなのだろうか。どんな人生でも素晴らしい、良かった人生だね、と思えるようでいたい。

今日お通夜に行くあの方は、奥さんにもお子さんにも、もしかしたら孫にも会えて、あれから幸せに暮らしていたのだろう、と想像する。

父もきっと幸せだった。
まぁ上の方の娘はろくな親孝行もできなかったけど、いつも父はニコニコしてた。きっと幸せだったに違いない。勝手に都合よく、そう解釈することにしてる。

私の人生もこの先素晴らしい人生だと思う。

独り身だから?、お金がないから?、友達がいないから?、仕事がないから?
それでどうして「可哀想」と思えるのだろう。

その人はその人で輝いている。
今、その人でしかできないことをしている。考えている。

それに気がついた私のこの先は、それだけでも素晴らしい人生。

あざなえる縄のごとし

2014-10-02 | 父の記録と母の思い出
「もう父には会えなくなってしまったんだなぁ」と思う。

いつもどんな時にも自分の味方でいてくれる、どんなことになっても離れないでいてくれる。
親ってそういう存在だったんだなぁと、今になって思う。

もう二人ともいなくなってしまった。


こういう類の気持ちは、真夜中に雪がしんしん降って積もっていくさまのようだ。
静かだけど、重い。

こういうことって、結局はひとりで受け止めていくしかないんだね。
誰に言ってもどうにも変わらないものだから。


大なり小なり、そういうものをみんな、ひとりひとりが抱えて生きていることに気がついた。
でもあえて言わないで、たまにこうして引き出しをあけてみる。


これからもいろんな悲しいできごとが、私の前にはあるだろう。
でもそれをみんな抱えて生きていきましょう。

喜びと悲しみはあざなえる縄のようだと、母が亡くなった時に友達が言ってくれた。

たしかに母が亡くなったのは悲しかったけれど、母はお陰で父を失う悲しみを知らずに済んだ。
それはそれでよかったことだと、ずっと思ってきた。

喜びだけ、不幸なだけ、そんなできごとの方が少ないのではないだろうか。
だから今のこの現状をしみじみと受け入れる。

傍から見て「悲しいできごと」も決してそれだけではない。

人と別れて悲しいのは、それまでその人と一緒にいれて幸せだった証拠だし
ひとりでいることは、別れる悲しみを知らずに済むこと。

悪いだけのことなんて、むしろ無いに等しい。
そう思えたら、これからは果敢に生きていけるかもしれない。




先週作った使った酢豚。小さい黒酢の瓶が売っていたのでそれを買って使ってみた。
やはり黄色や赤のピーマンが入ると見栄えがいい。

調味料を倍作ってしまったのを捨てずに、後日また自分用に今度は豚の薄切りと同じ材料で作って食べた。