田舎の暮らしは、新鮮な毎日です。
豊かな自然を感じる心を持つと穏やかな毎日を過ごせます。
寒さは「天のめぐみ」農作物や木々は寒さが恵です。
病虫害や雪は春先からの農作に恵の雨は里を潤してくれます。
まもなく転居して一年です。
身体は季節を一回りすると、順応します。
昨年の3月は寒さに震えていましたが、今の寒さが応えなくなりました。
むしろ心地よくさえ感じます。
さて、今日は「言葉」の使い方について一言。
多くの皆さんが我が子のことを「小供」「子供」と書いています。
疑問を感じませんか?
爺は「子ども」と書きます。
何故ならば、「子」は「親」の「供」ではありません。
「共」ではないでしょうか。
供え物でもなければ、親の所有物ではありません。
一人の人格をもった「人」です。
子どもと書く、あるいは思うと我が子や他人の子にも温かい目や心を向けることが出来ます。
子どもが「愛おしく」なります。
皆さんもやってみてください。
子供と書くときでも親の共だという気持ちで書くことはありません。
複数形の意味で「ども」をつけていたのにたまたま「供」を当てただけという説を知り、
そもそもの由来からして親の供という意味でできた言葉ではないと思うからです。
歴史ある日本語として間違いではないと思いますが、
育児の常識が変わっていくように言葉の常識も変わってきつつありますし、
「子供」という表記が現代にそぐわなくなってしまったのだろうないうことは理解できます。
こういった意見は嫌われることと思いますが、
むしろ「子ども」に疑問を抱いてきた者もいるということをちょっと知っていただきたかったのです。
ご気分を害されてしまいましたら申し訳ありません。大変失礼いたしました。
naoさんのお説ありがとうございます。
言葉をつかうときの気持ちを爺は述べました。
確かに、複数形の「供」そろいの意味ではわかります。
(手下) 供に従える お供 お付き 取り巻き〈連中〉 従者 随行 側近〈の学者〉
「こども」が一番いいのかもしれませんね。
昔は「子共」としていたようですね。
いいご意見ありがとうございます。
子はともに生きるですね。