忠興が豊前小倉を拝領して入国したのは寛永五年(1600)の年末の事だが、中津の城に入城している。
忠利が嫡子と決まると、忠利を中津城主となして忠興は小倉を居城とする。
その小倉城の築城に着手したのが、寛永七年(1602)の今日だとされる。毛利(森)勝信によって既存の城に手が加えられ、これに忠興が更に手を加えて縄張りをなし大天守を築城した。
慶長七年小倉を御居城ニ可被成と被思召、正月十五日鍬初被仰付候、廿六七日之比、小倉ニ御越被成御縄張被仰付、御家中ニも
丁場の割被仰付、其後も度々御出被成候
完成まで七年かかったといわれるこの城は、その当時は珍しい四層よりも上の層(五層)が大きい唐づくりといわれる城である。
現在の天守は豪壮華麗な姿を見せる天守だが、築城当時は唐破風などはなく「唐造り(南蛮造)」という扁平な表情であったようだ。
縄張りは「海城」と呼ばれるように、海堀に堅固に守られているが、これは忠興の前任地・宮津城の縄張りに相通づるものが見て取れる。
忠興が隠居すると、入れ替わりに嫡子・忠利が入城し、三斎と称した忠興はかって居城とした中津城へ入っている。
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