(71)
一堀部彌兵衛被申候は、津輕越中守樣江、大石無人と申候て、拙者同年七十八歳に罷成候、前廉故(浅野)采女代の勤の者にて、只今は津
輕樣へ、大石郷右衛門御側御用人相勤居申候に懸り居申候、今度一列の同志と申候故、拙者扨々無分別、御家も替り、子に懸り居候て
は、道理に叶不申と申候へは、得心仕候。御滯留中御隙の砌、御知人に御成候へ、故事共能覺居と被申候故、彌兵衛果被申候以後、本莊
に被居候由尋候て罷越、無人并子息郷右衛門、三平共在宅にて、緩々語、いろいろ馳走にて被歡候、無人被申候は、彌兵衛儀は、若き時
細川藩士
分より心懸よく、初て主取いたし、扶持方計にて馬を持居申候、御家に只今居申候哉、斎藤勘助とは、故采女所にては兒小姓傍輩にて勤
居申候、勘助親又太夫大身にて御家に罷出申候故、勘助は采女手前より暇をもらひ、親一所に參候と被申候故、扨は左樣に候や、勘助は
とく果候て、只今は孫子の代にて、無事に勤居申候と申候、無人又被申候は、今度一列の者共、刀脇差道具抔、泉岳寺より拂物に成候
由、色々才覺を以調申者有之、内蔵之助著込は、御家之御侍衆所望の樣に承候、誰殿にて御座候哉と尋被申候、いかにも存居候へとも、
自然所望なとも可被致と存、越中守屋敷も方々有之、侍共も諸方に居候、殊に大勢の事故、定て左樣之儀可有之候しかと承不申儀と申
候、泉岳寺にて拂物有之段は承候へとも、偽にて可有之候、衣類之樣成物にて可有之候哉、大小武具、寺の寶物と成り其儘召置被申候、
子孫の所望も有之節、譲り渡被申心底にて、中々拂物に成候と承り、肝をつぶし申候、拙者なとも望に存候而、殘念に存候と挨拶いたし
候、右無人は大石同名にて、瀬左衛門大伯父と承候、内蔵之助着込は、去人泉岳寺小坊主に心安有之所望被致候、それかしは未申候、随
分隱し、向方よりも聞付、所望も可有之候哉と、内々にて求被申候、助右衛門を頼候て、如望二枚調被申候、内一枚は、右忍の緒に替
へ遣申候、追て右着込を求被申仁、歌の下書を被仕、此通に何とそ内蔵之助に歌を書貰候様にと被申聞候、初者拙者心も付不申候、只今
存候へは、能こそ書せ置候と存候、是も右之仁の影と存候、右之仁は江戸定詰にて候事
(72)
一拙者肩衣に、紺の水衣有之、單にて夏中着、冬に成り古き羽織の裏に茶の形付置候を、或時着用罷出候へは、片岡源吾右衛門被申候は、
此御肩衣は、何と申ものにて候哉と、尋被申候故、水衣とか申候樣に承候、若きものともの物好にて拵候と申候へは、扨々能き御物好
き、裏の取合迄能御座候と、手にて探り譽被申候、神以それかし迷惑致候、總體衣類に不限、時々のはやり事致さぬものと、亡父被申聞
置候、三齋様御眼あしく、八代え相詰居申内、細川刑部殿と申候、後に玄伯老と申候(七男・興孝)若年の時分、江戸より下着にて、八代に被
參候節、京都より御咄伽、宗吟宗和と申者、并槙嶋雲菴半之丞祖父也も被居候、刑部殿短き羽織着御出被遊御覧、御機嫌悪く、次へ被參、
其羽織誰にそ遣候へとの御意に付、宗吟宗和申上候は、唯今かうむり道服とて、江戸御旗本衆、馬の三頭に懸らぬ樣にとて、はやり申事
に御座候と申上候へは、三齋様御拝領の羅紗の羽織を御取寄被成、刑部小袖に、兩方五歩宛長く仕立させ候様にと、御意被成候、扨江戸
にて何を仕居候哉と御尋被遊候、小畑勘兵衛軍法を承りたる由御申上候へは、御意に證據かなけれはいわれぬ事なれとも、雲庵是にて聞
候、關原之時分、勘兵衛もさして替候事もなく候、われ等馬上にて働、太刀打も、雲菴、存知之通に候、三齋子越中弟なとゝ申者か、時
々の時行とて末々の仕事無用に候、總體時行事は二十年々々には本のことく成ものにて候、ニ六時中越中軍法を習ひ、常々了簡いたし心
を付、侍共を夫々につかひ候か、軍法を不依何事、其時の下知よく廻り申ものとの御意承り候と、毎度亡父被申聞候、扨々乍憚御尤至
極、御名將樣の御詞、毛頭違不申候、拙者若き時は、無そりの刀脇差時行、拙者も反をのべ指たる事も有之候、只今本のことく反りたる
に成り申候、第一に箇樣之儀承覺居申儀、當分の御用にても、即座失念仕候はゞ、迷惑可被仰付候、箇樣之御意を傳承、それ/\に嗜候
はゝ、寔に寸志にて、冥加にかはひ可申候
(66) 細川藩士 家康公
一次之間にて(富森)助右衛門被申候は、吉弘嘉左衛門殿先祖之儀、承度と被申候故、我等申候は、大友家にて吉弘嘉兵衛と申者、秀吉公
之時、九州合戰之砌討死仕候、石垣原の戰と申候、豊後詞にて子共迄も小歌に、長い刀をシャツと抜て切てさるけばエレ/\皆はいまは
ると、諷申候と申傳候、就嘉左衛門と心安共は、ムゝエレ/\と申て、なふり申候と申候へは、助右衛門被申候は、アレに居申候、矢田
五郎右衛門も、嘉左衛門殿御先祖にまけ申ましく候、矢田作十郎と申候者は、隠れもなきものにて候と被申候、後に承り候へは、大村因
幡守樣御出被成、太守様え御咄被成候は、御預り内、矢田五郎右衛門先祖作十郎は、三河にて三人之内にて、二人之子孫は、只今御旗本
に御鐵砲頭被仰付置候、名は失念仕候、其内にても、作十郎は勝れたる武功之者と御咄被成候由承候、堀部彌兵衛事も御咄にて、今時之
聞番之樣成るものにては無御座旨、被仰候由之事
(67)
一内蔵之助を初、何れも被申候は、度々御斷申候は如御存、私共久々浪人にて、輕き物迄を給暮し申候故、結構成御料理數日頂戴仕、殊之
外つかへ申候、此間の麁飯戀しく成申候、何とそ御料理輕く被仰付被下候樣にと被申候、我等申候は、左樣に可有御座候、私共も逗留中
御相伴に、次にて料理給少つかへ申候樣に覺申候、乍去菜數之儀は、旦那耳に達候て之儀故、減申事は難成と申候へは、左候はゞ、唯今
御座候ちさ汁、なまこ鱠糟味噌汁なとゝ、心安衆は望被申候故、色々申候へとも、御料理人共、唯うまき樣に計仕、存候樣に成兼、残念
に存候事
(68)
一助右衛門被申候は、いろ/\御馳走、誠以冥加に叶たる儀に御座候、水風呂も一人宛御かへさせ被成候事別て迷惑仕候、大勢入候跡程和
かに能御座候旨被申候故、後は二三人にて替候様に申付候、毎度下帯なと被下候へとも、度々には替不被申候事
(69) ほつんヵ
一上之間若き衆、大勢咄被申候處に、罷出候へは、何れも被申候は、御覧被成候へ、間喜兵衛いつとても咄不申、人の後に計つほんといた
し居候が、如形律儀に堅き男にて御座候と被申候故、我等申候は、勝れて御實儀と承候へは、今後顯れ候と申候へは、夫はいか樣の思召
にて、被仰候哉と被申候故、今度各様上野介殿をこそ、御心に可被懸候へとも、十次郎殿御鑓付被成候て、印を御あけ候事、喜兵衛殿御
手に被懸候より、十次郎殿御手柄を、何程かと大慶に可被思召、冥加に御叶候事、常々喜兵衛殿之御貞心故と申候へは、何れも誠に左樣
にと被申候、何れも喜兵衛の方を見向被申候へは、歡ばしき顔色にて、笑ひて我等に向、何共物は不被申候、忝と計之樣子にて、折入て
時宜を被仕候、夫故か終に咄もなく、しかと言をかはしたる事無之候、最期之時、側に寄候而、何そ御口上之御方可承と申候ヘは、懐中
より辭世を書たるを給候き
草枕むすふ假寝の夢さめて
常世に歸る春のあけほの
(70)
一御老中秋元但馬守樣御内に、中堂又助と申仁、(間)喜兵衛聟に御座候由に付、傳を以此辭世を又助内儀へ見せ、所望には可被思召候へ
とも、是は拙者に給被申候故、所望は斷申とて遣見せ候へは、又助より卽刻禮状給候事
(59)
一いつれもへ我等申候は、箇條に御懇意に仕るも、因縁ある事にこそ候へ、折を見繕ひ、追々各樣御一類中へ、御身分之樣子、委敷御咄
可申と心掛居候、乍去御人に寄ては、何を申かと思召御方も可有哉、無心元候、いつれも樣御自筆にて、御手跡御親類中之御名を、御
書付置被下候へかしと申たれは、皆々殊の外歡はれ、銘々親類縁者、御當所に被居候分は勿論、京伏見大阪其外所々、委敷書付出され
候故、其分追々相尋、傳言之趣申通、始末も委敷咄し聞せ申候、
(本條以下六條は異本に據り補ふ 59~64)
(60)
一或時、堀部彌兵衛能寝入て居たるか、矢聲をかけ被申候は、丑の刻比にても有たるか、我等寝ず番して居たるが、此聲に驚候、彌兵衛
は老人故、若き人に劣る間敷との嗜にて、常々心張り居候故、寝入ても折々箇樣成事ありと咄被申候、彼仁は、飯後には何れも御免候
へ、老人は足すくみ申とて、縁かわに出て、あなたこなたと歩行、足をならし申すとて、笑被申候事能く存候、其後夜四過比、潮田又
之允、寝入候て歯切被仕候を、去仁參候て起し、はきりを強被成候、御氣色悪敷候哉と尋被申候由、以後又之允被申候は、先夜誰殿之
被仰入念候て、被附御心被下候、私癖にて寝入候て間々歯切仕候、扨々入御念、忝くは存候へとも、扨々迷惑仕候と被申候に付、笑候
て、夫は念入過し、御目覺御迷惑と申笑申候、惣體萬事入念勤候樣、毎度何れも承り申事にて候へとも、事によりたる儀と存候、名も
又之丞被申聞候へとも、態と書付不申候、能く/\萬事心付候て、了簡可有之事と申候事
(61)
一内蔵之助は、御預之翌朝より髪を結わせ候、殘之衆は、其儘にて二三日居申候、我等進め候へは、其後追々髪を結せ被申候
(62) 細川藩士(医家)
一十二月下旬、江村節齋老の孫成庵が、十七人之衆見度由、我等に頼候故、同道致候、其以前寒風強く、十七人の内には、手負い病人も
ある事に而、御心元なく被思召、江村節齋老へ被仰付、見廻も被致候事故、此者は節齋孫にれ成庵と申候、各樣に御目に懸度由申出、
幼年には奇特なる事に存候間、是へ召連候と申候へは、内蔵之助始、扨も々々と申、各側に寄、いくつに御成歟と被尋、十二歳にて候
と答候、彼の衆へ被下置候菓子の有たるを、鼻紙に包、成庵に遣し、其後は折々成庵の事を申出、富森助右衛門被申候は、内蔵之助を始として、同の子供を持候者は、思出し候と噂被致候、右成庵か見に出候噂を聞傳へ、御番方并御次詰之
衆も、追々彼の
衆を見に出被申候、いかさま後年咄しの種になり申へし
江村節斎 名は宗悟、友精と称す。医を以て藩に仕へ、法眼に叙せらる。
食禄七百五十石、子孫は世々医を以て仕ふ。
享保四年七月六日歿す。年八十六。
(63)
一いつれも被申候は、舊冬より度々火事沙汰承候、此上皆様の御苦勞に相成居候間は、御近邊に火事無之樣仕度と也、我等答に、當屋敷
廣、殊に泉水流れ、芝原も廣、樹木も茂り居候、萬一之時は、庭内に御連申筈に而、手當日申付置候と答候へは、左樣ならは、ちと御近
火を願ひ申とて、皆々笑ひ被申候
(64)
一正月十一日、御役替有之、岩間何五郎、片山重之允、着座被仰付候、其砌私へ何れも尋被申候は、着座とは、如何樣之御座配御役儀かと
尋被仕候、私申候は、他家にて申す番頭之類にて御座候、旦那家にても、大方は其位にて御座候、併着座と申は、先は年始の禮之節、太
刀にて申候、着座にも段々有之候、小身にても家筋能者共は申付候、番頭より上座之着座、下座の着座と、色々御座候と挨拶仕候事
(65)
一いつれも若き衆中被申候は、堀部彌兵衛養子安兵衛、定て御聞及も可有御座候、先年高田馬場にての仕方、彌兵衛承及候而、何之由緒も
無之候へとも養子にいたし、不思議なる事は、手跡物こし迄も、彌兵衛に能似申候と被申候故、成程承及候、感入たる儀に候と申たる事
WEBで紹介されている「大江戸切絵図・芝高輪編(位置合わせ図)」をみると、細川家の白金邸は旧・東海道「二本榎木丁通り」に面していることが判る。
それは、文字の書き込みの向きが表している。(縦書き文字の頭部分が正面を示す。)
ところが厄介なことに、永青文庫に残る「白金邸」の図面を見ると、方位(右下表示)が記されているがこれだと入り口は北向きになっているから、これだと説明がつかなくなってしまう。
赤穂義士17名が切腹した場所が、高松中学校内に特に囲いが設け設けられたのは中央義士会のお陰だが、この場所の正面入り口の戸にのぞき窓が設けられていて、そこから拝見することができる。
図面の左上、能舞台の上部がその場所である。(一番下の図面は左右天地が逆転していますから、能舞台は右手に書かれています)
その場所は「檜書院」の前にある能舞台の右手脇である。いろんな形で残されている細川藩邸内での「切腹の図」は正式なものではない。
随分昔「再び・・赤穂義士切腹の図」を書いた折、赤穂義士研究家の佐藤誠氏からコメントをいただいた。(コメント欄を参照されたし)
私は以前、熊本県立美術館の永青文庫展示室でこの絵を拝見した時、よせばいいのに、近くに居られた係員の方にその旨をお話ししたところ、なんと永青文庫(東京)に電話を入れられて、直接ではないが、「これは切腹の場の雰囲気を描いたもので、間取りには応していない」とのご返事をいただいた。
下に御紹介する絵図のとおりであり、どう見ても「切腹の図」とは似ても似つかない。
これは切腹の場にも臨んだ右田某が描いたもので、真実に一番近いものだとされている。
さてその場所をかって私の友人が訪ねたらしいが、とうとう探し出すことができなかった。
「誰かに聞こうと思ったが聞けなかった」との事であったから、少々冷やかしたことを思い出す。
先に上皇様の仙洞仮御所となった旧高松宮邸(ここも白金邸内)の裏手に「紫陽花ロード」がある。
左手は港区の都営高輪アパート群、その敷地が終わるあたりから左折すると、右手の鬱蒼とした森の中にその場所の玄関(この地図ではクローズアップすると二つの門柱らしきものの表示有)が表われる。
失礼して都営アパートの1号棟と3号棟の間を抜ければほぼほぼ正面に当たる。
先日の史談会での中央義士会の理事・宮川政士氏のお話を思い出しながら、少々触れてみた。
(55)
一松平安藝守(浅野綱長)樣御家中は、江戸にて馬を持不申候も道中は専牽せ申候、江戸にては借馬も有之由、道中専に牽せ候由、上田新
兵衛咄にて候、先年道中にて我等も見申候、馬數大分に候、前々より馬宿の咄承候、本多中務樣御家中は、貮萬石以上は馬は牽かせ候、
是も先年道中で見申候、右の通候へは、内匠頭樣も安藝樣と同前と存候、數日の儀にて、何も心安坊主共に、色々の事を尋被申候由候へ
は、我等身の上の事も、定て尋たるにて可有之候、馬牽せ候宿の時も何となく、右之咄を得候、心底には扨々おかしく痛入候、何角に付
小身は口惜候
(56) 吉田
一次の間にて咄居候處に、上の間より忠左衛門參、傳右衛門殿は、毎々若き者斗と御咄被成候、御年もさのみ皆共と替りも無御座候と被申
候故、神以追付夫へ可參と存候へ共、御咄しみ候て居候と申候へは、忠左衛門被申候は、いや左樣にても無御座候、惣體是へ參候事、内
蔵之助心に叶不申候と存候得共、傳右衛門殿御聲仕候と、内蔵之助其外へも申候て、是へ參候、必此座がらに御はなし可被下候、此間に
參候て御噺承候へは、氣晴快御座候と被申候、是にて内蔵之助威高き事、可有御察候事
(57) 吉田 原 堀部
一上の間罷出候時、忠左衛門、惣右衛門、彌兵衛なと、我等側へ被參、傳右衛門殿は馬御数奇と、何れも咄にて承候、馬咄可仕候、總體道
中御牽せ候馬、遠路達者不達者に可有御座候と被申候、いかにも若き時より數奇て見候に兎角馬は生質すなほに、すそ廻りよく無御座候
へは、遠路道中なと役に立不申候、頭持能、轡うけ能、喉も前地道乘能のと申候ても、小うて延び申候か、或はそむき爪悪敷候か、とか
く馬は惣體能候ても、右の所々に申分候へは、遠路必血落、自然の時益に立不申候と返答仕候、御番人後に詰居被申候故、われらも心の
内おかしく、いたみ入候、若輩の時分、御馬屋に稽古に出其後定て御供にて、舎人殿就中馬好きにて、切々右之咄承居候故、取合候而返
答いたし候、とかく何事も心を付て、人の咄は可承置事に候、武士はいか様の事かありて、大名に可成事もしれぬ事に候、昔より申傳
候、心は身體より大きに持度事候、扨右之三人衆被申候は、扨々傳右衛門殿は、承及たるよりは馬御巧者にて候、定て御家の御馬役衆、
其外御侍中にも御乘手多可有御座候、前廉の上田吉之允なとの樣成上手は、當世有兼可申候と、忠左衛門被申候、如仰昔之樣に勝れて乘
候は有兼申候、馬役之者に中山九郎左衛門と申者候て、随分奇麗成る乘方にて御座候故、越中守唯今の旦那の祖父妙解院と申候、三齋子
にて御座候、如形馬好にて、自分にも能乘被申候、馬上にて色々の事を被仕候て、慰被申候、腹中すき候時分、馬上にて湯漬なと給被申
候由、親共咄承候、其時分は右吉之允におとらぬ上手共多く、馬役之者に永井安太夫と申ものは、皆共幼年之頃まて存命にて覺居申候、
小男にて奇麗成乘方にて御座候、吉之允は馬上手にて、武功も有之候、一所に佐分利九之允と申仁御座候由、此佐分利同名之者共、傍輩
に多御座候、兩人共に松平宮内大輔樣へ被召仕、九之丞は後に原城にて討死仕、石塔なと今に有之候よし、傍輩共は見申候との咄承候、
吉之允兒小姓佐治頼母と申仁は、右吉之允、九之允働有之刻も、同前の働にて、富田信濃守殿當座之褒美に、作の鞍を給り被申候由、後
に松平新太郎樣え被召出、千石被下、鐵炮頭被仰付候段、親共噺にて承り申候と申候へは、三人共に傳右衛門殿は、古き事を能く御覺被
成候と被申候、近代大坂軍島原一揆之刻、御父子共に被成御座、御家中侍中討死手負、或は御褒美之書附、折々見可申候、生れぬ先の事
も知申候、御當家之事を、御家人の不知して、他家の人尋申時、不存と申と、不心懸之事候、遠坂關内、此以前相良遠江守樣へ御振廻之
時、御供に被參、其刻我等は歩御使番にて、腰懸に居申候、御知行取は御座敷に上り、御料理被下候節、關内え彼方御家老被申候は、前
廉御家に居被申候而、御暇申上候早水忠兵衛と申人、松平大和守樣へ被召出、結構なる首尾にて御座候、御家にては百石被遣、御臺所頭
被仕居候由、島原之刻、長岡佐渡殿、益田彌一右衛門殿、右御兩人之證據状持被居候て、右之通結構に被召出候由、右之通之仁を、何と
て御暇被遣候哉と尋被申候へは、關内方返答に、成程被仰聞通に承及候、其節越中守、肥後守父子共に罷越候故、侍共過半召連候、其時
忠兵衛は、輕き奉公をいたし、臺所廻りに役儀を勤申候者にて、働いたし候、他所へ參候ては、身體の足りにも成可申と、兩人より状を
遣候儀も承及居申候、前々より召仕候侍とも、働多御座候故、越中守方にて、さのみ賞翫不仕候、大和守樣へなとにては、島原之働有之
者少可有之候間、御賞翫御尤に候と返答いたし候へは、御家老とかくの事もなく、御尤と被申候由、則我等腰懸に居申候處、關内被參、
何と存候哉、偽にもなく誠を以能返答にては無之哉と被申候、今に忘不申候、扨々能被申候樣、先祖越後守殿之名を汚さぬ樣にと、申さ
れたるを覺居申候、關内は古き咄好にて能覺候、關内島原の時分は、未生以前か、三四歳か、夫より上にては有間敷候、皆々好たる訳
は、わけもなき事さへ覺申事に候、貴殿心得にも成可申と、書加へ候事
(58)
一忠左衛門、我等側に寄咄被申候は、拙者聟伊藤十郎太夫と申者、本多中務大輔樣御内に居申候、折節在江戸にて候、本多家譜代之者に御
座候、親は八郎左衛門と申て、武功も有之候へとも、申度事斗申候故、小身にて今に二百石被下居申候、内記樣代或時御前へ被召出、御
夜咄之節、酒も出段々御機嫌能、後には出頭仕候、兒小姓衆罷出、八郎左衛門に酒給せ候へとも、下戸にて常々短氣者故、頻にのませ可
申とて、兒小姓衆戯候て、色々の事を申て、腹を立させ候へは、散々悪口を申候故、幼少之者共と申、殊に御前にて迚、御機嫌損し候由
承及候、今に小身にて子孫も居申候、心儘に申度事斗申候へは、今に小身にて居申事と被申候、我等申候は、左樣の儀は多き事に候、苦
にも不被存、定て一つ所を樂に存可被居候と、返答致候、又被申候は、右十郎大夫殿へ、折を以御知人に成可申と被申候、本多樣御屋敷
は、御成橋之内にて、參り候て逢申候、存生之内にて、いか樣遠慮被仰付候哉、長髪にて些煩居申と被申候、緩々と咄、忠左衛門殿御無
事に御座候と申候へは、扨々忝、神以御禮難申盡と被申候、忰兩人疱瘡輕く相仕廻、湯も懸り申候、其外忠左衛門忰共も、無事に居申
候、私妻子にも無事に居、寺坂吉右衛門無事に下り、私所にも參候段申越候と、御咄被下候へと被申候故、歸り候て忠左衛門に咄候へ
は、扨々不淺御志難申盡とて歡被申候、吉右衛門事申出候へは、此者は不届者にて、重而は名も被仰被下間敷と被申候、吉右衛門は、其
夜一列に一同に參候て、逐電いたし候由、兼々何れも被申候、然とも無恙仕廻申たる儀を知せ候使申付なと色々申候へ共、右之通に被申
候事、不審に存候、實の缼落かとも存候事
先に「■謎解き・細川和泉守殿とは何方」でご紹介した松平右近将監、諱を武元といい徳川吉宗・家重・家治に仕え、家治からは「西丸下の爺」と呼ばれ信頼されたという。
来年の大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」では、この松平武元を石坂浩二が演じるというが、大変な老け役である。
やや猫背の白髪交じりのふと眉と言った感じで、かってのハンサム俳優の大チャレンジなのだが、氏も御年83歳で私よりも一つ年上だから、年相応の役なのかもしれない。
このドラマは田沼意次の時代と謳っているが、松平武元と意次は大変仲が良かったらしい。
そんな二人が活躍する政の世界と、浮世絵版元・蔦屋重三郎の活躍がどう絡まってドラマ仕立てになっているのか興味深い。
来年も欠かさず大河を見ることになりそうだ。
石坂浩二氏の松平武元の姿はこんな感じでした。右端が田沼意次の渡辺謙氏。
https://www.instagram.com/p/DB_LqnQM5Iu/?utm_source=ig_embed&utm_campaign=loading
昨日の熊本史談会に於ける、日本義士会・(熊本)山鹿支部長の宮川政士氏による「日輪寺と赤穂浪士 ~忠蔵と肥後~」というお話をお聞きした。
会員以外に多くのビジターの皆様で盛会であったが、まだまだ赤穂浪士に関する興味は尽きないように見える。
それとも、赤穂義士の接待役を勤めた「堀内傳右衛門」に対する興味であったろうか?
いずれにしても、堀内傳右衛門が書き残した「旦夕覚書」や赤穂義士に関する「堀内傳右衛門覚書」「御預人記録」などの諸記録は、赤穂事件研究の基本的史料として盤石の価値を有している。
現在私はその「堀内傳右衛門覺書」をブログでご紹介しているが、自らも楽しみながら読み返したり確認したりしながらのタイピングだから、遅々として進まない。
全部で133の話でまとめられているが、ようやく前回までで49話まで終了した。少々スピードアップして何とか討ち入りの日までには終了できないかと思っている。
そしていつかこの「堀内傳右衛門覺書」を皆様にご紹介する機会があればと思っている。
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(50)
一潮田又之丞と咄居申候處に、原宗(惣)右衛門被參、何やかや歌の咄なと有之候、又之丞被申候は、小野寺十内妻の歌、御存被成候哉と
被申候、いや不承候と申候へは、宗(惣)右衛門殿被書付候て、傳右衛門殿へ被遣候へと被申候へは、惣右衛門被申候は、十内承候はゞ
腹を立か申候と、笑ひながら書付給候、
筆の跡見るに涙のしくれ來て
いひ返すへき言の葉もなし
(51)
一片岡源吾右衛門被申候は、先頃は皆共被召置候御屋敷の釘隠、九曜の御紋を見申候て、風と存出したる儀御座候故、故采女正(長重)代
に、三齋樣より被遣候由にて、御召料の御具足、御小手はうふ小手にて、手の甲に、釘隠の御紋の大きさにて、銀の九曜御座候、惣體采
女正武具の物好き、三齋樣を眞似被申候由、指物なとも、三本しなへかちんにて、白餅を一本に三つ宛、九曜の心にて九ッ付させ候、私
は武具を預居申候故、能存候と被申候、扨は左樣にて候か、御先代々御心安得御意被申候樣に承及居申候、旦那奥方本源院殿先年果て被
申候刻、寺え爲御名代、大石頼母殿御詰被成候事覺居申候、内匠頭様御家中立物なと、其身/\の物好きにても候哉、又一列にて候哉と
尋申候へは、侍中物頭も同前に、三寸四方の金の角を向立に仕候、當音家はと被申候故、番方の侍十二組は、一より十二迄の文字に、金
の引兩を付、色はかちんにて候、小姓組六組は左右の文字に、金の引兩同前にて候、立物は銘々物好に仕候、組付は金にて御座候、物頭
はおもひ/\に仕候、只今御咄の三本しなへは忠小姓にさゝせ候と返答致候處に、十郎左衛門被參候へは、源吾右衛門、十郎左衛門に
被申候は、御自分にためし進候、具足の下地縅候時分入念候へは、火を入穴をもみ申候故、ためしかならずもとり申ものにて候間、御舎
兄達へ能く/\御咄置候哉と被申候へは、成程兩人へ能咄置候、定て縅申時分念を入申たると被申候、扨て其後野田祖三郎に、指物の事
を咄申候へは、成程三齋樣御代は、御番方も三本しなへと承り候と被申候、拙者小三郎咄にて■(示偏に土)承候、とかく古きことは可
承置事に候
(52)
一老人衆へ、拙者申候は、各樣御事、國本え申聞悦申越候、私も初若輩の時は、老人は益に立ぬ者と存居申候、最早私も老人に成候故、贔
負(屓か)に存候、旦那親父肥後守(光尚)時代、福島左衛門大夫殿城代仕居申候、上月與右衛門と申者を、五千石にて召抱候砌、肥後
守親(祖)父三齋、八代に居被申候、家老村上河内と申者に、壹万石遣置候、河内申候は、肥後守樣は、此頃高知の者被召抱候と申候へ
は、三齋被申候は、侍に歳か可入哉、今日召抱、今日用に立は侍也、扨々うつけたることを申候とて、以の外呵り被申候由承り候、其時
分の老人とも歡申候て、八代へ向拜み申候と申傳候由を咄候て笑ひ申候、此咄は遠阪關内へ、志水伯耆殿咄被申候由にて候事
(53)
一右の噺を、後に内藤万右衛門母義貞柳忌中見廻に參候て噺申候、拙者十郎左衛門懇意に仕候迚、悅にて候、奥平熊太郎樣御家中、万右衛
門弟十郎左衛門ために兄にて、神谷成右衛門と申仁勤居被申候、右の衆中存寄とて、右のためし具足の下地を形身に給候、志の段不淺、
暫留置候、貴殿へ遣可申と、返禮に刀脇差の内、札有を遣度存居申候處風と心付候は、万右衛門も成右衛門も若き仁にて、いまた妻子も
なき由、後々妻子も出來候上、天下に名を顕し十郎左衛門事に候へは、甥達に譲り可申候儀、當然の理と存、十郎左衛門旦那寺淸休寺に
參候て、右の心付を噺し、十郎左衛門殿事、御新參にて年數も無之に、御代々御重恩の衆中同前に、一列の御志は、別て勝れたる樣に私
は存候、万右衛門殿、成右衛門殿御妻子も出來御成人の後、天下に名を顕候十郎左衛門殿、御具足候へは、御持傳候儀、當然の理と存
候、私へ形見とて被下儀、日本の神、御志不淺忝存候、拙者奉へ召置可然と思召候や、道理二ッの内を尤と被思召候哉、被仰聞候へと
申候へは、住持被申候は、段々被入御念、御志兎角を難申候、行末の事迄、御心被附候事、感入申候と被申候故、右具足、貴僧迄返進可
申候間、貞柳、万右衛門殿、成右衛門殿へ渡被下候へと差返候、二ッ玉にて、一枚宛ためしたる跡有之量目壹貫目餘有之候、淸休寺よ
り、右の趣三人の衆へ被申通候て遣被申候へは、三人衆歡被申候上、感心の由留置被申候、其後貞柳より、泉岳寺へ被申通、十郎左衛門
其夜着用の肌着を乞請、我等心底不淺存候由、是を形見に仕候へとて給候、我等にては扨て/\不淺御志にて候、子孫迄十郎左衛門殿
に、あやからせ可申と一禮を申候、白羽二重に、後に磯貝十郎左衛門正久と、自筆にて書有之候事
(54)
一十郎左衛門書被申物を見申候へは、手跡は夫程に見え不申候、歌抔書被申候假名も、同前に見申候へとも、右之肌着之書付、眞にて書御
座候、見事に見え申候、後に万右衛門咄被申候は、十郎左衛門若年の時分は、亂舞を好、其上器用に有之、鼓太鼓萬事稽古仕候、内匠頭
様召出候而、御嫌にて御座候由にて、透と捨申候、御學問御好にて、色々書物好にて寫、就中しんの物は見事に見え申候、好候へば成事
と存候と、萬右衛門咄被申候、承候而、扨は私見申候眞の見事に御座候、代筆かと存候へは、右之通に而見事に見え申候、後に万右衛門
被申候は、肌着書付申候も、御覧候へ、かなよりも能見え申候由申候事、(本條は異本に據り補ふ)
(47)
一坂崎忠左衛門殿は、いか樣の筋目にて候哉と、御尋に付、忠左衛門親清左衛門と申儀は、故越中守代、兒小姓にて、懇に召仕、段々取
立、當越中守代にも心に叶、其後家老に被申付、以後家督を嫡子に譲り致隠居候て、病死仕候、嫡子病氣に有之、知行を上候、忠左衛
門は二男にて、幼少より段々取立、懇に召仕候、只今は大かた親の身體程に、結構に被召仕候、三宅藤兵衛殿はと被尋候、藤兵衛儀は
少わけ有之者にて、定て御聞及可被成候、明智日向守殿は、先祖越中守と少すうき有之、日向守殿内に明智左馬助と申候て、名高き者
有之候、藤兵衛は其子孫にて御座候、其故樣子よく召仕候、長瀬助之進殿はと被申候、是は三齋代、小谷又右衛門と申候て名高き者有
之候、足輕に具足を着セ、武者足輕とて五十人宛仕立、右又右衛門預申候、其末にて側に召仕申候、堀尾万右衛門殿はと尋被申候、是
は堀尾山城守殿の末にて、幼少より心に叶、懇に側に召仕候、(宮村)團之進殿はと尋被申候、是も代々召仕候者の忰にて、幼少より
心に叶、段々取立結構に仕候と申候へは、度々御出被成候、扨て能御辨舌、奇麗なるおし立と、ほめ被申候、横山五郎太夫殿はと被尋
候、五郎太夫は、定て御聞及も可有御座候、島原陣場にて、板倉内膳正樣御討死の砌、祖父横山助之進と申候て、物頭仕候を、内膳正
樣え被付置候て、一所に討死仕候、其子孫にて御座候故、懇に召仕、唯今小姓頭に申付候、助之進同前に、伊藤十之允と申者も討死仕
候、其子孫只今伊藤又右衛門と申て、側に召仕候、平野九郎右衛門殿はと被申候、是も祖父以来代々能召仕候、只今小姓頭申付候、遠
江樣孫の平野にて御座候、中瀬助五郎殿はと被申候、是は御聞及も可有御座候哉、三十年斗前、摂州芥川にて、十三四歳の時、親之敵
を首尾よく討申候、少譯も有之、幼年より召仕、小姓頭勤候と、夫夫致返答候へは、扨々御大家樣と感被申候事
(48)(細川藩士)
一井上吉右衛門申候は、今度は大勢の事に候へとも、夜着ふとん小袖迄も無支、何と御大名樣にては無きかと被申候故、拙者申候は、夜
着ふとんともに、大形日野の酒たるにて候、御大名樣と申は、常々所持支ぬやうに有之候こそ御大名樣なれ、今度は富澤町にて、調ら
れると見え候、妙解院様御代に、長崎物下直の時分、段子しゅすの巻物、澤山に御調させ、何その御用のため、夜着ふとん百斗、坂崎
忠左衛門殿被申付候と、親三盛申聞候と、返答いたし候へは、是は/\と手をふり、金銀少とて笑被申候、おもふ事申さねはならぬ手
前故、前々より人に悪まれ申事も存居申候へとも、堪忍成かたく候、兎角奉公人は、大小身共に、夜日心懸、御爲と奉存候はゞ、何事
も成間敷ものにては無之候、當座能やうに、流渡りの世中口惜候、貴殿段々御奉公可被致候 身命を惜不申心懸候はゞ夫々の生質心の
付ぬは其通、心付きては流渡りの勤は、ぶしたるものゝ口惜き事、何その時、猶以無心元おもはれ候、能々心懸肝要にて候事
(49)
一廣き御座敷へ臥被申候故、寒可有之と存、拙者指圖にて、小屏風澤山に取よせ、枕元に立させ申候、或時さる仁被申候は、小屏風建候
事、不入事に候、人數見え兼申候と被申候故、拙者申候は、御尤に存候、御番人多く相詰、其上あの衆の儀に候へは、氣遣之事は有之
ましと申候へは、其分にて後々迄臥被申時建申候、助右衛門拙者え被申候、内蔵之助はさむがりにて御座候と被申候故、羽織か何そ出
し度、あれこれに色々申談候へとも、内蔵之助斗には出されぬ事にて、埒明不申候、其後同名平八に申談候は、御側衆其外大身の面々、
自分々々の心付のやうに、老人衆へ頭巾なと持参被申、夜々は御かぶり候へと、持参有之樣に有御座度候、上より頭巾可被爲拝領樣は
無之候と申談候へとも、是も埒明不申、内蔵之助は、夜臥被申候時は、茶縮緬のくゝり頭巾をかぶり、間には火燵引かつき臥被申候、
拙者儀節齋より給候新敷くゝり頭巾、外に新小袖一ツ鋏箱に入、小判も二兩ほど懐中いたし、たばこも澤山に持參いたし候へとも、わ
けて一人に出させ候事も成かたく、箇條の時小身ものは口惜候、右頭巾と金子は、十郎左衛門母儀に、魚籃の後淸休寺を頼み遣候事
家祖・細川立孝 細川忠興四男 中務大輔
宇土支藩初代・細川行孝 立孝二男 丹後守
2代・細川有孝 行孝嫡男 和泉守
3代・細川興生 有孝嫡男 伊豆守→山城守
4代・細川興里 興生嫡男 大和守
5代・細川興文 興里・弟 豊前守→中務大輔
6代・細川立禮 興文二男 和泉守 (本家相続・齊茲)
7代・細川立之 立禮嫡男 和泉守
8代・細川立政 立之嫡男 中務大輔(本家相続・斎護)
9代・細川行芬 立政・弟 中務大輔→豊前守
10代・細川立則 行芬二男 山城守→因幡守
11代・細川行眞 立則・弟 大和守→豊前守
参考:嫡男・津軽行雅、二男・毛利高徳(二女・千代子=近衛文麿夫人)
12代・細川立興 立則嫡男(廃藩に伴い官職名なし)
共にヤフオクに出品された「細川伊豆守」に宛てた書状である。オークション出品者は同一人である。
上(1)は将軍・家治の、下(2)は老中・阿部豊後守正允の書状であり、共に歳暮に対する礼状である。両方とも、日付が十二月廿七日であることが興味深い。
細川和泉守とは、宇土細川家の、2代・有孝、5代・立禮(本家相続・齊茲)、6代・立之(本家相続・斎護)の三人が名乗っている。
さてそれぞれの「和泉守殿」とは何方であろうか。
(1)古文書 檀紙 安永期 松平右近 細川和泉
爲歳暮之祝儀 / 小袖一重到来 / 歓思食候 猶 / 松平右近将監可 / 申候也
十二月廿七日 御印(家治)
文字が薄くすべての判読は難しいが、歳暮に対する礼状である。 阿部豊後守の諱名は別紙に正允とあった。
■扨て謎解き・・・
将軍・家治 在任・宝暦10年(1760)~天明6年(1786)
老中・松平右近将監武元
延享4年(1747)に老中、明和元年(1764)に老中首座に就いた。家治からは「西丸下の爺」と呼ばれ信頼された。
死去する安永8年(1779)7月25日迄現役であったという。
老中・阿部豊後守正允
明和6年(1769)西丸老中、安永8年(1779)本丸老中、安永9年死去
和泉守・細川立禮
安永元年(1772)和泉守名乗り、天明7年(1782)細川宗家相続・齊茲
二つの書状が同年の物かどうかは判らないが、共に細川立禮が和泉守を名乗った1772年から、本家を相続(齊茲)する直前、1779年(松平右近将監死去)、1780年(阿部豊後守死去)を限りとする時代のものと考えられる。
コーヒーミルの香り一段冬の朝 津々
立冬を迎えました。夏からいきなりといった感じで、まだ紅葉さえ見ることができないようです。
数年前の事ですが、小学校低学年の登校の子らが、「リットー・リットー」と叫んでいるのを見かけ、その年の立冬の日を教えられたことがありました。
その年は今年と違って、立派な「秋」が存在したことでした。
昨夕、わずかに水が戻った水無川(健軍川)の堰のあたりにカワセミが飛んできていました。
こんなところでカワセミに出会うとは少々驚いたことでしたが、なにやら小魚をとらえて飛び去りました。
今朝は、先日娘がコーヒー豆をもってきてくれたので、コーヒーミルを取り出してコーヒー曳きにチャレンジしました。
良い香りが一面に漂い、コーヒーをたててささやかな朝食をとりました。
差し込む朝のひかりはまさに冬を感じさせます。良い天気の冬のはじまりの初日です。
毎朝の朝食はトースト+サラダ+半熟卵+スープ(又はコーヒー)、もしくは昨日の残り御飯でお茶漬けの何れかである。
最近半熟卵に凝りだして、ようやく6分半というタイムと火加減(湯加減)を極めて、おいしい半熟卵を作ることに成功した。
7分になると黄味が少々固くなるから、タイマーを準備して時間をちゃんと守らなければならない。
サラダはレタスをちぎり、キュウリをスライサーでスライスすれば終り、スープは既製品の粉末状のポタージュでお湯さえ沸かせばすぐできるから朝食にはもってこいである。
トーストはバターオンリーだったり、チーズを乗っけたり気分次第、ジャムをのせて食べたりもしたが食べ挙げてしまった。
これを5分ほどで食べ揚げると、すぐさま食器洗いをして乾燥機に放り込むと、朝の一大業務完了である。
もう11月も5日になった。明後日は立冬、少々足元が寒い。
(43)
一最前は御廣間二座に被召置候へ共、庭も見え不申、惣體暗く候故、御役者の間に御移被成思召にて、坂崎忠左衛門・三宅藤兵衛・宮村
團之進、其外御側衆・御小姓頭・御聞番皆共迄も次第の如く罷出、思召之趣を十七人衆へ挨拶有之候、此間俄の事故、此座敷へ御座候
樣に被仕候、殊の外暗く、庭も無之候間、庭なと有之所に御座候にと申付候、明日より少々繕を申付候、大工仕なといたし候故、御聽
障りにも可被思召と御案内を申候、次の間の衆へも同前に被仰付、誠以冥加至極難有儀に奉存候、御侍中も大勢被付置、結構成儀共、
就中堀内傳右衛門殿、別て情ら敷被仰聞、忝次第と挨拶承申候、左候而、何れも立被申候刻、團之進殿、我等へ被申候は貴樣には御名
迄被申候、歡候と被申候、いかにても是にて承り候と申たる事候、上之間にては忠左衛門・、次の間にては助右衛門、挨拶の時分は、
進出被申候、辨舌分明なる輩にて候、夫故仙石樣えも、此兩人被罷越候と存候、寒氣の時分故、大なる火燵に鍵をおろし、べんがら縞
の蒲團をかけ申候、何事も御目附衆へ、御伺ひ被成候而之事と承候、煙草酒も、初一兩日は出不申候へ共、是も御出し被成度御伺と承
候、誠に何角御心を懸けさせられ候御事、何れも有難かり、被申候事
(44)
一番人衆は、御小姓組・御忠小姓組、二座に勤被申候、尤無刀、挨拶馳走に出候衆も、同前之事に候、大小用に被参候節は、御番衆に向
ひ手を付、時宜の樣に被仕候て、立被申候、其時々々に御番衆内一人宛、立被申候て、跡より參、大小用に被参候口迄、つき被參
候、御番衆之内、心安き仁に申候は、定て被仰合にては可有之候へ共、毎度跡より御付添候ては、窮屈に可有之候、毎度各之方に向き
案内之心時宜を仕候と見え候と申候へは、其儘居被申候事
(45)
一手水つかひ被申候度ことに、坊主衆を遣し候て、水をかけ申候故、殊の外迷惑かられ候、手水桶に柄杓御添可被下候、何れも自身につ
かひ申度と被申候へは、柄杓出候事成かね申候、何事も芝御屋敷に伺申候儀故、其内龍口を仕かけ候て、出候樣に成共致度と申談たる
事候、それは少も御時宜に不及、御かけさせ被成候へと、我等毎度挨拶申たる事
後年、藤本志津馬が熊本に持ち帰り、現在は熊本市立花園小学校校内の置かれている手水鉢。(RKK資料引用)
(46)
一御屋敷へ參著致候夜、小袖貮ツ宛被下、歳暮に一ツ宛、帶なとも被遣候、右之品持參候坊主に、内蔵之助被申候は、此御屋敷にて、太
守様御居間は、何方にて候哉と尋被申候、次の間衆も同樣に尋被申候、其方へ向き頂戴被仕候段を坊主衆我等へ申聞候、尤なる事に
候事
今朝は8:15から1時間、NHK・TVでサンドウィッチマンの二人がMCを勤める私のお勧め番組である「病院ラジオ」をみる。
今回は東京渋谷にある、日本有数のリハビリテーション病院「初台リハビリテーション病院」が舞台だった。
妻が熊本の T リハビリテーション病院に入院中とあって、少々身につまされながら回復に向けて頑張っておられる患者さんに、サンドウィッチマンの二人がいつもながらの事だが、優しく声をかけ励ましていく様が心にしみた。
妻同様脳梗塞であったり、交通事故やその他の事故で数年間の療養を余儀なくされておられる方々の様々な生き様が紹介されていく。
しかし、皆さんが大変前向きに自らの症状を受け止めて、生きていかれている様には妻の将来を含めて大いに励まされるものがある。
私の妻は、介護認定については「非該当」となった。理由は「自立可能」とある。
左手が上がらないとか、歩行幅が狭くなって歩行スピードがすっかり落ちたりしているし、最大の症状は「失語」である。
番組で出演されていた女性の方も、失語の症状がみられ、サンドウィッチマン相手の会話に言葉を一生懸命さがしておられたが、私の妻もそんな感じである。
しかし「自立可能」というお墨付きには、私には大いなる安心をもたらしてくれた。まさに不幸中の幸いというべきである。
入院100日をはるかに超えて、そろそろ退院が近いのではないかと思っているが、お互いよく頑張ったという感じがする。
食事造りの腕は一向に上がらず、それでも100日なんとか台所に立って三食毎日作ってきたから、妻が退院してきたらいろいろ教えを受けて「男子厨房に」入って腕を上げようと思っている。
親しんできた「歴史」も少々はまり込み度を抑えなければならない。
それと共に、自らの健康を改めて見直していかなければならない。
「病院ラジオ」の舞台となった病院や、妻が入院している病院そのた、リハビリで頑張っておられる患者の皆様に最大のエールを送りたい。
そしてスタッフの皆さんへ最大の感謝を申し上げたい。