津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■落札しました

2025-01-30 07:19:12 | オークション

                                                                   

 しょっちゅう使うものでもないから持っていなくてもいいやと思っていた「熊本県百科事典」、日本の古本屋でも最近は見当たらないのですがヤフオクに出品されていたので落札してみました。
当時の定価が25,000円、落札価格は1/10以下+郵送料でした。本棚を整理してお待ちしたいと思います。
実は最近ヤフオクは連敗続きで、今回は満を持しての事でしたが応札は私だけだったようです。

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■保利与兵衛の借銀の保証人

2025-01-29 07:22:41 | 歴史

 何とも理解に苦しむ話がある。100石取りの代官・保利与兵衛なる人物が銀100貫を京都の平野屋から借銀した。
「1両=銀60匁」からすると、100貫は100.000匁だから1667両ほどとなる。
こんな大金(銀)がたかだか100石の知行取にどうして融通されたかというと、その借状には細川忠利の袖判が為されていたというのである。
袖判とは文書の右上に記された、署名と花押の事を差す。借状に記された忠利の袖判は「保障」の意味合いを有する。
上記の保利与兵衛の借状は「個人の借銀」だとされているが、何か曰くがありそうな話ではある。
借銀奉行は期限に成ると利子を保利から受け取って返済し、また袖判借状を新たに書き換えたという。
「四公六民」といわれた当時、保利の収入は40石ほどである。(1石=1両で換算すると40石=40両≒400万円)
当時の細川家が京都の商人からの借入利息は年15%だったと言われるから、1.667両×0.15=250両≒2.500万円、まったく返済能力はない。
この事についてはどう解決されたのかよくわからないが、大いに疑問が残る・・・・・
                               (参考:宮崎克則著 逃げる百姓、追う大名)

 保利与兵衛については次の資料しか見当たらない。光尚公の時代までは与兵衛は肥後にあったことが判るが、死去したのか離国したのかその行方はようとして知れない。子孫の情報も伺えない。
    ○ 保利与兵衛  留守居組 百石 (於豊前小倉御侍帳)
             御代官衆 百石 (肥後御入国宿割帳)
             百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
  

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■育ての叔父

2025-01-28 07:24:08 | 徒然

 「手討達之扣」を読んでいたら、「育ての叔父」という言葉が出てきた。「厄介叔父」等と云われるが、「厄介者」「厄介兄」など独立した生計をもたず家主に扶養される者の事を云う。
この場合のA家においては、Aの家督は直系の嫡子Bが相続すると、Aの弟・Cは養子にでも行かぬ限り、相続したBの世話になる事に成る。
Bが叔父たるCを「扶養者」とすることから「育て」の叔父と呼称することになる。
「手討達之扣」に登場する「育ての叔父(C)」は、Bの知行地に赴き小さな野屋敷で息子・Dと共に暮らしている。
そんな中でDが事件を起こし、当主であるBがその後始末に奔走している。

 「先祖附」等では、詳細な家系は記載されないため、こういう形の分流の子孫については中々詳細を知り得ることが出来ない。
例えば我家などでも、我が家の先祖附にも墓所にも見当たらない人の存在が認められたり、又同名の者が宇土細川家で最下級の士に成って居たりしている。
いつの時代に誰の子が分家したのかが判らないが、何とか士分として生きている。

 「育ての叔父」の子孫のその後はうかがい知れないが、大方は浪人となったり帰農したりして、手永の惣庄屋や庄屋の元でなにがしかの役を得られるという方が多いように思える。
「厄介」とは、「 1 、めんどうなこと。扱いに手数がかかり、わずらわしいこと。また、そのさま。 2、 めんどうをみること。また、世話になること。」の意だが、厄介者は後者(2)をさすが、たまには(1)のような人物が表われている。
精々私も「厄介爺」にならないように、大いに心して生きていかなければならないと自覚している。

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■寛永五年正月廿七日の村上景則

2025-01-27 08:48:02 | ご挨拶

  かっての備中笠岡の城主で、村上水軍の一族村上八郎左衛門景広は、関ケ原戦に於いては西軍に属して東軍の水軍と戦い107の首級を上げる大活躍をした。
其の後毛利氏を離れて、細川忠興に招かれ一万石の高禄をもって仕えた。寛永四年十月一日に死去、その跡式を嫡子景則が相続、その御礼その他の記事が詳しい。
(肥後八代入国後の三斎に仕え、その死にあたり離国した)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

         |  (村上景則)
村上景則相続ノ礼 |一、長岡河内、夜前中津ゟ為御礼被参候、 三斎様ゟ之 御書も参候ニ付而、古屋七左衛門持被上候
ニ中津ヨリ来ル  |  へとも、はや御門立申ニ付而、我々所へ被持参候を、則我々両人持上り、 御前へ差上申候、河 
         |  内ハ今朝御礼被申上、被成御振舞候事、
村上景則主知行惣 |一、長岡河内方ゟ、平左衛門を以上被申越候ハ、はやき申事にて候へ共、大坂御普請諸役之者なと仕立候
成ノ算用ヲ求ム  |    村上景広
         |  間、八郎左衛門知行去物成之儀、差引被仰付候て可被下候、又前廉八郎左衛門御供ニ罷上候時ニ
戻米       |  戻米なとも有之様ニ承及申候、左様之段をも差引被仕候様ニ、金子・中神ニ被仰渡可被下候事、
景則ノ算用    |一、河内儀ハ、惣別小倉御米をかり申間敷通、前廉 三斎様被 仰付候、今又八郎左衛門跡 仰
         |  付、壱万石ニなり申候とても、得 御諚候ハねハ御米かり申儀罷成申間敷と存候間、左様ニ御座候
景広馬乗ノ借米  |  ハヽ、八郎左衛門馬乗共ニかし被下御借米之分も返弁可仕候、しかれとも、今ほと米の手廻何と
忠利ノ袖判ヲ請ケ |  も罷成間敷候間、 御袖判をも申請、銀子にて上納可仕と存候、いかゝ可有御座候哉と被仰聞ニ付
銀子ニテ上納スル |  而、此方ゟ申候ハ、米と銀とのさわけの様子ハ、惣積り仕ものと談合仕候ハねハ、とかくの御返
ハ如何      |  事難申候由申渡候事、何時御返弁候とても、請取可申由、申渡候事、
         |          〃
         |一、右八郎左衛門知行分、去物成ともニ、長岡河内方へ急度被仕、渡候へと、加藤新兵衛・栗野伝介
         |  ニ申渡候事、
村上景広家屋敷之 |一、村上八郎左衛門家屋敷之帳、幷道具も有之帳被差上候事、
帳幷道具ノ帳   |                                      (皆川)(林)
村上景広遺物ノ刀 |一、村上八郎左衛門遺物ノ刀一腰箱ニ入、茶碗壱つ箱ニ入、書置文箱ニ入、右野分、治ア・隠岐両人
幷茶碗   遺書 |  へ相渡申候事、

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■寛永五年正月廿七日の村上景則

2025-01-27 08:30:17 | ご挨拶

  かっての備中笠岡の城主で、村上水軍の一族村上八郎左衛門景広は、関ケ原戦に於いては西軍に属して東軍の水軍と戦い107の首級を上げる大活躍をした。
其の後毛利氏を離れて、細川忠興に招かれ一万石の高禄をもって仕えた。寛永四年十月一日に死去、その跡式を嫡子景則が相続、その御礼その他の記事が詳しい。
(肥後八代入国後の三斎に仕え、その死にあたり離国した)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

         |  (村上景則)
村上景則相続ノ礼 |一、長岡河内、夜前中津ゟ為御礼被参候、 三斎様ゟ之 御書も参候ニ付而、古屋七左衛門持被上候
ニ中津ヨリ来ル  |  へとも、はや御門立申ニ付而、我々所へ被持参候を、則我々両人持上り、 御前へ差上申候、河 
         |  内ハ今朝御礼被申上、被成御振舞候事、
村上景則主知行惣 |一、長岡河内方ゟ、平左衛門を以上被申越候ハ、はやき申事にて候へ共、大坂御普請諸役之者なと仕立候
成ノ算用ヲ求ム  |    村上景広
         |  間、八郎左衛門知行去物成之儀、差引被仰付候て可被下候、又前廉八郎左衛門御供ニ罷上候時ニ
戻米       |  戻米なとも有之様ニ承及申候、左様之段をも差引被仕候様ニ、金子・中神ニ被仰渡可被下候事、
景則ノ算用    |一、河内儀ハ、惣別小倉御米をかり申間敷通、前廉 三斎様被 仰付候、今又八郎左衛門跡 仰
         |  付、壱万石ニなり申候とても、得 御諚候ハねハ御米かり申儀罷成申間敷と存候間、左様ニ御座候
景広馬乗ノ借米  |  ハヽ、八郎左衛門馬乗共ニかし被下御借米之分も返弁可仕候、しかれとも、今ほと米の手廻何と
忠利ノ袖判ヲ請ケ |  も罷成間敷候間、 御袖判をも申請、銀子にて上納可仕と存候、いかゝ可有御座候哉と被仰聞ニ付
銀子ニテ上納スル |  而、此方ゟ申候ハ、米と銀とのさわけの様子ハ、惣積り仕ものと談合仕候ハねハ、とかくの御返
ハ如何      |  事難申候由申渡候事、何時御返弁候とても、請取可申由、申渡候事、
         |          〃
         |一、右八郎左衛門知行分、去物成ともニ、長岡河内方へ急度被仕、渡候へと、加藤新兵衛・栗野伝介
         |  ニ申渡候事、
村上景広家屋敷之 |一、村上八郎左衛門家屋敷之帳、幷道具も有之帳被差上候事、
帳幷道具ノ帳   |                                      (皆川)(林)
村上景広遺物ノ刀 |一、村上八郎左衛門遺物ノ刀一腰箱ニ入、茶碗壱つ箱ニ入、書置文箱ニ入、右野分、治ア・隠岐両人
幷茶碗   遺書 |  へ相渡申候事、

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■古いオークの木 & 囚人

2025-01-26 07:37:33 | 徒然

 数日前Youtubeで「黄色いハンカチ」を半分ほど鑑賞した。(後半はまだ見ていない)
主演の高倉健と共に、倍賞美恵子・武田鉄矢・桃井かおりなどが、個性豊かにそれぞれの役どころを演じていて、九州なまりが抜けない武田の好演などが絡みおもしろい作品であった。

処でこの作品は、「幸せの黄色いリボン Tie a Yellow Ribbon (ole ork tree)」をもとにしているとされる。
若いころ英語の勉強にと口ずさんだ楽曲だが、未だに英語が苦手でいささかの役にも立っていない。
弾むような快活なメロディだが、歌の内容は「罪をて刑期を終え故郷を目指す」人の切ない心境を歌ったものである。

今一つ「思い出のグリーンググラス Green, Green Grass of Home」があるが、こちらは死刑囚が故郷を思って歌う歌だ。
日本では若き日の森山良子の歌が知られているが、「死刑囚」の歌であることは避けている。
森山の透き通るような歌声が相まって、そのような深刻な歌であることを感じさせていない。

この二つの歌に共通するのは、「主人公が囚人である事」、もう一つは「故郷にある古いオークの木」である。
「幸せの黄色いリボン」では「ole ork tree」とつづられているが、「ole 」が「old」であり、19世紀の訛り言葉らしい。
前者はハッピーエンドで終わっているが、後者は処刑されて亡骸が故郷へ帰った。
この様な題材が取り上げられるアメリカの音楽の懐の深さが感じられる。

若いころ、英語の歌詞カードを眺めながら、悪戦苦闘しながらよく歌ったものだが、当時はこのような深いわけがあることなど知る由もなかった。
そして、何とか暗唱していた英語の歌詞も、今ではすっかり忘れているが、Youtubeでそれぞれを楽しまさせてもらっている。

     ・幸せの黄色いリボン Tie a Yellow Ribbon (ole ork tree)」(Tony Orlando and Dawn)(1973)
     ・思い出のグリーンググラス Green, Green Grass of Home
Tom Jones)

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■錯誤あり「松井壱岐の諫言」

2025-01-25 10:50:50 | ご挨拶

 細川綱利に対する家臣の諫言が幾たびかある。その中に「松井壱岐の諫言」があると人づてに聞いたことはあったが、その内容を知り得ないでいた。
ところが、「木下韡村日記」の天保十五年三月廿九日の項に「續兵家茶話日夏繁高撰」の引用として次のように記載されていた。

   細川の長臣松井新助、其始光源院に奉仕し、其後細川幽齋ニ随身し、幽齋より長岡氏を授け、長岡佐渡主康之と改称セリ、
   其男長岡佐渡興長ハ三斎カ妹聟となり、後年寛永九年申肥後封国の時、興長八代城代と爲て禄五万石を領地し、其男佐渡
   寄之、其男佐渡直之、其男佐渡某、元禄十五年丁丑壱岐と名改、其男昨今之佐渡某也、世々細川家第一之長臣也、図書興顕と云、
   何か不知 然るに
右の壱岐之代ニ當て主人越中守綱利、行跡不宜沙汰有り、依之一封之諫書呈セリ

 ここにある「右の壱岐之代ニ當て」が間違いであり、以下の諫言は松井興長によるものであり、間違えられて伝えられている。
韡村先生も間違いに気づかれぬまま記録に留められたのかもしれない。
尚、以下の文章は後に宝暦の改革を実行した大奉行・堀勝名が「秘書」として書き記し、残したものである。
年代の特定が出来ないが、綱利十六・七歳のころのものと思われる。彼の生活ぶりが良くわかるし、興長の主家の存亡を愁いた決死の諫言であることが理解できる。綱利の初入国を待つて、興長はなくなる。

  一御當家者御先祖幽齋公、三斎公、忠利公、於所々戦功被励、尤武道専一御心懸有之候故、近代迄御家風相残、諸士武藝心
   懸候處、當御代至諸家中武藝止、遊興長日送候、是皆 殿様武藝御嫌有而御遊興与宗被遊候故、諸家中学之風俗悪敷罷也
   候事
  一御代々忠勤励候侍者被捨置、當時任御出頭、御小姓之美麗成者共江ハ過分之高禄被下候事不可然候事
  一忠勤之励候も無御加増、又新参ニ無功者江ハ高知被下候故、御代々之侍共不快存候事
  一不相應之金銀被出、跳子被召抱、毎度之跳御見物不可然、別御慰も可有之事
  一近年御出頭用人致出来候而、諸事渠等申上候事御承引被成候故、両人中悪敷者ハ讒、又懇意成者ハ不奉公仕候而も能樣ニ
   取成申上候事
  一此度御参勤之節、御側廻に美麗殊更御小姓道中之過美、御代々無之儀、不宜奉存候事
  一近年之御物入、御代々無之儀御座候故、御勝手及困窮候事
  一御遊興被長、公儀之御勤愚罷成候儀不可然事
  一御奥之女中任御寵愛我侭申候、是皆 殿様女中之申次第被成候故、御威勢借我侭申候事
  一公儀訴訟之儀、御出頭用人江贈賄送候得□□人非公事も利有之樣ニ申上、又不叶筋之訴訟も相叶候様ニ申上候事
  一ヶ樣之品々 公儀へ相知候者、忠利公以来之御領国危ク奉存候事
   右之條々御承引無御座候ハゝ、八代之城地并私知行指上、長御暇拝領可仕候、恐惶謹言
     月日                               長岡佐渡

   右願之通相達、綱利江も至極過分之旨ニて、則出頭用人知行取上、両人共ニ遠流也 但名不知、其後又岩間主税、片山典膳甚
   出頭、女人形仕隠居時、家老と成壱万石つゝ授之、而又料理人山本武左衛門悪人形仕甚出頭セしと也
   以上、續兵家茶話日夏繁高撰

 

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■郷土読本・大塚退野先生

2025-01-24 07:11:23 | 書籍・読書

 2月の熊本史談会では、論語塾講師・阿田俊彦氏をお迎えして「儒学 日本への伝承、そしてその変遷」をお聞きするが、先生のご講演は昨年五月に第一回目をお聞きしている。
お話が高尚だから、前回の資料などを持ち出して「予習」を始めた。

 私は熊本における儒学の流れについて少々興味を持っている。寛文九年(1669)には藩主綱利によって陽明学が異学とされ、優秀な多くの人材が追放された。 
横井小楠(1809-1869)が朱子学の師と仰いだ大塚退野(1678-1750)は、もともとは陽明学者であったが、後に朱子学者となった。
小楠は退野の死後60年後に生まれているが、朝鮮の李退渓の教えに沿った退野の朱子学に心酔している。

諸々の資料を読むと退野の考えは「知行合一・躬行実践」だとされるが、これはまさしく陽明学の考えである。
小楠の行動はまさに「知行合一・躬行実践」だから、小楠の行動規範は陽明学にあるように思えるが、菲才の私には理解の埒外にある。

 大塚退野の評価はいま一つ低いように感じるが、実は10数年前に退野先生のお墓が近い春日小学校では「郷土読本・大塚退野先生」という教本が発刊されたことがあった。
これを思い出し急にこの本を入手したいと思い、「日本の古本屋」等を探すが見つからない。
編者は、熊本市中央区新町にある仏具店の店主・米村孝一という方である。残部があるかもしれないと思いいたった。
近くに住む友人が電話してきたときに、もしかしてご存知かもしれないとお聞きしたら知っているというお話だった。
昨日夕刻お店の前を通りかかり、店主にお声がけして聞いてくれた結果幸いにも残部があったので、買い求めていただいた。

 阿田先生のお話が、熊本の儒学の系統迄話が及ぶのかどうかは判らないが、少々予習をして質問の機会があればお聞きしてみようかと思っている。



 

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■幼い奥方・篤姫さま

2025-01-23 07:08:47 | 歴史

「度支彙凾文政元より五迄 法令條諭」の「九〇八」に次のような記事がある。

一太守様舊臘廿九日依召御登城被成候處、篤姫様御事、細       
 川中務少輔殿え御縁組御願之通被仰出候段、御到來有之、     
 奉恐悦候、此段為被奉承知申達候條、御支配方えも可被
 相知候、以上
   文政五午正月廿三日     奉行所


この記事にある「太守様」は細川齊樹である。
「太守様が前年十二月廿九日お召しにより、登城成された処、篤姫(齊樹二女)を、支藩の細川中務少輔(立政)との縁組について願い出ていたところ、願いの通り仰せい出された。その旨が国許へ到来恐悦奉る。この段を承知為され申し達するので支配方へも相知らせるように」との意である。

つまり齊樹は二女・篤姫を実兄の宇土支藩主8代・立之の嫡子・立政に嫁がせたいと幕府に届けており、これが認められたことを表している。
当時立政は19歳、篤姫12歳、従兄妹同志の結婚話である。齊樹には二女があるが共に側室の子だが、正室・紀姫(一橋大納言治済女)が篤姫を養女とした。
しかし、この結婚は短いもので篤姫が14歳でなくなっており、妙解院に葬られた。
又、神奈川県鎌倉市の名越にある妙法寺にも祀られている。
  妙法寺は、11代将軍家斉はじめ将軍家および徳川御三家、肥後細川家などの尊崇を集めた。
  総門、仁王門、法華堂が朱塗りであるのは将軍家斉を迎えるためであったとされ、明治中期までは境内に将軍御成の
  間が遺されていた。また、現在の本堂は文政年間に肥後細川家により、幼くして亡くなった細川家息女の菩提を弔う
  ため建立されたものである。(ウイキペディアより引用、一部書き替え)

ちなみに紀姫の父・一橋大納言治済は、将軍家斉の実父であるから家斉と紀姫は異母兄妹の間柄である。
今年の大河ドラマ「べらぼう」
でも、その存在感が伺える。

そして、のちに立政は齊樹の継嗣となり本家を継ぎ、齊護と改名した。

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■中陰九曜紋

2025-01-22 07:16:06 | オークション

 【肥後拵の傑作】鉄地桜九曜紋散小柄 無銘 肥後金工 金象嵌 細川三斎 大名品 細川家 家紋 本歌 桐箱入

            

 細川家の家紋チラシの「小柄」が出品されている。金象嵌が施されているが、象嵌がはずれたり、地金に錆が出たりして状態は余り良くないようだ。
「長さ:約9.74cm、幅:約1.50cm、厚み:最大約5.0mm」とあるから、これを参考に写真のスケールを合わせてみた。小さなものである。
中陰(ちゅうかげ)九曜紋」が数か所みえるが、これは本家では使われないから、常陸谷田部藩細川氏もしくは内膳家・刑部家の御品ではないかと思われる。
これは状態が良ければ相当な値段になるのだろうが~~只今16,000円也。

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■日脚のぶ

2025-01-21 08:07:22 | 俳句

 冬至の頃からすると日の入りの時刻が17分程遅くなっている。これだけ「日脚」が伸びていることになる。
これが季語となった。
私の句帳をのぞいてみると

      川底にASO4露呈 日脚伸ぶ   というすごい句があった。

      こたつ猫ぞろりと這い出 日脚伸ぶ

      カーテンがつくる影絵や 日脚伸ぶ

      足の爪を切るに難儀す 日脚伸ぶ 

昨日も妻のお伴をして買い物に出かけたが、温かい日差しがありがたかった。
我マンションの前に、地区の公民館があるが最近は度々麻雀会が催されている。
そこで口をついて出たのが

      公民館は老人マージャン会 日脚伸ぶ

誠にお粗末な句ばかりだが、歳時記をめくり、季節を感じながら作る駄句が山となりつつある。

      

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■ピロリ菌退治

2025-01-20 21:24:33 | ご挨拶

 昨日は私めの誕生日で83歳に相成りましたが、ここ一週間ばかり胃が痛んで仕方ありません。
薬はあと四日分ほど余裕があるのですが、胃の薬を貰おうと病院に出かけました。ピロリ菌の有無を調べるための検体(便)持参です。
ピロリの検査と共に、尿と血液検査などもしてもらい、結果をきくと、まぎれもなくピロリ菌を養っていました。
      ボノサップパック800の基本情報(作用・副作用・飲み合わせ ...
 こんな薬を一日朝夕6錠づつ一週間続けます。一番左の薬は胃の薬、ほかの5錠がピロリ退治の薬です。
現在ものほかに血糖や血圧の薬を朝4錠、夕方2錠飲んでいますから、薬を飲むのが一仕事です。
そうそうにピロリ退治をして、安心したいものです。

 せっかくの誕生日ですから、ワインでも買って一人楽しもうと考えていましたが、余りの胃痛の激しさにそれどころではありませんでした。
酒が楽しめる身体にもどして、余生を楽しみたいと思っています。

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■乃美主水・小篠次太夫のもめ事と、その顛末

2025-01-20 08:12:00 | ご挨拶

 寛永五年の正月廿日の奉行所日帳の記事に、乃美主水と小篠次太夫との人の「出入」(争いごと)についての記述がある。
乃美主水は、毛利家重臣・浦兵部允宗勝(武家家伝-浦氏)の男子である。
  乃美主水・景嘉 
         (大阪御陳)手ニ合候者---七月朔日御饗応、御褒美被下候
         銀子廿枚 鑓ハ不合、首ニ討取、生捕壱人、此外内之者首三討取 (綿考輯録・巻十九)

         三斎様御付中津ニ相詰候衆 千五百石 米田助右衛門是政(二代)婿 (於豊前小倉御侍帳)
一方、小篠(おざさ)次太夫は、大江広元の後胤で、丹後以来の家であり当時は奉行職を勤めている。転び切支丹だったとも伝えられる。詳細不明。

 事は、乃美主水の下人・小左衛門が小篠次太夫の許へ奉公替えをすることに端を発している。乃美は快く了解をしたらしい。
しかし小篠の方からはこのことに付、特別の挨拶がない。この出入について扱いを一任されたのは、坂崎道雲・志水伯耆・小谷又右衛門などである。
奉行からであろうか、坂崎道雲に尋ねたところ、三人の衆が小篠を同道して、乃美主水の許へ出かけてようとしたが、いろいろの理由で延引した。
しばらくして小篠は乃美宅へ出かけてはいるが、この件に対する「礼」としての発言はしていない。「無言」という表現が面白い。
小篠はこれをもって、事は済んだと理解している一方、乃美方では「礼」としての発言があってないと理解している。
双方に食い違いが生じているが、二月に入り事は意外な方向に展開する。
  

                      ■寛永五年正月廿日・日帳 
                   (大脱)                  (成定)  (元五)
忠利乃美景嘉ト小 |一、乃美主水・小篠次夫と人ノ出入あつかい被申候衆、坂崎道雲・志水伯耆・小谷又右衛門、此三人
篠次大夫トノ人ノ |                    (成政)      清左衛門の養父
出入ヲ聞カシム  |  にて御座候由ニ付、落着之様子を、坂崎清左衛門を以、道雲ニたつね可申 御意ニ御座候間、則
         |  清左衛門にたつね申候処ニ、道雲被申候ハ、あつかい調申候後、主水かたへ、あつかいノ衆次
         |  大夫を同道仕候て、礼ニ参候筈ニ御座候処ニ、いろ/\と候て延引仕不参候、此儀ニ付而主水・
無言       |  次大夫無言にて御座候つれ共、あつかいノ後、久敷間御座候而、主水方へ次大夫礼とハ不申参
         |  候へ共、主水ハ見廻と相心得、人出入済たる故ニ、次大夫礼ノ心得にて被参たるとハ、主水不存
         |  様子ノ由、道雲被申候由、清左衛門被申也、

乃美小篠人ノ出入 |一、乃美主水・小篠次大夫人ノ出入之儀を、坂崎道雲あつかい人ノ内にて御座候ニ付而、其節之様子
ニツキ扱人坂崎道 |  を道雲ニたつね可申旨 御意ニ付、道雲を御城へよひ候て、相たつね申候処ニ、道雲申様之
雲ノ口上     |  事、
         |          (志水元五)
 乃美景嘉ニ家来 |  一、主水所へ道雲・伯耆・小谷又右衛門、此三人参候て、彼内ノものゝ儀、次大夫所ニ其まゝ置候
 ヲ小篠次大夫家 |    様ニと主水へ申候へ共、合点不仕候つれ共、色々ニ理を申候て、ついニは主水を申ふせ、合
 来トスルヲ認メ |    点ノ上ニ而、あつかい之衆申様ニ、近比満足仕候、此上ハ、則次大夫を同道仕候て、礼ニ可参
 シム      |    候と申候ヘハ、其時主水申様ニ、 礼ニも不及候、各三人御あつかいにて候からハ、次大夫不被
         |    参候とても不苦候由、主水申候、其時あつかいの衆申様ニ、其分ニも可仕候、とかく次大夫可
 次大夫礼ニ不参 |    候様ニと、次大夫ニ申候、然ニ中/\礼ニ参間敷候、此中主水不聞儀を申候間、礼ニ参間敷と
         |    申候、其時あつかい候衆申様ニ、それハ不届儀ニ候、主水手前をいろ/\申かねへ候ニ、次大夫
         |    申分一円不聞候通申候ヘハ、其時次大夫申様ニ、然は可参と申候つれ共、同道仕候て主水かた
 小篠ニ礼ニ行ク |    へ可参を、何かと打通、不参候、又あつかいノ衆同道不仕候共、いつれにて成共、主水ニ被相
 ヲ命ズ     |    候て一礼被申可然と、次大夫ニ申渡候、久敷ま御座候て、主水・次大夫は此儀ニ付、無言ニて
 相互ニ無言   |    御座候つれ共、小倉ニ而も、主水かたへ次大夫参候、内ノもの出入相済申候礼と申候てハ不参
         |    候、下心ニハ無言之上ニ参候ハ礼と次大夫存候て参候、又中津にても参たる由、次大夫申之
         |    由、道雲被申候事、
         |                次大夫礼之儀
 挨拶ヲ三年待ツ |  一、主水申様ニ、彼出入之儀、〇三年相まち候へとも、埒明不申候間、言上可仕之由被申候間、尤
         |    ニ而ハ候へ共、先言上を被待候へ、礼ニ参候儀可相済候、江戸ニ次大夫有之事ニ候間、江戸へ
         |                        其内次大夫下り被申候ハヽ、同道可仕と、
         |    申遣候て、次大夫状ヲ取候て成共可進之候、〇状ニ而主水へ申遣由、道雲被申候、右之段々
         |    を申上候ヘハ被 聞召候、道雲をハ戻し候へと、 御意にて御座候間、則 御意之段を申渡候
         |    て、道雲を御城ゟ戻し申候也、

 二月九日の日帳によると、小篠次太夫は奉公替えで受け入れた下人に「暇=いとま」を出し、宿(次太夫家の長屋か)を出るように促している。
ところがこの下人・小左衛門が切腹してしまったのである。
かっての主人と新しい主人の間で、自分のことで「出入」があり、それが原因と思われる「雇止め」が行われたのである。
小左衛門の心中は計り知れないが、死を選んだ。
事は役所に届けられ、忠利にも伝えられ「御構なき旨仰出され候」とあるから、当事者たちには何のお構いもなかったということである。
小篠次太夫に、乃美主水に対し一言の「礼の言葉」があって居れば、小左衛門も死を選ばずに済んだのかもしれない。
下人たちは主人たちの間でもてあそばれ、不幸な死を迎えた。

       ■寛永五年二月九日・日帳

小篠ト乃美トノ人 |一、小谷忠二郎・熊谷九郎兵衛被申候ハ、小篠次太夫と乃美主水人之出入ニ付而、次太夫いとまを遣
ノ出入一件    |     (小左衛門)
小左衛門暇ヲ出サ |  被申候もの、此中やとをもかへ候へと、申付候処ニ、日からあしき由申、今日、やとをかへ可申と
レ切腹      |  内々申候、然処ニ、今朝ほの/\あけニ切腹仕候、かの女房見付候て、こへをたて申ニ付、見付、
         |                       (息)  
         |  忠二郎・九郎兵衛両人も参見申候、それ迄ハ少いき御座候へ共、そのまゝおち入申候、則式ア殿
         |                                       (友好)
ソノ後ノ処置   |  へ参、此段申候へとも、御奉行衆へ可申通妃仰ニ付、如此之由被申候間、当番松井宇右衛門尉ニ
         |  申、与之衆両人被仰付、かの切腹仕候者書置なとも可有之候間、左様之儀、其外妃相改候ハヽ、
         |  其上を以、立 御耳可申候間、御与之衆被仰付候ヘと、申渡し候事、

乃美ト小篠人ノ出 |一、乃美主水・小篠次太夫人ノ出入在之小左衛門と申もの、今朝未明ニ切腹仕ニ付、其段書付を以申
入一件  小左衛 |  上候処、無御構旨被仰出候事、則書付ハ得 御諚相済との袋ニ入置候也、
門切腹構ナシ   |
得御諚相済トノ袋 |

 

 

 

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■甲斐青泙「託麻原戦之図」

2025-01-19 07:42:22 | ご挨拶

 「平成肥後国誌」の編著者・高田泰史先生から、先生の「肥後武将の源流」という著書をご恵贈給わったことがある。
すごい乱丁の本で、数ページ印刷が飛んでいて白紙のみとなっている。
先生は該当ページをこぴーされて、ハサミで切ってこれを糊付けされた。残部がないからとそんな本を頂戴したのである。
もう10数年以上前のことだが、そんな本だからこそ私には貴重この上ない財産になっている。
後に熊本史談会の若い友人・N君が古書籍店に在りましたからといって、本来の体裁の本を手に入れてくれたから、私はこの本を二冊所蔵している。

 表紙には甲斐青泙の勇ましい「託麻原戦之図」が利用されている。
この絵そのものを高田家で所蔵しておられたようだ。高田先生が亡くなられた後、N君は膨大な遺品の整理をかって出て、高田家のご遺族の力に成った。
その後この絵は古書籍店に売り払われたようで、それをN君が見つだし、なんとそれを購入したのである。
昨日の史談会にN君がこれを持ち込んで、会場でお披露目した。良成親王・菊池氏 VS 今川了俊の戦が繰り広げられた「託麻ヶ原」は、まさに私が住んでいる地域であるから、少々の感慨もある。

                                             

 N君が高田先生の最後の弟子を自認して共にすごした数年間は濃密なもので、今は先生の遺蹟の顕彰を一人黙々と続けている。
「託麻原戦之図」も、とても人の手にわたるのは耐えられないことであったのだろう。
共に高田先生の薫陶を受けた者として、彼の積極的な行動に感じ入っている。感謝。

      

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■文字散策4-「齋」と「齊」

2025-01-18 07:34:51 | オークション

 歴史のことなど深い知見もないままに始めた我がサイト、当初の頃はこの「齋」と「齊」の字の区別もままならず、お叱りのご指摘を受けたことも懐かしい思い出である。
「齋=斎」は「忌み」であるが、細川家における藤孝公の「幽齋」、忠興公の「三齋」の「齋」は 、「心身を清めて 神に仕ること。」と考える。
幽齋公の残された文書で「幽齋」と記名されたものは多く無く思われ「玄旨」が多いように思うが・・
さて、現在ヤフオクで三斎公の著名と花押の「断簡」が出品されている。つまり、ある文書からこの部分を切り取ったものである。
「模写」とあるのは、案文であることをうかがわせるが、それにしても内容が失われて痛々しい。

【模写】委託HK◇時代 細川三斎書状花押断簡(未装)(掛軸 掛物 茶掛 表具 揮毫 手紙 消息 花押 武将 大名 細川忠興 茶の湯 利休七哲 )


                  


「齊(斉)」の字は、細川家の10代・11代・12代の三代が、将軍家齊から御名を頂戴して齊茲・齊樹・齊護を名乗った。
一斉とか斉唱などの言葉から察せられるように、「凹凸がなく等しく揃っている。調っている。」の意である。

                                                            

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