細川家関係において歴史上奇妙とも思える事件がいろいろ存在するが、これは中々その真実迄到達できないのが常である。
細川内膳家の四代・忠孝は、享保三年(1718)~元文四年(1738)迄の21年間「押籠」にあったという記録がある。
「押籠」とはただならぬ事件だと思われるが、先述の如く詳細については判らない。
今日「一月十四日」をブログ内検索を懸けたところ、内膳家の家譜にたどり着いた。
これは忠孝が41・2歳の頃の話であるが、自らは隠居し、息忠英(時習館惣教)に家督した記録である。
今日の日附の記録が次のようにあった。文中忠重とあるが、忠孝の事である。
「宝永五年三月到仕、隠居料千石、号愚隱、元文四年五月十七日歿(63)、洞厳院休軒愚隱日請、室・長岡左門興知女」
一宝永五年(1708)正月十四日旅御家老三宅藤
兵衛殿被成御呼忠重公御手之病強ク惣躰
御気色不被勝候二付御隠居被成度被思召
候段御家老中江申談早々達 御聞候
様ニと被 仰聞候依之藤兵衛殿刻御家老
中江被及■■一刻も早ク被仰候事故
綱利公御在江戸ニ而被成御座候得とも右之
趣被申上候処同三月十四日月番之御家老
有吉四郎右衛門殿同役松井求馬殿大御目
附岩間弥右衛門殿御屋敷江参上被致従
綱利公仰之趣を被相述御隠居相済
忠雄公様 此時十歳被為成候 御家督国中一番之上
座諸事御格之通御相続有之忠雄公
此時迄ハ次郎太郎様与申候一ト通之御礼者
忠重公御不快故小笠原備前殿を以月番
御家老衆江被仰達江戸江ハ御礼として
大久保角左衛門を御使者ニ被差上品々御進
上有之候大久保角左衛門江ハ従 御本家様より
白銀被為拝領候忠重公早速御剃髪被成候
欠
而奉称(愚)隠様与
一、右御隠居之御達被成置候二付 次郎太郎
様御家督被成候ハゝ御幼年之御事ニ付諸
事何のも御成長まで相慎御本家集様
江此方御家来より無礼等不仕様相心得可
申旨被仰出候依之途中時宜相等之儀も
御用番御家老衆江被仰入候而御席ニ
御聞ニも達被置候様被仰入候依之入念左之
通相心得候様被仰付候
本家士中ニ對し我等者共無礼無く様
相心得以来左之通可心得候有吉四郎右衛門
江■等直ニ申聞置候入念事之由申候
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