鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

小泉君への助言・1

2005年06月20日 | 「考える宗教」へ

~~(カテゴリーが多くなってきましたので、「小泉君への助言、1~3」を『「考える宗教」へ』のカテゴリーに移しました)~~


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 チャペルで世的な話はよくないのですが、小泉首相の靖国政策にあまりに宗教的純朴が目立ちますので、日本のために少し語ってみます。またすぐに、本来の霊的な話にもどります。

<「水に流す」は日本だけの倫理>

 何から書いたらいいか。たくさんありますから。
 「罪を憎んで人を憎まず、というのは(中国の)孔子の言葉ではないか!」という小泉君の国会発言からいきましょうか。

 結論から言って、こういう発言は当人の宗教社会学的純朴さを披露するのみで、中国だけでなく、米国だってあきれかえるものです。

 人間というのは、間違いを犯すしかないような存在です。唯一の方法は、過去の経験(歴史)という経験素材になっているものを何とか用いて、失敗を繰り返さない、というもののみです。これは人類が身につけてきた歴史的知恵です。

 そのために、過去において国際的に、間違いだった、という大きな事件はそのまま記憶に留めることが必要です。その際、その事件を引き起こした主体(犯人)は、記憶のために必須なのです。

 人間の認知構造上、シンボリズム上、これはいるのです。国際的な出来事に限らず、「水に流す」という倫理は日本以外の国にはありません。

<サタンは憎み続けます!>

 米国もこれについては同じです。詳しくは『聖書の論理が世界を動かす』(新潮選書)の「なぜ真珠湾を忘れないか」という章(8章)に書きましたが、たとえば、パールハーバー。こういう宣戦布告なしの、突然の不意討ちは、いけないのです。事務的なミスで通達が少し送れた、という言い訳もあります。そういう小細工的ないいわけを伴わせてやるのは、なおいけないのです。

 で、これは、周期的に「パールハーバー記念式典」を行って、決して風化させない、ということになります。日本人は、この季節ごとに気持ちが重くなりますが、米国はやり続けます。

 では、その際、事件を行った主体である日本人を許していないのか、というと、そうではありません。ここは、米国独特の思想がはたらいて、結論は「日本人そのものは許している」となります。

 米国では、究極の犯人はサタンということになるのです。だから「サタン憎んで人を憎まず」にはなります。日本人そのものは許している。しかし、サタンが活動して、こういう事件につながるような意志決定に、人民・指導者を誘導したサタンは決して許してはならない、という論理です。

 これを屁理屈ととる向きは、米国社会の意識構造を知らない人です。日本人にはサタンは架空の存在でしょうが、米国では、明確に実在する主体・意識体です。だから、はっきりとした実在感をもって、憎んでいるのです。

 式典で「創造主よ、このようなことが二度と起こされないように、我々を守ってください」という祈りが出るのは、その関連なのです。

<五人組事件>

 ところが、中国ではその種の実在感を与えてくれる理念上の存在はありません。そこで、当事者である日本人を憎まざるを得ません。だけど、民族全員を悪としたのでは、その後の国際社会の建設ができません。

 そこで、それを主導した指導者たちが悪いのであって、人民はそれに引きずられただけ、という理解をします。これは中国の知恵に根ざしたやり方なのです。

 「五人組事件」というのをご記憶でしょうか。林彪や江青たちが、毛沢東体制を打破しようとした戦後の革命事件です。国家体制を回天させるようなもくろみが、5人で出来るわけがありません。沢山の同調者、仕掛け人、フォロワーがいたのです。

 けれども、時の政府は、彼等の罪は問わなかった。指導者の5人だけを罪人として、裁き、後は現体制の国家建設活動に協力させていきました。

 指導者に対して、シンボリックに「五人組」という名称を与えたことが、それを絵のように示しています。

<反日暴動の処理も同じ>

 新しいところでは、最近の反日暴動への対処がありますね。
 上記の理由で中国国民の怒りはわかるのです。ですから、政府はやらせました。しかし、そのままでは、国際社会における国家運営ができません。そこで、暴動の写真をしらべて、顕著な暴動者を幾人か捕らえた。彼等をテレビに出し、謝罪させ、他の暴動者を全て許しました。

 これも「五人組」方式そのものです。五人くらいには悪者になってもらって、暴動してものを壊すのは悪いことだ、という認識は明示・安定化します。そして、人民は許しましたね。

<仇に対するに徳をもってす>

記憶のずれがあったら指摘して欲しいのですが、60年前に、日本の敗戦が確定的になったとき、時の中国の統治者と国際的に認知されていたのは、蒋介石でした。その統治者が「日本に対して賠償を求めない」、と宣言しました。

 その時でた言葉がたしか「仇(?)にもってするに徳をもって対する」といったようなものでした。儒教の教えにある言葉ではないでしょうか。

 つまり、こういって、まず、日本民族は即座に許したのです。しかし、日本帝国の指導者たちはやはり裁かれるべき悪者でした。日本人民は、彼等に引きずられて罪を犯したに過ぎないので、究極的には悪者ではない。だから、徳でもって許すという。五人組と同じ論理です。

 だがその五人組は必要なのです。それが東京裁判で処刑されたA級戦犯です。こういう存在は必要なのです。今中国は、日本の諸君よ、そういう存在を持つと言うことが、過去やらかしたことを風化させないために必須なんだよ、と言っているのです。A級戦犯さんたちに、これになってもらいなさい、といっているのです。

<長年の歴史に根ざした知恵>

 これは、中国4千年の歴史に根ざした知恵なのです。そうしないと、異民族国家も含めた国際社会は統治できないのです。

 それにたいして、「もうみんな許したらどうなの? 罪を憎んで人を憎まず、というじゃないの」と小泉君はやらかした。びっくりするなあ・・もう・・・。

 考えてみてください。罪を憎んで人を憎まず、というのは、個人レベルでは、時には民間で成立する論理かもしれませせん。だけど、国家規模でやらかした国際的事件にかんして、「人を憎まずだから、もう、指導者もみんな許しなさい」といってたら、国際社会の統治は出来ないですよ。そもそも「裁き」というのが成り立たなくなってしまうではありませんか。


コメント
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