前回に論じてきました人間の認識構造と実体に関する理屈は、
聖句を把握していくときの鍵になります。そ
こで、改めて別の言い方でもってここにまとめておきましょう。
この認識論は、簡明に示すと次のようになります。
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「信号」 → 「イメージ(断片の)セット」 → 「霊的実体(霊)」
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すなわち、俳句の言葉にせよ、聖句にせよ、
それらは人間にとってはまず、言葉という一つの信号です。
信号には他にもあって、絵画、彫刻、建築など造形物もそうです。
音楽もまた信号です。
我々がそれを受信すると、イメージ断片が意識に形成されます。
それら断片の一組がイメージセットとなってわれわれの心に
「意味ある意識」を形成します。
ただしこれは、脳神経系に形成される意識です。
人間の心には、もう一つの意識(体)が生成(醸成)することがあります。
それが実体意識です。
この意識がある時、我々の心には一つの「実体」そのものが生成しています。
その実体は、一つの全体的雰囲気として(オーラといってもいいかもしれない)
自覚されます。
哲学者ベルグソンは、実体(実在)は雰囲気として認識される、と言っています。
示唆的な言葉ですが、何を示唆するか?
「明確な輪郭をもった実体が、認識されるときには雰囲気として認識される、
ということではない」と鹿嶋は考えます。
そうではなく「明確な輪郭をもった存在も、その本質は雰囲気という気ではないか」
だと思うのです。
実体は本質的に雰囲気として存在するもの、というのは聖書の論理に沿っています。
その雰囲気が聖書での「霊」に当たるのです。
そして霊が雰囲気であるのなら、それが雰囲気としてのみ認識されるのは自然なこと、となります。
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=聖句=
「わたしの言葉は霊であり、またいのちです」(ヨハネによる福音書、6章63節)
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は、その認識論のなかで把握しておかねばなりません。
この場合、信号は言葉です。その信号~
「私(イエス)の言葉は霊であり、またいのちです」
~は一定のイメージ断片を形成します。
「イエス」「言葉」「霊」「いのち」~それらは論理的にはつながらない。
だけどそれぞれがイメージ断片を形成します。
そしてそれらは集合してイメージセットになって、ひとつの意識を形成します。
だが、それだけではまだ「霊」は生成しておりません。
このイメージセットを契機にして一つの全体的な雰囲気が心の底から
立ち上ってきたとき、その雰囲気が実体としての霊なのです。
そしてそれが実体感覚を形成してくれるのです。
その雰囲気とは何か。
それはイエスです。
それが実体としてのイエスなのです。
イエスの言葉を契機にして、われわれの心には
霊(雰囲気)としてのイエスが醸成されるのです。
幻想ではない。
それは実在としてのイエスの実体、イエスの霊です。
それが我々人間の心の中に生成しうるのです。
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考えてみましょう。
たとえば、「イエスを信じる」と言いますね。
けれど、イエスの姿は、もう地上にありません。
顔も、髪形もありません(不思議なことに、聖書にはイエスの外観を記述した言葉は一つもありません)。
今の私たちにとって、信じる対象としてのイエスというのは、何でしょうか。
信じるからには、実在としてのイエスを感知したいですよね。
感知できなかったら信じよと言うのは無理ですよね。
では、その「感知できる実体」としてのイエスとはどんなものでしょうか。
それがいま述べてきた「霊イエス」なのです。
我々はそれを心に醸成し、感知することができるのです。
そうして実体感覚を得ることができるのです。
それを感触しての「信じる(信頼する)」ならしっかりした信頼意識になるでしょう。
次回にはそれを、さらに具体的に考えてみましょう。