前回、イエス信頼の基盤になるのは霊(雰囲気)としてのイエスの実体であって、
これを心に生成させることが肝要と申しました。
ただし、実体の生成にはその契機が必要です。
その契機になるのはイエスの姿を描写する造形物でもない。
音楽でもありません。
(音楽などは実体感覚を生成さす助成要因になります)
聖書ではそれはイエスの口から出た言葉です。
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聖書にはイエスの言葉がたくさん記録されています。
原理的にはそのどれであっても、イエスの雰囲気実体を
心に醸成させる契機になります。
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「右の頬を打たれたら、左を差し出せ」でも
「互いに愛し合いなさい」でも
「隣人を自分と同じように愛しなさい」でも
「まずあなたの創造主を心を込めて愛しなさい」でも
「求めなさい、さすれば与えられます」でも
「わたしはよみがえりです、いのちです」でもいい。
自分をむち打ち、十字架に釘付けし、十字架を立て上げ、あざけり、
自分の着ていた着物の所有権の行く先を、さいころ振って決めている
兵士たちに関して祈ったイエスの言葉~
「父よ彼らを許してください。彼らは自分が何をしているのかわからないのです」
~でもいい。
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なんでもいいです。どれを契機にしても、じっくり待てばイエスに
近似的な実体が心に醸成されてきます。
だが実際には、それらを組み合わせた複合的なイメージセットであれば、
実体(霊)感覚は格段に生成しやすくなります。
そこで我々は多くのイエスの言葉を心に収めることになります。
が、ともあれ言葉が契機となって、実体が生じるには「間(ま)」が必要です。
これによって実体感が醸成されてきます。
そして、一旦生成したら、手応えをもってイエスを信頼することができます。
生成した実体(霊)であるイエスと交信することもできます。
これが信仰(信頼)の核心です。
かくのごとく聖句は、実体感覚が得られるまで、
じっくり吟味し味わうことを必要とする言葉でもあります。
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<道徳・教訓・人生の知恵キリスト教>
この認識論は、日本的キリスト教が生成する構造をも明かしてくれます。
我が国では、道徳キリスト教、教訓キリスト教、人生の知恵キリスト教
などが頻発してきました。
これらは、言葉が形成するイメージセットから「原理原則」や「教訓」を
抽出したりそこから演繹したりします。
そしてそれを究極の教えと思いこみます。
こうしたことは、雰囲気実体が心に生成する前に、イエス(の教え)を
知ったと思いこむことによって生じるのです。
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たとえば~~
「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」から
「人間には自己犠牲の精神が必要」とか
「愛と奉仕の精神が必要」とかいう道徳訓をとりだします。
そして、それに自分の行動を沿わせることが信仰だと考えてしまいます。
ところがそれをすることによって人はどんどん萎縮していきます。
だって、この道徳律でもっていつも自分を裁くことになるのですから。
(もちろんそれで人をも裁くことになります)
さらに、それをできないことが「罪」だと解してしまう。
その感覚で「神様、私たちは罪人です・・」なんて祈ってる姿を
礼拝でよくみかけます。
こういう人は、祈っていてどんどん創造主から身を引いて遠ざかっていきます。
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「求めよ、さらば与えられん」から、「何事もあきらめてはならない」とか
「事をなす前には強く願望することが必要」とかいった人生訓をとりだす。
これも同じです。
こうして現世目標の達成に至る心が信仰だと思う。
こちらはまあ比較的明るいのですが、やはりこれができなければ、
「罪人(つみびと)」ということになるでしょう。
こちらの方向に進むと「宗教は人を萎縮させる」とか、
「狂わせる」とかいわれる事態になります。
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でも、人間はこういう方向に行きやすいです。
こういう動向に対して、最近、周期的に言われるようになった
米国発の言葉があります。
「キリスト教は教訓ではない。道徳でもない。処世の知恵でもない」と。
それは「イエスキリストとの個人的な交わりである」と。
このイエスとの「個人的な交わり」ができるためには、
イエスという実体が心に生成していることが必要です。
それで初めて交わりが可能になるのですね。
かくのごとくイエスの実体(霊)感覚は決定的な役割を果たすのであります。
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