イエスの遺言は続きます。
先回、イエスは「(自分がいなくなっても、将来)聖霊を送る」と約束しました。
聖霊が、全てを悟らせてくれるよ、忘れたイエスの言葉も思い起こさせてくれるよ、と約束しました。
現に、そうなれば、弟子たちは、もう何も恐れなくなるでしょう。
しかし、実際に聖霊が送られてくるには、この最後の晩餐の時点からすると、まだ間があります。
その間、弟子たちは(聖霊を受けていませんので)事態の急転に翻弄されるでしょう。
心は動転し、次に起きるであろうことにおびえ恐れるでしょう。この時間をどうしたらいいんだ!
ところが、イエスは、それにも手を打っておくというのです。
それを弟子たちに約束するところが本日の聖句です。

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=聖句=

これは世が与えるような平安ではありません。心配も動転もしないように。
恐れないように」(26節)

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イエスは自分の心の中には、平安があるといいます。
この場合の平安は、一つの意識体だと考えてもいいでしょう。平安の意識をもった意識体です。
それがイエスの中にある。だから、これから受ける苦痛、侮辱、拷問、死が見えていながら、
イエスは平安な心で弟子に遺言していられるのでしょう。

<世の平安、天の平安>
イエスはこの平安の意識体は自分特有のものだといいます。
この世で人々の心に中に形成しうる平安の意識とは違うんだよ、といいます。
世の平安は、状況が予想を超えて進展したら崩れます。人々は動転します。
だが、イエスが与えようとしているのはそれを超越したものなのです。
体験しなければわからないけれどもそういうものだから、安心していていいよ、という。
それは「天の創主王国にある平安」で、創主の意識にある平安です。
イエスを信頼する人々が、将来点の創主王国に住むとき、味わうことになる平安です。
だからイエスは、「世が与えるものとは違うよ」、といっているのです。

<「天国の平安」の波動>
この意識体は具体的にはなんでしょうね。
考えられる一つは、聖霊の与えるものです。
聖霊は天からの慰めを与え、心に平安を形成してしまう「天の平安形成主」でもあります。
そしてイエスはバプテスマのヨハネからバプテスマを受けたとき、聖霊を受けています。
だからその聖霊がイエスの心に形成している平安を残しておく、というような解読です。
考えられるもう一つは、天使です。天使が弟子たちの心に「天の平安の波動」を送るという状況です。
いずれにせよ、拷問と死を前にしても、弟子たちを思って淡々と遺言できるような平安が与えられたら、
弟子たちの心は、嘘のように鎮まってしまうでしょう。

<どこまで優しいの・・・>
ですからイエスは言うわけです~~これから事態は激変する。
しかし、心を動転さす必要ないよ、恐れる必要もないよ。
そのとき諸君の心は、不思議なほど平安なままでいるからね。
春平太は、この聖句に触れるとき、いつも感動を受けます。
特に、"Peace I give on to you" という英訳の聖句からは、
なぜか驚嘆と共に深い感動を受けます。
・・・そこまで残される弟子たちに配慮するのか・・・と胸を打たれます。
イエスのこの姿に触れるとき、人間も志高く持って生きられそうだ、という勇気を与えられます。
