(イラストは、聖書の空間理念を図示したもの)
イエスの遺言は続きます。
前回にはイエスは、弟子の心理に焦点を当てて語っていました。
今回は、イエス自身について弟子たちに語ります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「『私は去っていきますが、また諸君のところに帰ってきますよ』~と私が言った言葉を諸君は聞いたよね。
もし諸君が私を愛してくれるなら、私が父のもとに行くのを喜んでくれるはずだよ。
父は私より偉大だから」(ヨハネによる福音書、14章28節)![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kirakira.gif)
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cherry_blue.gif)
ここでイエスは「もし諸君が私を愛しているのなら、私が諸君のもとを去って父の元に行くのを、喜ぶはずだよ」
~~といっています。そしてそれに続いて
「父は私より偉大だからだ」~~といっています。
どうして自分より偉大な父の元にいた方が、イエスはいいのでしょうか?
まず、父なる創造主がイエスより偉大であるという聖書の論理を理解し再確認しましょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kame.gif)
「父、子、聖霊は三位一体」という言葉があります。三者は「三つにして同一の存在」、という意味です。
これからしたら、父(万物の創造主)、子(イエス)、聖霊の間には偉大さの差はない、と想像されます。
だが、これはまあザッと言えばそうだと言うことでありまして、詳細にはそうではないのです。
例えば、イエスは全知全能と言いますが、詳細にはそうではありません。
7年間の大艱難はいつこの地上にやってくるかを彼は知りません。
「それは父だけが知る」とイエス自身が言っています。イエスにも知ることのできないことがあるのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_fuku.gif)
そもそも三位一体という言葉を、聖書に見たことは春平太にはありません。
どうもこれは神学用語らしいです。
神学というのは、聖書における論理的な筋道を見つけていく学問であります。
そういういわば知性的な作業には、聖句そのものの持つ多様で膨大な意味合いを
すべては汲み取らないという、根底的な性格があります。
まず最初に聖書の総体から若干の大枠を引き出し、
次にそれらの大枠に合致しないものはすべて総体から排除する。
これが神学作業の本質です。(だから、論理的な理解がしやすいのです)
三位一体という概念に大ざっぱなところがあるというのは、これはもう自然なことなのです。
(だからなるべく早く、聖書そのものに移り、知性・論理力だけでなく
感性・霊感も働かせて読むのが大切なのです)
が、ともあれ、そんなわけで、父なる創造主はイエスより偉大な存在です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_face.gif)
<父のもとの方が幸福>
次に~「もし諸君が私を愛しているのなら、私が諸君のもとを去って
父の元に行くのを、喜ぶはずだよ」~を解読しましょう。
「諸君は喜んでくれるはず」ということは、イエスは父なる創造主のもとにいた方が、
この地上にいるより幸福だ、ということでしょうね。
どうしてでしょうか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ichigo.gif)
<創造主の王国>
まず「父のもと」、とはどこか?
これは天の創主王国、いわゆる「天国」です。
これと地球上の世界との空間的な位置関係を、これまで幾度も提示してきた図で確かめましょう。
天国は、宇宙の何百倍、何千倍と広大な空間ですが、それは被造界であって有限な世界です。
無限の大きさを持った創造主は、そこに入れない道理になります。
だが、そこには、父の名がおかれているという。そして、そこでは父なる創造主のルールが貫徹しています。
そういう世界ですから、父のもと、といってもいいわけです。イエスはそこに行く、といっているのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/nezumi.gif)
<世はイエスを苦しめるところ>
他方、この世は、といえば、それは図で宇宙として示されている空間です。
そこは、基本的に悪魔のルールが貫徹するところです。
(この後の、30節で言われますが、悪魔は「世の君(君主)」なのです)
イエスは、今、そういう世にきているのです。
そこで、天のルールが通用する空間(これすなわち本質的には「天国」です)を、
「しるし」を連発しながら次々に作っていきます。
イエスがしるしを現して「天国がここにある」というのも、
それ以前に、バプテスマのヨハネが「悔い改めよ、天国が近づいた」と、
間近に迫ったイエスの活躍を預言するのも、それにつながっています。
イエスが「この地上」でそのように活躍するのは、我々からしたら痛快にみえるかもしれません。
が、イエスにとっては天国にいるのに比べたら、そうでもないのです。
なによりも、そういう働きをしている間にも、世は、イエスを理解しません。
誤解ばかりで軽蔑し、罵倒し、傷つけます。
これは、創造主の子としては、快適でないどころか大変つらいことでもあるのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_uru.gif)
<使命はあるが>
もちろんイエスは、なすべき使命を持ってこの世にきています。
自らは罪なき存在でありながら、人間と同じ罪人の状況に置かれ、
それでもって、人類の罪の代償を行うという使命です。
アダムから始まっているその罪を人間に代わって償うのです。
そのために、世に来ている存在です。
そして、それを成し遂げていくのですが、使命がどうあれ、
それは極限の苦しみを経験する厳しい仕事ですよ。
「自己実現に成功したら至高体験が得られる」などというのは、
被造物たる人間世界における軽い努力での話です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/onsen.gif)
天国では、イエスに屈辱を与える存在はいません。
みんながイエスの言葉の真意を理解しイエスに従い、賛美します。
全ての存在の内で「もっとも偉大なる創造主」の統治が行き届いている世界です。
天のルールが貫徹している世界です。
イエスが、「父は自分より偉大だから」、というのはそういう意味でしょう。
「そういう偉大な存在の統治が貫徹している世界に住むということが、
父のもとにすむことだから」ということでしょう。
そこに住んだ方が、この世に住むよりイエスには何百倍も幸せなことなのですね。
イエスへの有難うの気持が湧いてきませんか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cocktail2.gif)
イエスの遺言は続きます。
前回にはイエスは、弟子の心理に焦点を当てて語っていました。
今回は、イエス自身について弟子たちに語ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cherry_red.gif)
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=聖句=
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kirakira.gif)
もし諸君が私を愛してくれるなら、私が父のもとに行くのを喜んでくれるはずだよ。
父は私より偉大だから」(ヨハネによる福音書、14章28節)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kirakira.gif)
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cherry_blue.gif)
ここでイエスは「もし諸君が私を愛しているのなら、私が諸君のもとを去って父の元に行くのを、喜ぶはずだよ」
~~といっています。そしてそれに続いて
「父は私より偉大だからだ」~~といっています。
どうして自分より偉大な父の元にいた方が、イエスはいいのでしょうか?
まず、父なる創造主がイエスより偉大であるという聖書の論理を理解し再確認しましょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kame.gif)
「父、子、聖霊は三位一体」という言葉があります。三者は「三つにして同一の存在」、という意味です。
これからしたら、父(万物の創造主)、子(イエス)、聖霊の間には偉大さの差はない、と想像されます。
だが、これはまあザッと言えばそうだと言うことでありまして、詳細にはそうではないのです。
例えば、イエスは全知全能と言いますが、詳細にはそうではありません。
7年間の大艱難はいつこの地上にやってくるかを彼は知りません。
「それは父だけが知る」とイエス自身が言っています。イエスにも知ることのできないことがあるのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_fuku.gif)
そもそも三位一体という言葉を、聖書に見たことは春平太にはありません。
どうもこれは神学用語らしいです。
神学というのは、聖書における論理的な筋道を見つけていく学問であります。
そういういわば知性的な作業には、聖句そのものの持つ多様で膨大な意味合いを
すべては汲み取らないという、根底的な性格があります。
まず最初に聖書の総体から若干の大枠を引き出し、
次にそれらの大枠に合致しないものはすべて総体から排除する。
これが神学作業の本質です。(だから、論理的な理解がしやすいのです)
三位一体という概念に大ざっぱなところがあるというのは、これはもう自然なことなのです。
(だからなるべく早く、聖書そのものに移り、知性・論理力だけでなく
感性・霊感も働かせて読むのが大切なのです)
が、ともあれ、そんなわけで、父なる創造主はイエスより偉大な存在です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_face.gif)
<父のもとの方が幸福>
次に~「もし諸君が私を愛しているのなら、私が諸君のもとを去って
父の元に行くのを、喜ぶはずだよ」~を解読しましょう。
「諸君は喜んでくれるはず」ということは、イエスは父なる創造主のもとにいた方が、
この地上にいるより幸福だ、ということでしょうね。
どうしてでしょうか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ichigo.gif)
<創造主の王国>
まず「父のもと」、とはどこか?
これは天の創主王国、いわゆる「天国」です。
これと地球上の世界との空間的な位置関係を、これまで幾度も提示してきた図で確かめましょう。
天国は、宇宙の何百倍、何千倍と広大な空間ですが、それは被造界であって有限な世界です。
無限の大きさを持った創造主は、そこに入れない道理になります。
だが、そこには、父の名がおかれているという。そして、そこでは父なる創造主のルールが貫徹しています。
そういう世界ですから、父のもと、といってもいいわけです。イエスはそこに行く、といっているのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/nezumi.gif)
<世はイエスを苦しめるところ>
他方、この世は、といえば、それは図で宇宙として示されている空間です。
そこは、基本的に悪魔のルールが貫徹するところです。
(この後の、30節で言われますが、悪魔は「世の君(君主)」なのです)
イエスは、今、そういう世にきているのです。
そこで、天のルールが通用する空間(これすなわち本質的には「天国」です)を、
「しるし」を連発しながら次々に作っていきます。
イエスがしるしを現して「天国がここにある」というのも、
それ以前に、バプテスマのヨハネが「悔い改めよ、天国が近づいた」と、
間近に迫ったイエスの活躍を預言するのも、それにつながっています。
イエスが「この地上」でそのように活躍するのは、我々からしたら痛快にみえるかもしれません。
が、イエスにとっては天国にいるのに比べたら、そうでもないのです。
なによりも、そういう働きをしている間にも、世は、イエスを理解しません。
誤解ばかりで軽蔑し、罵倒し、傷つけます。
これは、創造主の子としては、快適でないどころか大変つらいことでもあるのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_uru.gif)
<使命はあるが>
もちろんイエスは、なすべき使命を持ってこの世にきています。
自らは罪なき存在でありながら、人間と同じ罪人の状況に置かれ、
それでもって、人類の罪の代償を行うという使命です。
アダムから始まっているその罪を人間に代わって償うのです。
そのために、世に来ている存在です。
そして、それを成し遂げていくのですが、使命がどうあれ、
それは極限の苦しみを経験する厳しい仕事ですよ。
「自己実現に成功したら至高体験が得られる」などというのは、
被造物たる人間世界における軽い努力での話です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/onsen.gif)
天国では、イエスに屈辱を与える存在はいません。
みんながイエスの言葉の真意を理解しイエスに従い、賛美します。
全ての存在の内で「もっとも偉大なる創造主」の統治が行き届いている世界です。
天のルールが貫徹している世界です。
イエスが、「父は自分より偉大だから」、というのはそういう意味でしょう。
「そういう偉大な存在の統治が貫徹している世界に住むということが、
父のもとにすむことだから」ということでしょう。
そこに住んだ方が、この世に住むよりイエスには何百倍も幸せなことなのですね。
イエスへの有難うの気持が湧いてきませんか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cocktail2.gif)