イエスの遺言の続きです。
前回、「命令を守って死ぬ」、「愛するから」というところが残りました。
ここは、少々ややこしいですが、大切なところです。
聖句は前回と同じです。
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=聖句=
「だが、この世は次のことを知らねばなりません。
すなわち、私が父(創造主)を愛しているということを。
だから私は、父が私に命じることを全て行うのです」(31節)![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kirakira.gif)
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cherry_red.gif)
一般的には「命令→服従」という関係は、聖書の思想ではいいことにはなっておりません。
これは知性以下の状況なのです。
命令というのは、「なぜ?」という問いを許さない伝達の形式だからです。
理由を考えさせない、つまり、知性の活動を許さないんですね。
ですから、この状況で服従する側に長くいると、人の知性は劣化していきます。
官僚組織など命令系統の組織が時の経過と共に機能しなくなっていくのも、それによります。
だんだんと、成員の知性が劣化していくのです。
命令に従うというのは、恐怖で持ってもすることがあります。
それは心から従っているのではありません。
これは「自由」という観点からもいいことではない、となります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_fine.gif)
<信頼ベースの命令>
でも、これは一般論です。
「命令→服従」にも命令者への信頼がベースのものもあります。
その場合には、心から自主的に従うことになります。
命令者を信頼して主体的に従っているのです。
自分より優れた存在の知識には、理解できないこともあります。
理由が知らされないこともあります。
イエスは「父(創主)は自分より偉大だ」といいました。
その彼は「大艱難がいつ来るかは父だけが知っていること」といっています。
これなどは、その一例です。
でも、それを知らせない父をイエスは信頼しています。
父だけにわかる理由でもって、自分に大艱難の時を知らせないのだ、
と安心しています。その信頼を、ここでは「愛」とイエスはいっているのです。
実際、愛は信頼を必須要素としています。
信頼のない愛はありません。
信頼するから、愛することが出来るのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kame.gif)
イエスは、「自分がこれからなすことは、父の命令に従うことによってなすのだ」といい
「それは父を愛するからだ」といっています。
この聖句は、その理由の全てがイエスには知らされていないことを示唆しています。
「そういう状態で父の命令を守るのは、父を愛し信頼するから」ということを、弟子たちに理解させようとしています。
そして、弟子たちにも、自分の宣教命令に信頼して従うことを期待しているのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/presents.gif)
今回の聖句が含意しているものはもう一つあります。
それは「父の命令を守って死ぬのは、自分が父を愛しているから」というのがその理由だということを
「この世は知らねばならない!」というイエスの言葉に秘められています。
「この世」というのは、弟子たちを超えた広い意味を持っています。
イエスが弟子たちだけではなく、「この世は」という意味はなんでしょうか。
次回に考えましょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/rain_face.gif)
前回、「命令を守って死ぬ」、「愛するから」というところが残りました。
ここは、少々ややこしいですが、大切なところです。
聖句は前回と同じです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cherry_blue.gif)
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=聖句=
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kirakira.gif)
すなわち、私が父(創造主)を愛しているということを。
だから私は、父が私に命じることを全て行うのです」(31節)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kirakira.gif)
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一般的には「命令→服従」という関係は、聖書の思想ではいいことにはなっておりません。
これは知性以下の状況なのです。
命令というのは、「なぜ?」という問いを許さない伝達の形式だからです。
理由を考えさせない、つまり、知性の活動を許さないんですね。
ですから、この状況で服従する側に長くいると、人の知性は劣化していきます。
官僚組織など命令系統の組織が時の経過と共に機能しなくなっていくのも、それによります。
だんだんと、成員の知性が劣化していくのです。
命令に従うというのは、恐怖で持ってもすることがあります。
それは心から従っているのではありません。
これは「自由」という観点からもいいことではない、となります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_fine.gif)
<信頼ベースの命令>
でも、これは一般論です。
「命令→服従」にも命令者への信頼がベースのものもあります。
その場合には、心から自主的に従うことになります。
命令者を信頼して主体的に従っているのです。
自分より優れた存在の知識には、理解できないこともあります。
理由が知らされないこともあります。
イエスは「父(創主)は自分より偉大だ」といいました。
その彼は「大艱難がいつ来るかは父だけが知っていること」といっています。
これなどは、その一例です。
でも、それを知らせない父をイエスは信頼しています。
父だけにわかる理由でもって、自分に大艱難の時を知らせないのだ、
と安心しています。その信頼を、ここでは「愛」とイエスはいっているのです。
実際、愛は信頼を必須要素としています。
信頼のない愛はありません。
信頼するから、愛することが出来るのです。
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イエスは、「自分がこれからなすことは、父の命令に従うことによってなすのだ」といい
「それは父を愛するからだ」といっています。
この聖句は、その理由の全てがイエスには知らされていないことを示唆しています。
「そういう状態で父の命令を守るのは、父を愛し信頼するから」ということを、弟子たちに理解させようとしています。
そして、弟子たちにも、自分の宣教命令に信頼して従うことを期待しているのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/presents.gif)
今回の聖句が含意しているものはもう一つあります。
それは「父の命令を守って死ぬのは、自分が父を愛しているから」というのがその理由だということを
「この世は知らねばならない!」というイエスの言葉に秘められています。
「この世」というのは、弟子たちを超えた広い意味を持っています。
イエスが弟子たちだけではなく、「この世は」という意味はなんでしょうか。
次回に考えましょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/rain_face.gif)