イエスの遺言は続きます。
今回は「父の命令を守って死ぬのは、自分が父を愛しているから」というのがその理由だということを
「この世は知らねばならない!」という、「この世は」についてです。
聖句は前回と同じです。
+++++++++++++++++++++++++++++
=聖句=
「だが、この世は次のことを知らねばなりません。
すなわち、私が父(創造主)を愛しているということを。
だから私は、父が私に命じることを全て行うのです」(31節)
+++++++++++++++++++++++++++++
イエスが弟子たちだけではなく、「この世は」というのはなぜでしょうか。
このときイエスには、今後福音が広まった時の状態がすでに見えているあるからだ、
と春平太は解しています。
これは、福音「伝道」の本質にかかわるところです。
弟子たちは、これからイエスの教えを宣教します。
でもイエスの教えは色々あります。
時間は無限にありませんから、弟子たちは具体的な場面では、
イエスに教えられたことの中からいくつかを選択して伝えるでしょう。
といっても教えの中核というのはあります。
これは確実に伝えるべき、というものはあります。
そしてそれが「イエスが十字架で死んだのは父なる創主の命令に従ったからで、
それはイエスが父なる創主を愛しているが故だ」なのです。
宣教では、これをしっかり伝えればならない。
時間がなくて話しきれないときにも、これは話さねばならない。
イエスはそういっています。
<福音が変質するとき>
実際、宣教がこれを外れたものになっていく可能性はとても大きいのです。
イエスが死んだのは、ひとえに人間を愛するため、という風になっていきやすい。
人間の自然な心情として、そうなりやすいのです。
人はイエスからとにかく「自分への愛」を感じやすい、感じたい。
そこで、宣教もこの欲求に応じるようにしたくなるのです。
出来るだけ多くの人に、福音を受け入れてもらいたいと願うが故に。
我が国では特に、その例が多いです。
「イエスはあなた(人間)を愛するが故に死んだのですよ」という説教は日本では普通です。
それを聞いて「私のために死んだのだ。ああ、この愛、この愛!」なんて、
法悦に浸っている場面も教会でよく見られます。
福音が、人間中心の人本主義に収束していくんですね。
だがイエスはそうなったらいかん、と言っているのです。
イエスも含めて全ては、無限者で父なる創造主によって統治されている。
そこではイエスにも知らされないことがあります。
そういう状況で、創造主は全てを統治しています。
イエスは、その中で、創主への信頼(愛)をもって命令通りに働いています。
こういう広大な世界イメージを提供しているのが福音です。
それを「人間を愛するがために!」と感動していると、福音の主役である、
父なる創造主が視野の外に置かれてしまいます。
福音のイメージ世界が偏狭なものになってしまうのです。
実際、日本での福音伝道のほとんどすべてが、そうなってきています。
鹿嶋が今回のような解読を示すと、逆上する人も出るんですよ。
「創造主を愛するが故に」というと「人間を愛してないといっている」という風に
受けとってしまう。
最初から、一面だけを見るもんだから、他の面をいうと、従来の面を
否定されたような気持ちになってしまうのでしょう。
そこでなはだしくは「異端だ!」と攻撃してきたりするんですよ。
鹿嶋の著書のこの部分に対して、抗議の手紙も来た。
墨で大きく書いたのも来たりしてもう大変・・・。
「自分の牧師さんもこの著者はおかしいといっているよ」とも書いてありました。
鹿嶋はこれを“ニッポンキリスト教”と呼んでいます。
イエスが人間を愛していないなんてことはありませんよ。
ないどころか十字架死する動機には人間への深い同情と愛があるのです。
けれども父なる創主への愛もある。
そして父なる創造主への愛のほうが、基底的なのです。
今回のイエスの言葉は、それを明示しています。
イエスはこの最後の晩餐の時すでに、
「将来この世は、それを視野から外して人間愛だけの、人間中心的な人本主義でもって、
わたしの十字架死を解していく」ということが見えているのです。
人間心理、人間本性を透視しているのです。
だから敢えて「この世は(私が父を愛するが故に死ぬことを)知らねばならない」
といっているのでしょう。
「世は知らねばならない」というのは、それを伝える弟子たちに、
それを「世が知るように」宣教するんだよ、といっていることです。
今回は「父の命令を守って死ぬのは、自分が父を愛しているから」というのがその理由だということを
「この世は知らねばならない!」という、「この世は」についてです。
聖句は前回と同じです。
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=聖句=
「だが、この世は次のことを知らねばなりません。
すなわち、私が父(創造主)を愛しているということを。
だから私は、父が私に命じることを全て行うのです」(31節)
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イエスが弟子たちだけではなく、「この世は」というのはなぜでしょうか。
このときイエスには、今後福音が広まった時の状態がすでに見えているあるからだ、
と春平太は解しています。
これは、福音「伝道」の本質にかかわるところです。
弟子たちは、これからイエスの教えを宣教します。
でもイエスの教えは色々あります。
時間は無限にありませんから、弟子たちは具体的な場面では、
イエスに教えられたことの中からいくつかを選択して伝えるでしょう。
といっても教えの中核というのはあります。
これは確実に伝えるべき、というものはあります。
そしてそれが「イエスが十字架で死んだのは父なる創主の命令に従ったからで、
それはイエスが父なる創主を愛しているが故だ」なのです。
宣教では、これをしっかり伝えればならない。
時間がなくて話しきれないときにも、これは話さねばならない。
イエスはそういっています。
<福音が変質するとき>
実際、宣教がこれを外れたものになっていく可能性はとても大きいのです。
イエスが死んだのは、ひとえに人間を愛するため、という風になっていきやすい。
人間の自然な心情として、そうなりやすいのです。
人はイエスからとにかく「自分への愛」を感じやすい、感じたい。
そこで、宣教もこの欲求に応じるようにしたくなるのです。
出来るだけ多くの人に、福音を受け入れてもらいたいと願うが故に。
我が国では特に、その例が多いです。
「イエスはあなた(人間)を愛するが故に死んだのですよ」という説教は日本では普通です。
それを聞いて「私のために死んだのだ。ああ、この愛、この愛!」なんて、
法悦に浸っている場面も教会でよく見られます。
福音が、人間中心の人本主義に収束していくんですね。
だがイエスはそうなったらいかん、と言っているのです。
イエスも含めて全ては、無限者で父なる創造主によって統治されている。
そこではイエスにも知らされないことがあります。
そういう状況で、創造主は全てを統治しています。
イエスは、その中で、創主への信頼(愛)をもって命令通りに働いています。
こういう広大な世界イメージを提供しているのが福音です。
それを「人間を愛するがために!」と感動していると、福音の主役である、
父なる創造主が視野の外に置かれてしまいます。
福音のイメージ世界が偏狭なものになってしまうのです。
実際、日本での福音伝道のほとんどすべてが、そうなってきています。
鹿嶋が今回のような解読を示すと、逆上する人も出るんですよ。
「創造主を愛するが故に」というと「人間を愛してないといっている」という風に
受けとってしまう。
最初から、一面だけを見るもんだから、他の面をいうと、従来の面を
否定されたような気持ちになってしまうのでしょう。
そこでなはだしくは「異端だ!」と攻撃してきたりするんですよ。
鹿嶋の著書のこの部分に対して、抗議の手紙も来た。
墨で大きく書いたのも来たりしてもう大変・・・。
「自分の牧師さんもこの著者はおかしいといっているよ」とも書いてありました。
鹿嶋はこれを“ニッポンキリスト教”と呼んでいます。
イエスが人間を愛していないなんてことはありませんよ。
ないどころか十字架死する動機には人間への深い同情と愛があるのです。
けれども父なる創主への愛もある。
そして父なる創造主への愛のほうが、基底的なのです。
今回のイエスの言葉は、それを明示しています。
イエスはこの最後の晩餐の時すでに、
「将来この世は、それを視野から外して人間愛だけの、人間中心的な人本主義でもって、
わたしの十字架死を解していく」ということが見えているのです。
人間心理、人間本性を透視しているのです。
だから敢えて「この世は(私が父を愛するが故に死ぬことを)知らねばならない」
といっているのでしょう。
「世は知らねばならない」というのは、それを伝える弟子たちに、
それを「世が知るように」宣教するんだよ、といっていることです。