「最後の晩餐」におけるイエスのインストラクションは、まだまだ続きます。
今回の聖句はこれです。
BGMは今回もmariさんのこれを感謝して使わせていただきます。
http://aiai.hukinotou.com/
(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「だけど彼ら(世の人々)はそれらのこと(迫害)を諸君に、私の名のゆえに行うんだよ」(15章21節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
前回イエスは、「弟子たちの伝道が成果を上げると、世の人々は諸君を迫害し始めるからね」
とインストラクションしました。
イエスが主人で弟子たちは従者に当たり、
「世の人々は主人の言葉を心に受け入れないから、従者の言葉をも受容しないで、迫害してくる」と教え、
弟子たちが迫害されるのは主人であるイエスの故であって、
憎まれる原因は主であるイエスにあるのだよ、と教示しました。
今回は、そのイエスを憎むさらに根源的な理由をおしえておくところです。
それは「イエスの名」にあるとイエスは教示します。
ここはとても意味深く、すべての解読を書き始めると長いものになります。
本格的な対処は第17章で行うことにして、
ここではその前段階として「名」というものに関する認識論を一般的に考えておこうと思います。
<「名」の認識上の働き>
名というものは、我々の認識上、大きな役割を果たしています。
たとえば、「金(gold)」という名詞を考えましょう。
これを聞くと我々は、その名で呼ばれる一群の物質を想像します。
「黄色の光輝ある金属で、重くて柔らかくで、延性および展性に富み、空気中でも錆びず、
普通の酸に侵されず、王水に溶ける物質」といった定義ができるような物質です。
だがわれわれは、金という名がなくても、その種の物質をある程度は認知することが出来ます。
そうした特徴を持った物質を心にイメージすることでもって、時々は認知するでしょう。
けれどもそうした様式での認知では、その内容は変動しやすく、漠然さがつきまといます。
人々相互の意思交信が不便で、認知は個人レベルに留まり、ときとともに風化もしていくでしょう。
ところがこれに、短く「金」という名を与えますと、我々の認知は明確で固定的なものとなります。
対象の全体を指す、この短い呼び名があると、人々の間での「思い」のやりとりが容易になります。
互いに吟味しあって、その定義をより包括的、論理的に改善していくことも出来ます。
金という呼び名が存在することによって、それによって認識する対象が明確で固定的なものとして浮上するのです。
<人の名も同じ>
人の名についても同じです。
2000年前に新しい福音を宣教したユダヤの若者のことを
「ナザレ出身のユダヤ人で、病人を癒したりする奇跡をたくさん行って、
意味深い教えをして、弟子を従えて宣教して・・・」という様式で、
名前なしで認知することも出来ます。
だが、その場合も、このままではその内容は流動的で、時とともに風化するでしょう。
ところがこの人の「全体を一気に思うことのできる」簡明な名が出現すると、
人々相互の間での「思い」の交信や吟味が容易になり、意味内容も改善して行かれます。
名は、或る対象の明確で固定的な認知に不可欠な存在となり、
人々は、その対象を思うのにまず名を想起するようになります。
そしてそのことが、その対象を認知することと、名を認知することとが
大きく重なっていく状況にも最終的には繋がっていきます。
それを端的に言うと、イエスを認知するというのは、その名を認知することともなる。
この方を憎むということは、その名を憎むということにもなります。
<栃木の裕次郎>
でもこの話には、次のような疑問が自然に湧きます。
つまり、「イエスが活躍した当時には、イエスという名は沢山の人に付けられていた。
イエスの名の故に迫害されるというのなら、他のイエスさんもその使用人も
みな迫害される道理になるのではないか」という疑問が。
確かに当時、イエスの名を付けられた男子は沢山いたようです。
そこでかのイエスも、始めは「ナザレのイエス」と区別して呼ばれていました。
けれども、時と共に、「ナザレの」という修飾語は要らなくなります。
かのイエスが多くの人に知られると、もう「イエス」といえば彼を指すのが通常になるからです。
それに並行して、他のイエスさんは、もうイエスだけでは通用しなくなっていきます。
鹿嶋は、こういう現象を「オーバーシャドウ効果」と呼んでいます。
+++
日本でも昭和30年代に、石原裕次郎という歌手兼映画俳優が日本全国で爆発的に有名になりました。
もちろん当時日本には、裕次郎という名を親に付けられた若者が沢山いました。
けれどもこの俳優の故に、他の裕次郎さんはもう裕次郎だけでは通用しなくなりました。
で、栃木の裕次郎とか、宇都宮の裕次郎とか、益子村の裕次郎とかいうことによってしか、
当人を指すことが出来なくなった。
石原裕次郎によってオーバーシャドウ効果を及ぼされたわけです。
<イエスと呼ばれるようになるだろう>
ルカによる福音書の1章30~31節に次の聖句があります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「すると御使いがいった。『こわがることはない。マリヤ。あなたは創造主から恵みを受けたのです。
ご覧なさい。あなたはみごもって男の子を産みます。名をイエスとつけなさい』」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここでの「名をイエスとつけなさい」はギリシャ語の原語からすると誤訳なようです。
正しくは「名をイエスと呼ばれるようになるだろう」という未来形のニュアンスを持った聖句だと、
原典を吟味した人が教えてくれました。
(どうしてこう書かれているのかについては難しいが、とにかく原語はそうだということでした)
ではなぜ翻訳された全ての聖書~英語、フランス語、日本語を問わず~こんなかけ離れた言葉にしているのか。
理由は、いま述べた人の世の性向~オーバーシャドウ効果~に思いが至らなかったことにあると、
鹿嶋は考えています。
「名をイエスと呼ばれるようになるだろう」では何を言っているかわからなかった。
そこでエイッと「名をイエスとつけなさい」にしたのでしょう。
(聖書には他にも、意味がわからないが故に「造ったと推察できる訳」があります。
それについては、その都度指摘することにしましょう)
だが、オーバーシャドウ効果を援用すると、原典での御使いは
「イエスという名の人間が沢山いる中で、イエスという名だけで呼べば彼だとわかる存在に将来なる」
といっていることになる。
他のイエスさんは、みな栃木の裕次郎、宇都宮の裕次郎みたいになってしまう、
そういうイエスになるよ、とこの御使いは預言していることになります。
もちろん、そこには、「だからイエスと名付けなさい」というニュアンスも含まれてないとは言えないので、
まあ翻訳がまるまる百パーセントの間違いとも言えないでしょう。
けれどもかなりのパーセントでの誤訳であることには間違いありません。
訳者は困っちゃってそうしたのだ、と鹿嶋は解しています。
<蛇足>
個人の覚え書き的蛇足です。
この心理効果論がすっかり気に入ってくれている私のゼミでの教え子がいます。
現在都内のミッションスクール系大学の教授をしていいますが、
彼が、学会で私の口からこの効果をいわせようとして、
研究報告する私に一生懸命誘導質問をしてくれたことがありました。
私がなかなかそれに気付かなかったので、後で、苦情を言いました。
もうひとつこれもゼミナールでの話。
かつて現役3年生にこの効果を講じていた時に、いさめられたこともありました。
「外国の学者の理論を言う時には、ちゃんとその人の名前を言ってください。
自分が造ったといってるように聞こえますよ!」と。
これホントの話です。
ゼミで学生にいさめられたのは後にも先にもはじめてなことと、
非常に強い口調で、怒ったように言ったこととで、今も記憶に残っています。
この理論は、ブランド理論への有益な知識になるのですが、
日本の学者への評価姿勢はこの程度で、今も基本的に代わっておりません。
そんなわけで、今もこの効果論は、無視されたままにありますが、
そんな世的なことはこのチャーチではどうでもよく、聖句吟味に役立てば十分です。
オーバーシャドウ効果の故に、修飾語なしのイエスは、かのイエス一人だけにしか通用しないものとなる。
かのキリストの決定的な、文字通りの固有名詞となるのですね。
(で、これがどうして「名の故に迫害してくる」ことにつながるのか?
これについては、17章でつなげてみますね)
今回の聖句はこれです。
BGMは今回もmariさんのこれを感謝して使わせていただきます。
http://aiai.hukinotou.com/
(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「だけど彼ら(世の人々)はそれらのこと(迫害)を諸君に、私の名のゆえに行うんだよ」(15章21節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
前回イエスは、「弟子たちの伝道が成果を上げると、世の人々は諸君を迫害し始めるからね」
とインストラクションしました。
イエスが主人で弟子たちは従者に当たり、
「世の人々は主人の言葉を心に受け入れないから、従者の言葉をも受容しないで、迫害してくる」と教え、
弟子たちが迫害されるのは主人であるイエスの故であって、
憎まれる原因は主であるイエスにあるのだよ、と教示しました。
今回は、そのイエスを憎むさらに根源的な理由をおしえておくところです。
それは「イエスの名」にあるとイエスは教示します。
ここはとても意味深く、すべての解読を書き始めると長いものになります。
本格的な対処は第17章で行うことにして、
ここではその前段階として「名」というものに関する認識論を一般的に考えておこうと思います。
<「名」の認識上の働き>
名というものは、我々の認識上、大きな役割を果たしています。
たとえば、「金(gold)」という名詞を考えましょう。
これを聞くと我々は、その名で呼ばれる一群の物質を想像します。
「黄色の光輝ある金属で、重くて柔らかくで、延性および展性に富み、空気中でも錆びず、
普通の酸に侵されず、王水に溶ける物質」といった定義ができるような物質です。
だがわれわれは、金という名がなくても、その種の物質をある程度は認知することが出来ます。
そうした特徴を持った物質を心にイメージすることでもって、時々は認知するでしょう。
けれどもそうした様式での認知では、その内容は変動しやすく、漠然さがつきまといます。
人々相互の意思交信が不便で、認知は個人レベルに留まり、ときとともに風化もしていくでしょう。
ところがこれに、短く「金」という名を与えますと、我々の認知は明確で固定的なものとなります。
対象の全体を指す、この短い呼び名があると、人々の間での「思い」のやりとりが容易になります。
互いに吟味しあって、その定義をより包括的、論理的に改善していくことも出来ます。
金という呼び名が存在することによって、それによって認識する対象が明確で固定的なものとして浮上するのです。
<人の名も同じ>
人の名についても同じです。
2000年前に新しい福音を宣教したユダヤの若者のことを
「ナザレ出身のユダヤ人で、病人を癒したりする奇跡をたくさん行って、
意味深い教えをして、弟子を従えて宣教して・・・」という様式で、
名前なしで認知することも出来ます。
だが、その場合も、このままではその内容は流動的で、時とともに風化するでしょう。
ところがこの人の「全体を一気に思うことのできる」簡明な名が出現すると、
人々相互の間での「思い」の交信や吟味が容易になり、意味内容も改善して行かれます。
名は、或る対象の明確で固定的な認知に不可欠な存在となり、
人々は、その対象を思うのにまず名を想起するようになります。
そしてそのことが、その対象を認知することと、名を認知することとが
大きく重なっていく状況にも最終的には繋がっていきます。
それを端的に言うと、イエスを認知するというのは、その名を認知することともなる。
この方を憎むということは、その名を憎むということにもなります。
<栃木の裕次郎>
でもこの話には、次のような疑問が自然に湧きます。
つまり、「イエスが活躍した当時には、イエスという名は沢山の人に付けられていた。
イエスの名の故に迫害されるというのなら、他のイエスさんもその使用人も
みな迫害される道理になるのではないか」という疑問が。
確かに当時、イエスの名を付けられた男子は沢山いたようです。
そこでかのイエスも、始めは「ナザレのイエス」と区別して呼ばれていました。
けれども、時と共に、「ナザレの」という修飾語は要らなくなります。
かのイエスが多くの人に知られると、もう「イエス」といえば彼を指すのが通常になるからです。
それに並行して、他のイエスさんは、もうイエスだけでは通用しなくなっていきます。
鹿嶋は、こういう現象を「オーバーシャドウ効果」と呼んでいます。
+++
日本でも昭和30年代に、石原裕次郎という歌手兼映画俳優が日本全国で爆発的に有名になりました。
もちろん当時日本には、裕次郎という名を親に付けられた若者が沢山いました。
けれどもこの俳優の故に、他の裕次郎さんはもう裕次郎だけでは通用しなくなりました。
で、栃木の裕次郎とか、宇都宮の裕次郎とか、益子村の裕次郎とかいうことによってしか、
当人を指すことが出来なくなった。
石原裕次郎によってオーバーシャドウ効果を及ぼされたわけです。
<イエスと呼ばれるようになるだろう>
ルカによる福音書の1章30~31節に次の聖句があります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「すると御使いがいった。『こわがることはない。マリヤ。あなたは創造主から恵みを受けたのです。
ご覧なさい。あなたはみごもって男の子を産みます。名をイエスとつけなさい』」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここでの「名をイエスとつけなさい」はギリシャ語の原語からすると誤訳なようです。
正しくは「名をイエスと呼ばれるようになるだろう」という未来形のニュアンスを持った聖句だと、
原典を吟味した人が教えてくれました。
(どうしてこう書かれているのかについては難しいが、とにかく原語はそうだということでした)
ではなぜ翻訳された全ての聖書~英語、フランス語、日本語を問わず~こんなかけ離れた言葉にしているのか。
理由は、いま述べた人の世の性向~オーバーシャドウ効果~に思いが至らなかったことにあると、
鹿嶋は考えています。
「名をイエスと呼ばれるようになるだろう」では何を言っているかわからなかった。
そこでエイッと「名をイエスとつけなさい」にしたのでしょう。
(聖書には他にも、意味がわからないが故に「造ったと推察できる訳」があります。
それについては、その都度指摘することにしましょう)
だが、オーバーシャドウ効果を援用すると、原典での御使いは
「イエスという名の人間が沢山いる中で、イエスという名だけで呼べば彼だとわかる存在に将来なる」
といっていることになる。
他のイエスさんは、みな栃木の裕次郎、宇都宮の裕次郎みたいになってしまう、
そういうイエスになるよ、とこの御使いは預言していることになります。
もちろん、そこには、「だからイエスと名付けなさい」というニュアンスも含まれてないとは言えないので、
まあ翻訳がまるまる百パーセントの間違いとも言えないでしょう。
けれどもかなりのパーセントでの誤訳であることには間違いありません。
訳者は困っちゃってそうしたのだ、と鹿嶋は解しています。
<蛇足>
個人の覚え書き的蛇足です。
この心理効果論がすっかり気に入ってくれている私のゼミでの教え子がいます。
現在都内のミッションスクール系大学の教授をしていいますが、
彼が、学会で私の口からこの効果をいわせようとして、
研究報告する私に一生懸命誘導質問をしてくれたことがありました。
私がなかなかそれに気付かなかったので、後で、苦情を言いました。
もうひとつこれもゼミナールでの話。
かつて現役3年生にこの効果を講じていた時に、いさめられたこともありました。
「外国の学者の理論を言う時には、ちゃんとその人の名前を言ってください。
自分が造ったといってるように聞こえますよ!」と。
これホントの話です。
ゼミで学生にいさめられたのは後にも先にもはじめてなことと、
非常に強い口調で、怒ったように言ったこととで、今も記憶に残っています。
この理論は、ブランド理論への有益な知識になるのですが、
日本の学者への評価姿勢はこの程度で、今も基本的に代わっておりません。
そんなわけで、今もこの効果論は、無視されたままにありますが、
そんな世的なことはこのチャーチではどうでもよく、聖句吟味に役立てば十分です。
オーバーシャドウ効果の故に、修飾語なしのイエスは、かのイエス一人だけにしか通用しないものとなる。
かのキリストの決定的な、文字通りの固有名詞となるのですね。
(で、これがどうして「名の故に迫害してくる」ことにつながるのか?
これについては、17章でつなげてみますね)