「ヨハネ伝解読」にもどりましょう。
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本日の聖句はこれです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「これらのことを私は諸君に喩えで話してきた。
だが、もはや喩えで話さないで、父について私がはっきり告げる時が来るよ」(16章25節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここで「これらのこと」とは~
「イエスが死んで弟子たちの前からいなくなる。弟子たちは驚き途方に暮れ、悲しむ。
だがその後、復活して再度弟子の眼前に現れる。すると弟子たちはの悲しみは一転歓びに変わる」
~ということでしょう。「そういうことを父(創造主)がなされるよ」というのを
付け加えて考えたい人はそうしてもいいでしょう。
それを「喩えで話してきた」は、全ての言葉が喩えだという意味ではなく、
「喩えを交えて話してきた」ということだと思う。「そのものズバリではいわなかった」と理解してもいい。
例えばイエスはこういっていましたよね。。
「諸君はしばらくしたらわたしを見なくなり、またしばらくすると見る」(17節)
漠然とした表現ですね。
また、弟子たちの気持ちについて、妊産婦の心理をもってきてこう述べてました。
「おんなが子を産む時苦しむが、生んでしまうと歓びのために産みの苦しみを忘れてしまう。
諸君の気持ちはそれに似たことになるよ」(21節)
全部の言葉が喩えではありませんが、そういう風に喩えを交えて
弟子たちの意識にイメージを形成しようとしているわけです。
なぜか?
そんなこと、そのものズバリで言われても、とてもイメージを結べないからです。
「目の前にいるイエス先生が、あの奇蹟を起こす力をもった先生が殺されるなんてあり得ない」
という気持ちが弟子たちには強くあります。
そのイエスが死ぬなどというイメージは意識に形成しがたいのです。
さらに加えて、「殺された上に生き返ってでて来る、ジャーン」なんてもうダメ。
しっかりイメージ出来るわけがない。
生活を共にしてきた弟子たちにも、事実をみる前にはそのものズバリで言っても、
そのとおりのイメージは出来ないのです。
そこでイエスはこういう。
「だけど、事実を見たらもうわかるよ。
そのときには、そのものズバリで話しても諸君はよくわかるから、私はそうするよ」と。
本日の聖句の後半がそれでした。
するとこういう思いが湧きませんか。
「まもなく事実が現れてわかるんだったら、それでいいんじゃないの。
なんで喩えなど使ってたらたら言うのよ」と。鹿嶋などその口です。
理由はおそらくこの後にでて来る聖句が示していそうです。
「諸君が私の中で平安をもつため」(33節)がそれ。
平安というのは、うろたえたら無くなりますよね。
でも、起きたことについて前もって何のイメージももってなかったら、弟子たちはうろたえるしかないですよね。
ところが確固としたものでなくとも、切れ端のようなものだけでも
先行するイメージがあれば、弟子たちはそれと照らし合わせて「悟る」ことが出来ます。
そうすれば理解できて心に平安が来るでしょう。
(実際、ヨハネはこうして次々に起きる驚きの出来事を合点していきます)
だからイエスは、喩えを交えて出来るだけのイメージを
前もって弟子たちの心につくっておこうと苦労しているのでしょう。なんと行き届いた配慮なことか。
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本日の聖句はこれです。
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=聖句=
「これらのことを私は諸君に喩えで話してきた。
だが、もはや喩えで話さないで、父について私がはっきり告げる時が来るよ」(16章25節)
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ここで「これらのこと」とは~
「イエスが死んで弟子たちの前からいなくなる。弟子たちは驚き途方に暮れ、悲しむ。
だがその後、復活して再度弟子の眼前に現れる。すると弟子たちはの悲しみは一転歓びに変わる」
~ということでしょう。「そういうことを父(創造主)がなされるよ」というのを
付け加えて考えたい人はそうしてもいいでしょう。
それを「喩えで話してきた」は、全ての言葉が喩えだという意味ではなく、
「喩えを交えて話してきた」ということだと思う。「そのものズバリではいわなかった」と理解してもいい。
例えばイエスはこういっていましたよね。。
「諸君はしばらくしたらわたしを見なくなり、またしばらくすると見る」(17節)
漠然とした表現ですね。
また、弟子たちの気持ちについて、妊産婦の心理をもってきてこう述べてました。
「おんなが子を産む時苦しむが、生んでしまうと歓びのために産みの苦しみを忘れてしまう。
諸君の気持ちはそれに似たことになるよ」(21節)
全部の言葉が喩えではありませんが、そういう風に喩えを交えて
弟子たちの意識にイメージを形成しようとしているわけです。
なぜか?
そんなこと、そのものズバリで言われても、とてもイメージを結べないからです。
「目の前にいるイエス先生が、あの奇蹟を起こす力をもった先生が殺されるなんてあり得ない」
という気持ちが弟子たちには強くあります。
そのイエスが死ぬなどというイメージは意識に形成しがたいのです。
さらに加えて、「殺された上に生き返ってでて来る、ジャーン」なんてもうダメ。
しっかりイメージ出来るわけがない。
生活を共にしてきた弟子たちにも、事実をみる前にはそのものズバリで言っても、
そのとおりのイメージは出来ないのです。
そこでイエスはこういう。
「だけど、事実を見たらもうわかるよ。
そのときには、そのものズバリで話しても諸君はよくわかるから、私はそうするよ」と。
本日の聖句の後半がそれでした。
するとこういう思いが湧きませんか。
「まもなく事実が現れてわかるんだったら、それでいいんじゃないの。
なんで喩えなど使ってたらたら言うのよ」と。鹿嶋などその口です。
理由はおそらくこの後にでて来る聖句が示していそうです。
「諸君が私の中で平安をもつため」(33節)がそれ。
平安というのは、うろたえたら無くなりますよね。
でも、起きたことについて前もって何のイメージももってなかったら、弟子たちはうろたえるしかないですよね。
ところが確固としたものでなくとも、切れ端のようなものだけでも
先行するイメージがあれば、弟子たちはそれと照らし合わせて「悟る」ことが出来ます。
そうすれば理解できて心に平安が来るでしょう。
(実際、ヨハネはこうして次々に起きる驚きの出来事を合点していきます)
だからイエスは、喩えを交えて出来るだけのイメージを
前もって弟子たちの心につくっておこうと苦労しているのでしょう。なんと行き届いた配慮なことか。