またまた臨時版!
「ヨハネ伝解読」なかなか進みませんねぇ。
また春平太はニッポンキリスト教会の聖日礼拝に行ってきたのです。
というと、いつも文句言ってるのになんで行くの?と疑問を発する読者もおられるでしょう。
創造主を拝することは出来るからです。礼拝メニューには賛美の時間も祈りの時間もありますから。
鹿嶋の流儀に合わないのは、メッセージだけなんです。
で、そのメッセージ。今回はゲストメッセンジャーでした。
有名大病院の元診療科長で、元大学教授を歴任で、という老年の先生。
本日の聖句は使徒パウロのこの言葉でした。
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=聖句=
「また、その啓示があまりにもすばらしいからです。
そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのトゲを与えられました。
それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
しかし、主は『私の恵みはあなたに十分である。
というのは、私の力は弱さのうちに完全に現れるからである』といわれたのです。
ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ですから私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。
なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからです。」コリント人への第2の手紙、12章、7~10節
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<主が与える病もある?>
で、お話は~
「病には謙虚にするために主が与えてくださるものもある。傲慢を自戒し、謙虚に生きましょう」でした。
これに行く過程で、小説家の書いた物語をとりあげたり、詳しいところは忘れましたけれど
「主よ、祈ってもどうにもならないものと、祈って解決されるものを見分ける力をお与えください。」
という主旨の外国の神学者の祈りの言葉を引用したり、知能障害の子供の「病があってよかった。
そのために、弱者への思いやりの心を持てたり、謙虚な心を持つことが出来た」という言葉を引用したりしました。
いいじゃないの!
なんか問題?
という読者の声が聞こえてきそうですね。
結構な話ですけど、聖句主義の流儀からすると、この説教には問題が含まれているのです。
<複数解釈を考えない>
まず、この説教は、始めから終わりまで聖句に複数の解釈を考えていない。
一つの(表面的な)解釈を当然の正解として進んでいます。
正解だと思っているから、他の聖句との繋がりを吟味する必要はありません。
そこで他の聖句を探ることは全くしません。
だから小説家とか神学者の書いた本にすぐ入っていって話を続けることに必然的になります。
だけど、この聖句は他の意味にも解読できますよ。
例えば「これはパウロに対してのみの創主の宣言である」(これを解読②とします)がそれです。
パウロはこの12章の本日の聖句の前の部分(1~6節)で、
「自分は第3の天までいってきた」といっています。
今で言う、幽体離脱です。第3の天は、パラダイスだと推察されます。
最近では、臨死体験(幽体離脱)した人の経験記録を沢山読むことが出来ます。
それらを総合すると、どうもそれは多くの場合、聖書にあるパラダイスという世界だと想像されます。
だけど、パウロは臨死していませんよ。生きてるままで、それらしきところに行ってきている。
普通の人々には出来ない、特別なことです。
また彼は、旧約聖書の聖句に関して圧倒的な知識を持っています。
旧約を「イエスを証言するもの」との視野から次々に解読して「目から鱗」の説教し、
次々に回心者を出し各地に教会を造っていく。すごい癒しの力も現れます。
全く飛び抜けた特別な存在です。他者が及びつかない。
こういう人は、傲慢にもなりやすい。人々から嵐のような礼賛は受けるし、その危険の大きさもまた特別です。
彼の無類の頭の良さが、ついつい身勝手な聖句解読をさせるかも知れません。
だから、主は「彼には」肉体にトゲをのこし、弱さを造っておく必要があった、とも解釈できる。
創造主に「助けて!」と言いたくなる、頼る必要ある状況が常にあるようにしてあげるわけですね。
~こういう解釈ですと、
「一般人に対しては、謙虚にしようという目的で主がわざわざ、悪魔が病を与えるままにしておかれることはない」
となります。
実際、そうでないと、イエスが教えた“主の祈り”のなかの
「我等を試みに会わせず、悪より救い出してください」の聖句と矛盾してしまいます。
<どちらが福音の神髄に沿うか>
鹿嶋は、②が究極的には正しいなどと言っていませんよ。聖句は究極の正解に向けて、限りなく前進できる書物です。
だが、究極の正解はわからなくても、このように複数の解読をメッセンジャーみずからが自覚し、
信徒にも提示することが必要だと鹿嶋は切に思うのです。
なぜならそれによって、信徒の知は解放され、精神が解放される。
一つの解釈を当然とする説教者の姿勢からはそういう解放と自由が与えられず、代わりに束縛を与えるからです。
それだけではない。一つの解釈を当然の正解とすると、もう聖句を調べなくてよくなりますので、
説教者も信徒も聖書を離れることになります。
これは「人は御言葉を食べつづけていくべき」、という福音のの思想に反します。
最後の晩餐の時、イエス「は私の肉を食べ血を飲みなさい」とパンと葡萄酒による聖餐を命じていきました。
ここでは詳しい説明は出来ませんが、イエスの身体は言葉(創主の言葉)が肉体になったものですから、
イエスの肉を食べるというのは、その言葉を咀嚼し続けることです。
また、イエスの血は「いのち」ですが、ともあれ、聖句の言葉を咀嚼し続けるのが、福音活動の本質です。
そして、解読①の方法では、他の本の話しに行ってしまいますから聖句咀嚼・吟味は必然的にしなくなる。
つまりこれは福音の神髄から外れていく方法であり、神髄に沿うのは解読②の方法となる。
<ほんの一寸のずれから>
この差は、巨大ですよ。だけど、その分岐点は、一寸したところにある。
聖句に一つだけの解釈を考えるか、複数の解釈を意識するかだけです。
だが、この一見小さな点で一旦分かれると、その差は根底的なものになっていくのですね。
このゲストメッセンジャー先生は、やはりニッポンキリスト教会育ちのニッポンキリスト者です。
そして、ニッポンキリスト者は教理主義者です。
けれども、彼らはそれを自覚していない。
教理主義だけの世界で育って、聖句主義教会など見たことも触れたこともない。
そういう場合、自分が教理主義だと言うことを自覚できませんので、
正確に言うと、無自覚教理主義者です。
ニッポンキリスト者はみんな無自覚教理主義者。鹿嶋は聖句主義者です。
本日は、その違いを手に取る如くに示せる例に出会いましたので、記しておきます。
ニッポンキリスト教も聖句主義も各々福音の流儀です。
そしてこの二つの流儀はほんの一寸した点でもって分かれるのです。
<福音の宝庫を開くもの>
ところでこういう話、本日のこの聖句を取り上げて、このように解釈説教する話を、
前にも一度ならず聞いたことのある人はいるんじゃないでしょうかね。
なぜならこれは、ニッポンキリスト教のいわゆる「定番」メッセージでもあるからです。
でもニッポンキリスト教世界に生きる日本人は、みんないい人です。
この教会の牧師さんも、ゲストメッセンジャー先生も本当にいい人なのです。
だからこそ、春平太は叫びたい。
その流儀では福音の宝庫の扉は開かないよ! と。
福音の言葉の宝庫は、もっともっと驚くべきものです。
聖句主義に目を開けば、その扉は開くのですよ!と。