ヨハネ伝解読を続けます。
本日の聖句は、前回に続く、次のところです。
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=聖句=
「見なさい。諸君が散らされて、それぞれ自分の家に帰り、私を一人にして残す時が来る。いや、すでに来ている。
だけど私はひとりではないよ。父が私と一緒におられるからだ」(16章32節)
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ここは、前のイエスの言葉、「諸君は今わたしを信じているの?」とつなげて読みたがる人が多いところです。
つまり、「私を信じてる? 嘘でしょ。君たちは私がとらわれる時、みんな逃げてしまうよ」
とイエスが言っている、と解釈する。
だけど、よく考えましょう。
イエスって、そんなに気宇の小さい人でしょうか。
「諸君は信じてるなんて言ってながら、そのときが来るとみんな逃げてしまうよ。ワ~イ、ワ~イ」
なんて感情を持つでしょうか。それは子供の感情です。
こういう矮小な解釈は、
後にペテロがイエスを「知らない」という場面についての大方の見方にも現れますが、それは後述します。
とにかく、そうではなくて、ここは切り離して受け取るべきところ、
すなわちイエスの「諸君は今信じているの?」はそれだけで終わって、次に新しい話をするところと鹿嶋は見ます。
イエスは前の言葉とはつなげないで、「諸君がわたしをひとり残す時が来るよ」といっているのです。
そして、これには聖書全体を支える大前提が関わっています。
それは「創造主から出た言葉には、実在は従う」という前提です。
このあたりは、詳細は拙著『誰もが聖書を読むために』に記しましたが、
とにかく、ここでイエスの口から「諸君が私を一人残す」という言葉が出ている。
そうしたら、実在はそうなるのです。
それは弟子たちの信仰が足りないとか足りるとかいったことによるのではないのです。
もう一つ、留意しておくべきことがあります。
ここにはイエスから離れない例外がいます。
ヨハネとペテロがそれです。
彼らは、イエスに一定の距離を置きながら、イエスが尋問されるところにも同行している。
これはどういうことか。
イエスはいちいち「少数の例外を除いて私から逃げる」とか
「ヨハネとペテロを例外として・・・」などとは言わないのです。
単純明快に語る。
だから、ここでの「諸君は」は、「ヨハネとペテロを除いた諸君は」という意味だととればいい。
そうすれば、「実在は創造主イエスの言葉に従って、そのようになる」ということが真理となるでしょう。
こういう風に、実体を細部にわたって把握していくのは有益です。
これをしないで安直な解釈を鵜呑みにしていると、聖句の深い意味がこぼれ落ちていってしまいます。
そうすると、ヨハネの意識にある状況を、立体的に理解することができなくなってしまいます。