(図はクリックすると拡大します)
(右上に、文字拡大クリックがあります)
みなさん、更新が遅れに遅れてごめんなさい。
ヨハネ伝解読、今回は16章の最後の聖句です。
次回からは17章に入っていきます。
そこにはイエスの父なる創主への祈りが、延々と記されていますが、
とにかく本日はこれです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「諸君にこれらのことを話したのは、諸君が私の中で平安をもつためだ。
諸君は世にいる間は艱難に遭う。だが、勇気を出せ。
わたしはすでに世に勝っているのだから」(ヨハネによる福音書、16章33節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この聖句では「この世」の「世」が何を指すかがポイントです。
イエスは弟子たちに、これから起きる信じがたい出来事を、喩えを出したりして話してきました。
そんな奇想天外なことは、実際に起きて体験しないことには、人間にはわからない。
なのにイエスがそれを口に出す理由が、本日の聖句ではまず最初に出てきます。
それが起きた時に、弟子たちが仰天して途方に暮れないためだ。
イエスが先行して語った言葉に照らし合わせて「ああ、これはあのことだったんだ」と悟れるためです。
すると彼らは心に平安を得ることが出来る。理解は人間にとって、平安の薬なのです。
~でも、このことは前にもイエスは語っていましたね。
<「世」の君主は悪魔>
本日の33節では、「世」がポイントです。
弟子たちは「世にいる間は」艱難に遭う、とイエスは断定します。
~これはまあ、ある程度わかった気持ちになれる。けれども次いでイエスは~
「だが、私は『世に勝っている』」と言っています。
「突然何をおっしゃいますか、イエス先生!」とでも言いたいところです。
+++
でも、ここは「世の支配者は悪魔」「世は悪魔のもの」という、
聖書が世界に対して持っている鳥瞰図を思い出すと理解できます。
鹿嶋は、聖書の空間理念の図をこれまで何度も提示してきましたね。
あれです。
悪魔は創造主に対抗することによって、宇宙という暗闇に追い落とされた。
そこは、悪魔が創造主に対して根底的に敵意をもつことを、証拠づけられるまでは、
容疑者たる悪魔を収監しておく牢屋でしたね。
そして、その牢屋が「世」であって、悪魔はそこの牢名主。
創造主はなんとそこに人間を創って生活させてしまうのでしたね。
そしてイエスが人の姿をとって、そこにやってくる。
いまが、そのやってきている時です。
<人間が創造主に意識を向けないように>
悪魔は、人間が創造主に本格的に意識を向けないように、「世の力」を使って働きかけ、成功しています。
そこにイエスがやってきて、強力に人々の意識を創造主に向けていく。
悪魔は、あらゆる世の力を使って、イエスの仕事を妨害します。
そして、イエスの仕事のクライマックスが、
悪魔が彼を殺すに任せ、それによって悪魔の創造主への敵意を立証することです。
だから、イエスはここは苦しくても、拷問に耐え、殺されねばならないのです。
けれども、これは筆舌に尽くしがたい苦しみです。
イエスは、人間と同じに苦痛を感じることの出来る身体をとってこの世に来ています。
その身体でもって、これからすさまじい拷問を受けることになっています。
むち打たれ、皮膚、肉が破れ、身体の内外で大量の出血をする。
そして傷だらけの身体で息絶えるまで十字架につるされます。これは未曾有の苦痛です。
人間は肉体に拷問を受け続けると、気持ちがぼお~としていきます。
気が遠くなって意志も薄れていく。そして激しい一鞭を受けると「
わかったもうあなた方(世)の言うとおりにする・・・」と口走る傾向をもちます。
悪魔はそういう肉体に対して、
「肉体を大事にしなさいよ。苦しむことなんかないよ。身体の安楽が第一だよ」と働きかけます。
イエスに対してもそうです。
<マタイ伝、「ゲッセマネの祈り」>
だが、父なる創造主の命令は「ここで拷問を受け続けて死ね」です。
人間と同じに苦痛を感じることの出来る身体をとってこの世に来ているイエスです。以前に決心しているとはいえ、それが現実化する直前になって予想される激痛などを思えば、
やはりその心は揺れたのでしょう。
「マタイによる福音書」26章には、イエスはオリーブ山のゲッセマネというところに来て、
ペテロ、ヨハネ、ヤコブの3弟子を連れて行った場面が記されています。
その26章37節には
「イエスは悲しみもだえ始められた」
とあります。
続いて弟子にこう言っている。
「私は悲しみのあまり死ぬほどだ。ここを離れないで、私と一緒に目をさましていてくれ」(38節)
そして一人離れたところに行って~
「出来ることでしたら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。」
と祈っています。
これは「悪魔の本性を立証するという仕事」までを止めさせて下さい、
と言っているのではないでしょう。
その仕事はイエスがこの世に来た最大目的だから、やります。
だが、それを遂行するに
「もう少し苦しみの少ない、別の方法はないのですか。もしあるのならそれにしてください」
と祈っているのです。
<「御心のままに」と三度祈る>
だがそれはない。イエスはその後~
「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」
~と 創主に語りかけています。(39節)
「どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞ御心のままになさって下さい」
~と祈っています。(42節)
マタイ伝はこういう「祈りを繰り返して三度された」と記しています。(44節)
こうしてイエスは、「世(の声)」に打ち勝ったのです。
これが本日の聖句で言う「わたしはすでに世に勝った」の意味でしょう。
こうして、ヨハネ伝は、イエスの長い祈り(17章)に入っていきます。
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みなさん、更新が遅れに遅れてごめんなさい。
ヨハネ伝解読、今回は16章の最後の聖句です。
次回からは17章に入っていきます。
そこにはイエスの父なる創主への祈りが、延々と記されていますが、
とにかく本日はこれです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「諸君にこれらのことを話したのは、諸君が私の中で平安をもつためだ。
諸君は世にいる間は艱難に遭う。だが、勇気を出せ。
わたしはすでに世に勝っているのだから」(ヨハネによる福音書、16章33節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この聖句では「この世」の「世」が何を指すかがポイントです。
イエスは弟子たちに、これから起きる信じがたい出来事を、喩えを出したりして話してきました。
そんな奇想天外なことは、実際に起きて体験しないことには、人間にはわからない。
なのにイエスがそれを口に出す理由が、本日の聖句ではまず最初に出てきます。
それが起きた時に、弟子たちが仰天して途方に暮れないためだ。
イエスが先行して語った言葉に照らし合わせて「ああ、これはあのことだったんだ」と悟れるためです。
すると彼らは心に平安を得ることが出来る。理解は人間にとって、平安の薬なのです。
~でも、このことは前にもイエスは語っていましたね。
<「世」の君主は悪魔>
本日の33節では、「世」がポイントです。
弟子たちは「世にいる間は」艱難に遭う、とイエスは断定します。
~これはまあ、ある程度わかった気持ちになれる。けれども次いでイエスは~
「だが、私は『世に勝っている』」と言っています。
「突然何をおっしゃいますか、イエス先生!」とでも言いたいところです。
+++
でも、ここは「世の支配者は悪魔」「世は悪魔のもの」という、
聖書が世界に対して持っている鳥瞰図を思い出すと理解できます。
鹿嶋は、聖書の空間理念の図をこれまで何度も提示してきましたね。
あれです。
悪魔は創造主に対抗することによって、宇宙という暗闇に追い落とされた。
そこは、悪魔が創造主に対して根底的に敵意をもつことを、証拠づけられるまでは、
容疑者たる悪魔を収監しておく牢屋でしたね。
そして、その牢屋が「世」であって、悪魔はそこの牢名主。
創造主はなんとそこに人間を創って生活させてしまうのでしたね。
そしてイエスが人の姿をとって、そこにやってくる。
いまが、そのやってきている時です。
<人間が創造主に意識を向けないように>
悪魔は、人間が創造主に本格的に意識を向けないように、「世の力」を使って働きかけ、成功しています。
そこにイエスがやってきて、強力に人々の意識を創造主に向けていく。
悪魔は、あらゆる世の力を使って、イエスの仕事を妨害します。
そして、イエスの仕事のクライマックスが、
悪魔が彼を殺すに任せ、それによって悪魔の創造主への敵意を立証することです。
だから、イエスはここは苦しくても、拷問に耐え、殺されねばならないのです。
けれども、これは筆舌に尽くしがたい苦しみです。
イエスは、人間と同じに苦痛を感じることの出来る身体をとってこの世に来ています。
その身体でもって、これからすさまじい拷問を受けることになっています。
むち打たれ、皮膚、肉が破れ、身体の内外で大量の出血をする。
そして傷だらけの身体で息絶えるまで十字架につるされます。これは未曾有の苦痛です。
人間は肉体に拷問を受け続けると、気持ちがぼお~としていきます。
気が遠くなって意志も薄れていく。そして激しい一鞭を受けると「
わかったもうあなた方(世)の言うとおりにする・・・」と口走る傾向をもちます。
悪魔はそういう肉体に対して、
「肉体を大事にしなさいよ。苦しむことなんかないよ。身体の安楽が第一だよ」と働きかけます。
イエスに対してもそうです。
<マタイ伝、「ゲッセマネの祈り」>
だが、父なる創造主の命令は「ここで拷問を受け続けて死ね」です。
人間と同じに苦痛を感じることの出来る身体をとってこの世に来ているイエスです。以前に決心しているとはいえ、それが現実化する直前になって予想される激痛などを思えば、
やはりその心は揺れたのでしょう。
「マタイによる福音書」26章には、イエスはオリーブ山のゲッセマネというところに来て、
ペテロ、ヨハネ、ヤコブの3弟子を連れて行った場面が記されています。
その26章37節には
「イエスは悲しみもだえ始められた」
とあります。
続いて弟子にこう言っている。
「私は悲しみのあまり死ぬほどだ。ここを離れないで、私と一緒に目をさましていてくれ」(38節)
そして一人離れたところに行って~
「出来ることでしたら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。」
と祈っています。
これは「悪魔の本性を立証するという仕事」までを止めさせて下さい、
と言っているのではないでしょう。
その仕事はイエスがこの世に来た最大目的だから、やります。
だが、それを遂行するに
「もう少し苦しみの少ない、別の方法はないのですか。もしあるのならそれにしてください」
と祈っているのです。
<「御心のままに」と三度祈る>
だがそれはない。イエスはその後~
「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」
~と 創主に語りかけています。(39節)
「どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞ御心のままになさって下さい」
~と祈っています。(42節)
マタイ伝はこういう「祈りを繰り返して三度された」と記しています。(44節)
こうしてイエスは、「世(の声)」に打ち勝ったのです。
これが本日の聖句で言う「わたしはすでに世に勝った」の意味でしょう。
こうして、ヨハネ伝は、イエスの長い祈り(17章)に入っていきます。