ヨハネ伝解読、本日は17章の第3回で、聖句も第3節です。
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=聖句=
「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、
あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです」(17章3節)
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この節は、永遠のいのちを得る方法がポイントです。
前の第3節で、イエスは「イエスを信じる者に永遠のいのちを与える権威を、
父なる創主は独り子イエスに与えられた」といいました。
本日の第4節では、その永遠のいのちは「創造主とイエスを知ることによる」といっています。
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ただし聖句では「永遠のいのちとは・・・・を知ること」という表現になっている。
「いのち」はすぐ後に述べるように、鹿嶋はエネルギーと解していますから、
これは具象名詞です。他方、「知ること」は行為を示す抽象名詞ですね。
このふたつは通常等号で結びつきがたい。
やはり「知ることによる」というふうに方法を言っていると解すべきでしょう。
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<いのちはエネルギー>
では、「創造主とイエスを”知ること”」によってどうして永遠のいのちは得られるのか。
これを考えていきましょう。
まず著書でもこのブログでも繰り返し申してきましたが、
鹿嶋は聖書の「いのち」とはエネルギーのような概念だと把握しています。
だからわかりやすくするために「いのちエネルギー」と言い換える。
(聖書の思想ではまた、このエネルギーは全ての存在物の源でもあり、永遠に存続するものです。
全ての被造物は、このエネルギーが転化することによって創造されたものなのです)
他方、人間の霊は、このエネルギーを充電する充電式乾電池のようなイメージになっています。
いのちエネルギーは、人の霊に充電されうるというのが聖書の思想なのです。
そして、人の意識が創造主の意識と共鳴する状態で創造主に向けられているとき霊は充電される。
創造主はいのちエネルギーの源で、エネルギーはそこから常時放射されている
~という思想に聖書はなっているというのが鹿嶋の解読です。
<聖書の「知る」はリアリティ濃く知る>
ところが本日の聖句では、「意識を向ける」ではなく「知る」となっている。これはどういうことか?
まず聖書で用いられる「知る」は、現代我々が通常使う「知る」より重い意味を持っていることを知ってください。
われわれは通常「知る」を「認知する」と解しています。すると認知は軽いものでもいい。
聖書ではそれはむしろ「体験して知る」を意味するのが通常です。
バイブルの「知る」は確信の大きい、深い認識を意味しているのです。
ですからこれは「実感する」というか対象をリアルに、リアリティ(真実味)をもって認識することを意味する。
同じ認識でもリアリティの薄い認識もあります。
対象のイメージでいうと、リアリティ(真実味)が濃いときにはイメージも濃いのではないでしょうか。
そのとき人は、自然にその対象に強く意識を向けるようにもなります。
今回その認識対象が「父なる創主」と「その独り子、イエス・キリスト」なわけです。
そこでこの対象に関する「リアリティ」についてに考えてみましょう。
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<創造主は姿をイメージ出来ない>
万物の創造主を直接認知することは人間にはできません。
創造主は霊であると同時に、時間的にも空間的にも無限者だからです。
空間的に無限者ということは、その像をイメージ出来ないとうことでもあります。
像というのは、有限な広がりを持つものを、その周縁をイメージすることによって成り立つからです。
周縁がないから形がない。
形がないから像のイメージが結べない。
もし結んだら、それは創造主とは無縁な偶像ということになります。
だからイメージが濃いも薄いもない。
そもそも形成することすらでにないのですから。
故にリアルに認識することなどできません。
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<イエスは創造主を実感させる方>
このように創造主の認知は難しいのですが、聖書はその方法を提示しています。
イエスを認識することでもって、それを通して父なる創主を実感するという方法がそれです。
イエスが「わたしを見た者は父を見たんだよ」と弟子ピリポに語った言葉はそれ示しています。
(ヨハネによる福音書、14章9節)
でもこれは短絡的な表現ですね。
実際にはイエスを見たことが、即、父なる創主をみたことになるのではないでしょう。
イエスと父なる創造主は「全く同じ」ではないからです。
つまり、「イエスを知ることで、これこれになって、父なる創主を実感したことになる」
という「これこれ」の説明がここでは必要です。
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<奇蹟と聖句のディテール>
イエスが「父からのものだ」として行う行為がたくさん聖書には記録されています。
代表は奇蹟でしょう。
特に癒しは、創造主が全能で哀れみ深い方であることを実感させてくれます。
奇蹟以外ではどうでしょうか。
イエスの行為を通して 示されるイエスの品性も、創造主の品性を想像させます。
だが、奇蹟を見ることもイエスの品性を感じることも、それがそのまま創造主を深く認識することには繋がりません。
もう一つ、その認識を「深める」方法が必要なのです。
その方法は、結局「聖句を詳しく吟味していくこと」になると思います。
イエスは自分の語る言葉も「父からのもの」といっています。
そして聖書の中のイエスの言葉は多岐にわたっています。
それは旧約聖書を背景にしていますので、旧約の聖句にもつながっています。
その詳細に立ち入って吟味すると、創造主をリアルに実感することに至るのです。
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人間にはそういう心理がある。
小説作法を示す格言に「リアリティ(真実味)はディテール(詳細記述)に宿る」
というのがあります。
小説はつまるところはフィクション(作り話)です。
その作り話にどれだけリアリティを感じさせるか、が作品の勝負所です。
そしてそれはディテールをどれだけ描くかにかかっている、というのです。
司馬遼太郎は歴史小説の中で、しばしば歴史資料から事実を詳細に書き加えています。
それは実は、読者にリアリティ感覚を抱かせる手段でもあったのですね。
聖書を読む時にも同じ心理が働きます。
ディテールに立ち入って吟味すればするほど、聖書の話のリアリティは高まる。
イエスに関する話も、詳細に吟味するほどに、実感が高まる。
父なる創主も深く実感出来るようになります。
そして、そうするとその人の意識は、創主に強く向けられ、
その意識波動も創造主の波動によく共鳴するようになります。
こうしていのちエネルギーは霊に充電されるようになります。
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<聖句主義の利点>
また細部(ディテール)に入ることによって、深い実感を得るというのは聖句主義活動でこそ起きることです。
これは教理主義では得られない感覚です。
教理はディテールを削ぎ落として簡素にしたものですから、探求余地は少ないからです。
鹿嶋はそれ故に、バイブリシズム(聖句主義)活動をキリスト教活動の神髄と見ているわけです。
このことはキリスト教の奥義だと思っています。
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「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、
あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです」(17章3節)
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この節は、永遠のいのちを得る方法がポイントです。
前の第3節で、イエスは「イエスを信じる者に永遠のいのちを与える権威を、
父なる創主は独り子イエスに与えられた」といいました。
本日の第4節では、その永遠のいのちは「創造主とイエスを知ることによる」といっています。
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「いのち」はすぐ後に述べるように、鹿嶋はエネルギーと解していますから、
これは具象名詞です。他方、「知ること」は行為を示す抽象名詞ですね。
このふたつは通常等号で結びつきがたい。
やはり「知ることによる」というふうに方法を言っていると解すべきでしょう。
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<いのちはエネルギー>
では、「創造主とイエスを”知ること”」によってどうして永遠のいのちは得られるのか。
これを考えていきましょう。
まず著書でもこのブログでも繰り返し申してきましたが、
鹿嶋は聖書の「いのち」とはエネルギーのような概念だと把握しています。
だからわかりやすくするために「いのちエネルギー」と言い換える。
(聖書の思想ではまた、このエネルギーは全ての存在物の源でもあり、永遠に存続するものです。
全ての被造物は、このエネルギーが転化することによって創造されたものなのです)
他方、人間の霊は、このエネルギーを充電する充電式乾電池のようなイメージになっています。
いのちエネルギーは、人の霊に充電されうるというのが聖書の思想なのです。
そして、人の意識が創造主の意識と共鳴する状態で創造主に向けられているとき霊は充電される。
創造主はいのちエネルギーの源で、エネルギーはそこから常時放射されている
~という思想に聖書はなっているというのが鹿嶋の解読です。
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<聖書の「知る」はリアリティ濃く知る>
ところが本日の聖句では、「意識を向ける」ではなく「知る」となっている。これはどういうことか?
まず聖書で用いられる「知る」は、現代我々が通常使う「知る」より重い意味を持っていることを知ってください。
われわれは通常「知る」を「認知する」と解しています。すると認知は軽いものでもいい。
聖書ではそれはむしろ「体験して知る」を意味するのが通常です。
バイブルの「知る」は確信の大きい、深い認識を意味しているのです。
ですからこれは「実感する」というか対象をリアルに、リアリティ(真実味)をもって認識することを意味する。
同じ認識でもリアリティの薄い認識もあります。
対象のイメージでいうと、リアリティ(真実味)が濃いときにはイメージも濃いのではないでしょうか。
そのとき人は、自然にその対象に強く意識を向けるようにもなります。
今回その認識対象が「父なる創主」と「その独り子、イエス・キリスト」なわけです。
そこでこの対象に関する「リアリティ」についてに考えてみましょう。
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<創造主は姿をイメージ出来ない>
万物の創造主を直接認知することは人間にはできません。
創造主は霊であると同時に、時間的にも空間的にも無限者だからです。
空間的に無限者ということは、その像をイメージ出来ないとうことでもあります。
像というのは、有限な広がりを持つものを、その周縁をイメージすることによって成り立つからです。
周縁がないから形がない。
形がないから像のイメージが結べない。
もし結んだら、それは創造主とは無縁な偶像ということになります。
だからイメージが濃いも薄いもない。
そもそも形成することすらでにないのですから。
故にリアルに認識することなどできません。
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<イエスは創造主を実感させる方>
このように創造主の認知は難しいのですが、聖書はその方法を提示しています。
イエスを認識することでもって、それを通して父なる創主を実感するという方法がそれです。
イエスが「わたしを見た者は父を見たんだよ」と弟子ピリポに語った言葉はそれ示しています。
(ヨハネによる福音書、14章9節)
でもこれは短絡的な表現ですね。
実際にはイエスを見たことが、即、父なる創主をみたことになるのではないでしょう。
イエスと父なる創造主は「全く同じ」ではないからです。
つまり、「イエスを知ることで、これこれになって、父なる創主を実感したことになる」
という「これこれ」の説明がここでは必要です。
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<奇蹟と聖句のディテール>
イエスが「父からのものだ」として行う行為がたくさん聖書には記録されています。
代表は奇蹟でしょう。
特に癒しは、創造主が全能で哀れみ深い方であることを実感させてくれます。
奇蹟以外ではどうでしょうか。
イエスの行為を通して 示されるイエスの品性も、創造主の品性を想像させます。
だが、奇蹟を見ることもイエスの品性を感じることも、それがそのまま創造主を深く認識することには繋がりません。
もう一つ、その認識を「深める」方法が必要なのです。
その方法は、結局「聖句を詳しく吟味していくこと」になると思います。
イエスは自分の語る言葉も「父からのもの」といっています。
そして聖書の中のイエスの言葉は多岐にわたっています。
それは旧約聖書を背景にしていますので、旧約の聖句にもつながっています。
その詳細に立ち入って吟味すると、創造主をリアルに実感することに至るのです。
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人間にはそういう心理がある。
小説作法を示す格言に「リアリティ(真実味)はディテール(詳細記述)に宿る」
というのがあります。
小説はつまるところはフィクション(作り話)です。
その作り話にどれだけリアリティを感じさせるか、が作品の勝負所です。
そしてそれはディテールをどれだけ描くかにかかっている、というのです。
司馬遼太郎は歴史小説の中で、しばしば歴史資料から事実を詳細に書き加えています。
それは実は、読者にリアリティ感覚を抱かせる手段でもあったのですね。
聖書を読む時にも同じ心理が働きます。
ディテールに立ち入って吟味すればするほど、聖書の話のリアリティは高まる。
イエスに関する話も、詳細に吟味するほどに、実感が高まる。
父なる創主も深く実感出来るようになります。
そして、そうするとその人の意識は、創主に強く向けられ、
その意識波動も創造主の波動によく共鳴するようになります。
こうしていのちエネルギーは霊に充電されるようになります。
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<聖句主義の利点>
また細部(ディテール)に入ることによって、深い実感を得るというのは聖句主義活動でこそ起きることです。
これは教理主義では得られない感覚です。
教理はディテールを削ぎ落として簡素にしたものですから、探求余地は少ないからです。
鹿嶋はそれ故に、バイブリシズム(聖句主義)活動をキリスト教活動の神髄と見ているわけです。
このことはキリスト教の奥義だと思っています。
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