ヨハネ伝解読17章、やっと11節を終えて12節に入れました。
本日の聖句はこれです。
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=聖句=
「わたしが彼らと一緒にいた時、あなたがわたしに下さっている御名のもとで彼らを保ち、また守りました。
かれらのうちだれも滅びたものはなく、ただ滅びの子が滅びました。
それは聖書が成就するためです。」(17章12節)
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前半はこれまでの解読でもうわかりますよね。
イエスの名のもとに弟子たちは保たれ守られた。
イエスが共にいる間は、そうであった、といっている。
そして、これからはイエスは一緒にいなくなる。そうなっても同じように弟子たちを守って下さい、
~と現在祈っているわけですね。
<滅びの子はイスカリオテのユダ>
後半は解読が必要です。
この「滅びの子」これは誰のことを言っているかは、明らかでしょう。
12弟子の一人として、イエスに付き従ってきたイスカリオテのユダがその人です。
ユダはこれからイエスの居所をユダヤ教の高僧たちに知らせに行き、案内してくるのですね。
だけど、何か変ですよ。
イエスはここで「誰も滅びたものはない」といっておきながら、すぐに「滅びの子は滅びた」とっている。
おかしいじゃないですか。
イエスが弟子と共にいる間は、イエスの御名のもとにいた弟子たち全員が守られるはずではないのか。
この法則はどうなったんだ。
にもかかわらずユダが滅びた。なぜだ!
これにつきイエスは「それは聖書が成就するためです」といっています。
「聖書が成就する」というのは、聖書独特の表現です。
それは現実が聖書に記されているようになるという意味です。
またここで「聖書」とは旧約聖書を意味しています。
イエスが祈っているこの時点では、新約聖書はまだ出来上がっていませんでしたから。
旧約聖書にユダの裏切りが預言されている、という。
<詩編の言葉>
旧約聖書はイエスのことを証言する本です。直接証言していないときには、比喩で表現していることになる。
ではここでイエスが示唆している旧約聖書の言葉は何か。それは詩編における次の聖句ではないかとおもわれます。
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「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までもが、
わたしにそむいてかかとを上げた」(詩編41章9節)
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この言葉は、ず~と昔の預言者ダビデが受信した言葉です。
そこでダビデはその言葉を霊感で受信し、それを預かって記録しています。
そしてその「私」は人間には誰だかわからなかったのだけれど、イエスには自分のことだとわかっていたはずです。
すると~
「イエスの信頼した親しい友までもが、裏切ってかかとを上げた」
~という預言だったことになります。
そして現実がそのようになって、ユダが裏切ったわけですね。
さて現実は必ず預言のようになるという法則を法則Aとしましょう。
他方「イエスの名のもとにいれば守られる。滅びない」という法則を法則Bとしましょう。
そして「本日の聖句」におけるイエスの言葉では、法則Aが法則Bを押し切っていることになっています。
どうも法則Aは只者ではないようですね。
<創造主から出た言葉に現実は従う>
聖書の思想には「創造主から言葉が出たら、被造物(物質も)はそれに従う」という鉄則があります。
聖書では実は、その法則が貫徹しているのです。
創主が「光あれ」というと光が出現する、というのはその一つです。
イエスも創造主(霊)です。イエスから「歩け」という言葉が出ると、足萎えも歩き出すというの一例です。
イエスから「見えるようになれ」との言葉が出ると、盲目の人の眼も開く。これも一例です。
旧約の預言というのは、その創造主から出た言葉が記録されたものです。
ならば「預言はかならず成就する」というのも「創主から出た言葉に現実が従う」ことの
一形態だと考えられます。
そして「創造主から出た言葉には、現実は従う」という法則は、
「イエスの名ものとで全員が守られる」という法則Bよりも、根底的で優先的なのだ。
イエスはそれを踏まえて、本日の、一見矛盾する話をしているとおもわれます。