みなさん、すみません。
「ヨハネ伝解読」更新できないままに、年を越してしまいました。
「聖句主義クラブ」の順調な滑り出しのために、忙殺されていました。
ようやっと安定しつつあります。自分は聖句主義で行くと決意された方は、どうぞ参加希望を出して下さい。
会が安定するにつれて、入会条件は緩やかになります。
さて、本日の聖句はこれです。
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=聖句=
「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。(18節)
わたしは彼らのために、わたし自身を聖め分かちます。彼ら自身も真理によって聖めわかたれるためです。(19節)」
(ヨハネによる福音書、17章18~19節)
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<弟子は本来天にいるべき存在>
まず18節です。
イエスは「自分が創造主によってこの世(宇宙)に遣わされた」ということを
確認するように父なる創造主に明言しています。
そして、そのようにして父が自分になされたと同じように「自分も弟子たちをこの世に遣わす」といっています。
弟子たちはすでにこの世にいるのですから、「世に遣わす」というのも変な感じですけれど、
ここは「天に召すのではなく、世で働かせる」ということをそういう形で言っているのでしょう。
あるいは、「弟子たちは本来天に召されているべき存在なのだ」という認識を持っていて、
「その天から遣わすのだ」という感覚でそういっているのかも知れません。
<創主の子が敢えて「自分を聖め世から分かつ」というのは>
19節です。
ここは読み流しやすいところですが、注意深く見ると驚かされます。
イエスは創造主の子ですよね。羊の子が羊であるように、創造主の子は創造主です。
そして創造主はもともと聖いのであって、世とは分かたれているべきものですよね。
ところがイエスはその自分をも「聖め分かつ」とわざわざ言っています。
ならば、イエスは聖いのではなかったのか、と思いたくなります。
ここは、「父はわたしより偉大」といったイエスの言葉を思い出すべきでしょう。
イエスは聖いですよ。この世の人間に比べたら。
だけど肉体を持ってこの世で生きている自分は、やはり世に接して聖さを減少させている面もあると自覚しているのでしょうか。
時には怒ったこともあったしね。
その意味で「父ほど聖くはない」と思っているのではないでしょうか。
それで、あたらめてもういちど、その「聖さ」を増すように努める。
そう意識して「わたし自身を聖める」と創造主に語りかけているのではないでしょうか。
それは何のためか。自分を「世とあたらめて聖め分かつ」ことによって、
自分と一つになる弟子たちも、現状より一層「世と聖め分かたれる」ためだ、とイエスは言っています。
自分はこれから世にいなくなる。
いなくなった後に、弟子たちに自分の言葉を世に伝道さす。
これが確実になされるために、イエスはものすごく入念に下地を整えている。
ことを成功さすには、あまねくこうした行為がいるのではないでしょうか。
ここはそういう場面だろうとおもわれます。